252 生存者あり(日本映画・2008年) |
<梅田ピカデリー>
2008年12月13日鑑賞
2008年12月16日記
銀座にバカでかい雹(ひょう)が降り、東京湾を駆け上がった高波は汐留エリアをひと呑みに。中低層ビルはすべて海水に呑み込まれ、地下鉄の構内は大洪水!さらに、その後は巨大台風が・・・。こりゃすごい。スクリーンを見る限り、首都圏の死傷者は数万いや数十万人・・・?内閣総理大臣を本部長とする非常災害対策本部は?自衛隊の出動は?私はそう思ったが、この映画の狙いは、家族の絆と兄弟の絆を軸としてハイパーレスキュー隊員の活躍を描くこと・・・。しかしそれなら、それ相応のビル火災などの設定をすればいいのでは?あまりのギャップに唖然!また、あまりのつくられた演出に唖然!
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監督:水田伸生
原作・脚本:小森陽一
篠原祐司(中古車販売店店員、元ハイパーレスキュー副隊長)/伊藤英明
篠原静馬(ハイパーレスキュー隊長、祐司の兄)/内野聖陽
重村誠(研修医)/山田孝之
海野咲(気象予報士)/香椎由宇
小暮秋雄(気象庁予報部予報課課長)/西村雅彦
藤井圭介(瓢箪山精密機器社長)/木村祐一
キム・スミン(韓国人ホステス)/MINJI
宮内達也(ハイパーレスキュー副隊長)/山本太郎
篠原由美(祐司の妻)/桜井幸子
篠原しおり(祐司の娘)/大森絢音
青木一平(新米ハイパーレスキュー隊員)/松田悟志
真柴哲司(東京消防庁現場指揮本部本部長)/杉本哲太
2008年・日本映画・133分
配給/ワーナー・ブラザース映画
<「252」ってナニ?>
業界用語は昔からいろいろあるが、「252」はその最たるもの。他方、時代とともに新語が次々とつくり出されるが、去る12月12日に観た『ファニーゲームU.S.A.』(07年)のトリプルSはその最たるもの。トリプルSとは、サディスティック、ショッキング、サスペンスだが、そりゃ教えてもらわなければ誰もわからないはず。それと同じように、「252」というハイパーレスキュー隊で使う業界用語も、教えてもらわなけば誰も知らないはず。
これは東京消防庁で「要救助者」を示す略号で、2回、小休止、5回、小休止、2回と規則正しく音を出していけば、その意味が「要救助者」=「生存者あり」という、いわば一種のモールス信号のようなものらしい。「252」とはそういう意味だとわからなければ全くこの映画に入っていけないから、まずはその予備知識をしっかりと・・・。
<巨大災害に対し、どんな災害対策本部が?>
2008年12月の今、日本列島は経済不況の嵐に襲われているが、この映画の冒頭に描かれる東京はまさに平和そのもの。元ハイパーレスキュー隊員の主人公篠原祐司(伊藤英明)は慣れない車のセールスに手を焼いているようだが、娘しおり(大森絢音)の7歳の誕生日を祝うため、妻由美(桜井幸子)と銀座で待ち合わせをするくらいの余裕はあるみたい。それをみても、この国はなお平和で豊か・・・?
他方、この映画が設定している首都東京を襲う自然災害の規模はデカい。まずは、東京を急襲した雹(ひょう)。その大きさは握りこぶしほどもあるから、頭部にその直撃を受ければ即死しかねない代物だ。これによって、私もよく知っている銀座四丁目交差点や銀座三越の周辺はたちまち逃げ惑う人々で大混乱。さらにビルの窓ガラスは割れ、車は立ち往生。その結果、あちこちで衝突事故が相次ぎ、たちまち銀座周辺は地獄絵図と化していった。
さらにその直後、東京湾に高波(高潮?津波?)が押し寄せてきたから大変。これは、レインボーブリッジを破壊し、一気に品川、新橋方面を中心とした汐留エリアを呑み込む巨大なものだ。したがって、低層ビルはすべてその海水の中に呑み込まれてしまったうえ、海水がものすごい勢いで地下に流れ込んできたから、世界に誇る東京の地下鉄網内の人々はその急流になすすべもなく押し流されるという悲惨な事態に。さらにその後は巨大台風が?そうすると、この高波と巨大台風による死傷者は何万人?
映画冒頭のショッキングな映像としては、これだけで十分迫力がある。さあ、首都東京を直撃したこんな大規模な自然災害に対して、わが国はどんな災害対策本部を立ちあげるの?
<わが国の災害対策法制は?>
私が3人の弁護士と共に『震災復興まちづくりへの模索』(都市文化社)を出版したのは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災の約半年後である1995年8月1日。その執筆のための勉強で思い知らされたのは、わが国の危機管理体制がいかに空虚なものか、そしてまた災害対策基本法と災害救助法を軸とする法的システムがいかに不十分かということ。災害対策基本法は災害対策組織として、①非常災害対策本部(災対法24条)と、②緊急災害対策本部(内閣総理大臣が本部長)(107条)を定めていたが、阪神・淡路大震災の際は、②は設置されず、①が設置されて国土庁長官がその長になった。また、自衛隊の派遣要請は市町村長はできず、都道府県知事が行うものとされていた(自衛隊法83条、自衛隊法施行令105条)が、兵庫県知事の出動要請が遅れたことが自衛隊の災害出動が遅れた原因だとして問題とされたが、ここらあたりの法的整備の不十分さも非常災害が起きてはじめて議論されたもの。
<あまりのギャップに唖然!>
阪神・淡路大震災から既に13年。巨大自然災害に対するさまざまな法的システムの整備はいかに・・・?そう考えながら観ていると、この映画には内閣総理大臣も自衛隊も全く登場しない。ましてや、①非常災害対策本部も②緊急災害対策本部も設置されず、活動するのは東京消防庁が設置した現場指揮本部だけ。「えっ、それってナニ?」映画冒頭にみせつけられた、あれだけの被害を東京消防庁だけで対応するの?そんなバカな!あまりのギャップに私は唖然!
ハイパーレスキュー隊の活動を描くのがこの映画の目的なら、ビル火災とか建設工事事故とか列車の転覆事故とか、そういう局所的かつ一時的な災害の設定で十分では?ハイパーレスキュー隊で使われる252(生存者あり)をテーマとして、東京高速鉄道旧新橋駅ホームに閉じこめられた祐司たちの救出にハイパーレスキュー隊の面々が全力を尽くすわけだが、他の何万、何十万人の死傷者は一体どうなったの?
<なぜ、気象庁予報部が表舞台に?>
この映画がバカバカしいのは、未曾有の巨大自然災害の救出活動に自衛隊が出動せず東京消防庁が指揮しているのに呼応するかのように(?)、気象庁予報部だけが東京消防庁と連携を保ち、データを提供していること。
そのボスが予報課課長の小暮秋雄(西村雅彦)だが、そもそも気象庁予報部は官僚組織の一部にすぎず、非常時大規模災害への対策は政治主導、官邸主導でなければならないはず。こんな巨大自然災害に対して気象庁の一課長が全権指揮をとり、それ以上のエライさんが誰も登場しないとは、こりゃ一体ナニ・・・?
<人間ドラマの主軸は、家族の絆と兄弟の絆だが・・・>
この映画を見終わってからハッキリわかったのは、この映画はハイパーレスキューの献身的な活動を通じて、祐司と由美、しおりの家族の絆そして祐司と静馬(内野聖陽)の兄弟の絆を描くことにあるのだということ。逆にいえば、この家族の絆と兄弟の絆を描くことによって、ハイパーレスキューのキャンペーンをすること・・・?
なるほど、それならそれでわかるのだが、首都東京では何万、何十万人の人々が死傷しているはずなのに、じっくりそんな人間ドラマが掘り下げられ、語られ続けていると、「おいおい、そんなことでホントに大丈夫?」と心配になってくるのは、私だけ?
<面白い組み合わせだが・・・>
旧新橋駅ホームに閉じこめられるという絶望的な状況ながら「絶対に生きて還るんだ!」と頑張るのは、やっとしおりとめぐりあえた祐司の他、瓢箪山精密機器の社長藤井圭介(木村祐一)。いかにも大阪人らしいキャラと風貌の設定だが、その是非は?他方、しおりは銀座で働く韓国人ホステスであるキム・スミン(MINJI)に助けられていたが、この役柄設定の是非は?もう1人興味深いキャラの若者が、重村誠(山田孝之)。祐司がスミンに施した救急処置を見て「完璧だナ」と感心していたことからわかるように、彼は研修医。しかし、どこか投げやりな雰囲気で、祐司に甘えてばかりのイヤな奴。
こんな組み合わせのメンバーの中で、祐司がリーダーシップを発揮したのは当然で、藤井は「252=生存者あり」の合図を必死になって送り続けたが、さて重村は?この映画はこんな非常時の中で登場人物たちそれぞれの人間ドラマが詳しく紹介されるが、これってテレビドラマの延長・・・?
<激論もいいのだが・・・>
旧新橋駅ホーム内でも重村と藤井そしてスミンの激論が展開されるが、救助のあり方をめぐって何度も激論がくり返されるのが、真柴哲司(杉本哲太)を本部長とする消防救助機動部隊の面々。その隊長は篠原静馬で副隊長が宮内達也(山本太郎)。さすがにこの両トップは過去の体験を踏まえた冷静な判断が売りモノだが、若手隊員青木一平(松田悟志)は「待機命令」に対して、「俺たちの安全が要救助者の命より優先されるのは納得がいきません」と反発するところから、激論が。
この第1次激論は「もう、それ以上言うな」という宮内の言葉でケリがついたが、「台風の目」に進入する18分間の無風状態下でのバクチ的な救出活動についての激論がこの映画後半の注目点。「全責任は指揮官の俺がとる」という真柴本部長の態度はカッコいいが、その後の展開をみていると危なっかしいものばかり。もちろん映画だから、スリリングな演出が必要だし、ドラマ性をタップリと盛り込んで気持を盛り上げることが必要なことはわかるのだが、あまりにもミエミエのつくりすぎではテレビドラマの延長・・・?
しかも、いくら気象予報士の海野咲(香椎由宇)が優秀で、小暮課長が頼りにしているといっても、たった一人の職員の判断だけでこんな決断を下していいの?日本国には、こんな非常時にこそ応援を求めるべき優秀な専門家がたくさんいるのでは・・・?
<ガレキの下から「252」が>
この映画のキャッチフレーズは「絶対に生きて還る」と「絶対に助け出す」だが、大災害の中そんな希望的な見方がどこまで通用するの?つまり、多数の死傷者が発生するのが現実なのだが、さてこの映画では?
旧新橋駅ホーム内における祐司の行動は冷静沈着そして生存の可能性を信じた選択はベストだが、そんな中、祐司がしおりに渡した誕生日プレゼントがアダになることに。すなわち、小屋の中で寝ているスミンの世話をしていたしおりが、2次災害発生の直前いったん逃げ出したにもかかわらず、置き忘れた誕生日プレゼントを取りに戻ったため、ガレキの下敷きになってしまったのだ。こんな状況下で小さな子供がガレキの下に。こりゃまさに絶望的。
ところがこの映画では、そんなガレキの下から、2・・5・・2・・と合図を送る音が。たしかにその音は確認できたが、救出する道具も何もない中、しおりの救助はできるのだろうか?
<こんなに簡単に・・・?>
弟はきっと生きている!そう信じているのが祐司の兄で機動部隊隊長の静馬。そして今、機動部隊にははっきりと地下から響いてくる「2・・5・・2」の合図が聞こえたことが報告されたから、あとはダイナマイトで地盤を吹き飛ばして祐司たちが閉じ込められている地点まで穴をあけ、ヘリで救出するだけ。
そう書くといかにも簡単そうだが、ダイナマイトでの爆破に大きなリスクを伴うのは当然。しかも、その作業に許された時間は台風の目に入る18分間だけだから命懸けの作業。しかして、みんなが必死の形相で作業に着手し、無事最初にしおりがヘリで救出され、母娘が抱き合うことができたのは感動的。しかし、続いてスミンが、さらに重村と藤井が救出される中、「俺は最後だ」と言い張る祐司に対して、「カッコつけるなよ」と諭す静馬や宮内の地底での会話(?)を聞いていると、そんなに気楽でいいの?と思わず不安になったが・・・。
<あくまでハッピーエンド?それとも・・・?>
ネタバレ覚悟で書くと、2009年1月17日に公開される『感染列島』(08年)は妻夫木聡扮する救命救急医と檀れい扮するWHOメディカル・オフィサーが主役。そして、檀れいは感染によって死亡するという悲しい結末になるが、これは医療従事者に共通するリスクだから仕方なし。
他方、『252 生存者あり』にみる自然災害もすさまじい規模だから、死傷者が何万人、何十万人出たとしても、それは仕方なし。私に言わせれば、ガレキの底からしおりが救出されたこと自体が絵空事だが、計算より少し早くやってきた吹き戻しによって、上空のヘリの自由がきかなくなったうえ、地盤が崩落していけば大変。つまり、地底に残った祐司と宮内の二人が助かる見込みは、かつて橋下徹知事が「私が立候補することは2万パーセントありません」と言ったのと同じように、全くないはず。それでも祐司は、娘のしおりを無事救出することができ、妻由美の無事も確認できたのだから十分満足しているはず、と物語の悲しい結末に私は納得していたのだが・・・。
<こんなハッピーエンドでいいの?>
そこで、なぜか救助犬がワンワン吠え始めたから、こりゃひょっとして・・・?さらに、耳をすませば、聞こえてくるのが2・・5・・2・・と叩く音。
そもそも、重村と藤井が救出された後、瀕死の重症でタンカで運び出された静馬が、しおりから声をかけられるとすっくと起き上がって会話を始めたうえ、今やしっかりと立って事態を見守っているのはなぜ?また、あれだけの地底に埋め込まれてしまったはずの祐司が今、宮内を背中に背負ってしっかり歩いてくるのは一体なぜ?そもそも、祐司は足にケガをして歩けなかったのではないの?さらに首都東京を襲ってくるはずの巨大台風は一体どうなったの?
何だよ、この映画は?感動的な人間ドラマを演出するのはいいが、あまりにも現実を無視しすぎているのでは?映画ってホントこんなのでいいの・・・?
2008(平成20)年12月16日記