コッポラの胡蝶の夢(アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、ルーマニア映画・2007年) |
<角川映画試写室>
2009年1月15日鑑賞
2009年1月19日記
フランシス・フォード・コッポラ監督が、68歳にしてこんな枯れた(?)パーソナルな作品を!『ゴッドファーザー』(72年)や『地獄の黙示録』(79年)のテイストとは大違いの、コッポラ流「胡蝶の夢」とは?原作はルーマニア文学の巨匠ミルチャ・エリアーデの『Youth Without Youth』だが、そのテーマは?そして、落雷の中一命をとりとめた主人公がみせる、摩訶不思議な人生とは?いかに理解し、いかに解釈するかはあなたの自由だが、そこで問われるのはあなたの感性!しっかりコッポラ監督と勝負しなければ・・・。
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監督・脚本・製作:フランシス・フォード・コッポラ
原作:ミルチャ・エリアーデ『若さなき若さ』(『エリアーデ幻想小説全集第3巻』収録、住谷春也訳)(作品社刊)
ドミニク・マテイ(言語学者)/ティム・ロス
ラウラ(ドミニクの婚約者)、ヴェロニカ、ルピニ/アレクサンドラ・マリア・ララ
スタンチュレスク教授/ブルーノ・ガンツ
ルードルフ博士/アンドレ・ヘンニック
トゥッチ博士/マーセル・ユーレス
6号室の女性/アレクサンドラ・ピリチ
学問僧/エイドリアン・ピンティー
ガヴリーラ医師/フローリン・ピエクジクJr.
キリーラ医師/ゾルタン・バトク
フロントの女性/アナマリア・マリンカ
2007年・アメリカ、ドイツ、イタリア、フランス、ルーマニア映画・124分
配給/CKエンタテインメント
<あれから10年!あれから35年!>
リーガル・サスペンスと呼ばれるジョン・グリシャムの小説は出版されるたびにベストセラーになっていたが、私が1998年6月27日に観たのがフランシス・フォード・コッポラ監督がジョン・グリシャムの原作を映画化した『レインメーカー』(97年)。そして、私が映画評論を書く面白さに目覚めさせてくれたのが、この映画。
そのきっかけは、新日本法規出版の小冊子『法苑』への執筆を依頼されたこと。ここでは肩のこらない随想的な原稿が求められたため、「弁護士の目でみる『映画評論』その1」として、「『レインメーカー』にみるアメリカ法廷映画の面白さ」というテーマがピッタリと考えたわけだ。それは『法苑』118号に掲載され、2002年6月に出版した『SHOW-HEYシネマルーム1』にも転載した。
そんな思い出深い『レインメーカー』を監督したフランシス・フォード・コッポラは、それから10年間1本も映画を撮っていない。そんな彼が10年ぶりに監督・脚本・製作したのが『コッポラの胡蝶の夢』だが、1972年の大傑作『ゴッドファーザー』から35年が経ち、2007年には68歳となった彼が創作意欲をかき立てられたという、現代ルーマニア文学の巨匠ミルチャ・エリアーデが残した摩訶不思議な原作の世界とは・・・?
<邦題も意味シンだが、原題も・・・>
この邦題を見て、生没年が紀元前369~286年と推定されている中国の戦国時代の思想家荘子を思い出す人はかなりの教養人。荘子は老子と並ぶ道教の始祖の1人で、その思想の根本は無為自然を基本とし、人為を忌み嫌うもの。そんな荘子の思想を表す代表的な説話が「胡蝶の夢」。これは、「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだところで夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」というお話だが、この映画は、そんな「胡蝶の夢」をフランシス・フォード・コッポラ監督流に解釈し描いたもの。
他方、この映画の原題は原作と同じ『Youth Without Youth』。つまり『若さなき若さ』。それだけでは何のことかサッパリわからないが、年老いた言語学者ドミニク・マテイ(ティム・ロス)が落雷によって瀕死の重傷を負ったにもかかわらず、奇跡的に回復したうえ、30~40代の若さを取り戻すという基本的なストーリーを見れば、その一部はわかるはず。しかしそれでも、「若さなき若さ」とは一体ナニ?それは、この映画を観ながら、そして見終わった後、じっくりと考えなければ・・・。
<舞台は?時代は?主人公は?>
この映画の舞台はルーマニア。そして、時代はフランシス・フォード・コッポラ監督が生まれた年の1年前である1938年。ナチスドイツがポーランドへ侵攻したのが1939年9月1日だから、ルーマニアにも戦雲が近づいていた時代だ。
主人公は70歳の言語学者ドミニク。彼は恋人のラウラ(アレクサンドラ・マリア・ララ)と別れてまで自己のすべてを捧げ言語の起源の研究を続けてきたが、それすら全うできない人生に絶望し、復活祭の夜ブカレスト北駅に降り立つことに。これは誰も知らないところで自殺しようと考えたため。ところが、突然降り始めた雨の中、傘を広げようとしたドミニクの身体を落雷が貫いたから大変・・・。
<物語の軸は?その解釈はあなた自身で・・・>
落雷によって、全身大火傷を負ったドミニクは病院に運び込まれ、スタンチュレスク教授(ブルーノ・ガンツ)を主治医とするチームの治療を受けたが、一命を取り留めたドミニクは10週間後にはすっかり健康を取り戻したうえ、30~40代の若さに回復するという奇跡を見せつけることに。
これはきっと、あの落雷が生んだ巨大な電気エネルギーのせい?さらに驚くべきは、これによってドミニクの知的能力が飛躍的に増幅したばかりか、もう1人の「分身」まで生み出したこと。こうなりゃ、念願だったあの研究を完成させることができる。そう考えたドミニクは自殺しようとしたことなどコロリと忘れ(?)、授かった能力をフル稼働させて多くの言語をマスターしながら、研究と執筆に没頭していったが、同時に時代は①ルーマニアとナチスドイツとの同盟、②ナチスの敗北、③第2次世界大戦の終了と進んでいった。
さあそんな中、ドミニクの研究は今どんなレベルに?また、ラウラと生き写しの女性ヴェロニカとの運命的な出会いによって、彼の研究はどのような展開に?映画後半は、死の淵から奇跡の生還を果たしたドミニクがヴェロニカと運命的な出会いを果たした後の、二人三脚による夢のような研究の進展を軸に描かれていくが、さてそんなドミニクの研究人生はホンモノ?それとも夢・・・?その解釈は、あなた自身でしっかりと・・・。
<女優に注目 その1ー「あの女優」が1人3役で!>
この映画をどう理解し、解釈し、評価するかは難しい。この映画の主人公は、もちろん26歳から101歳までの姿で登場するドミニクだが、私の注目は1人3役で存在感を見せつける美人女優アレクサンドラ・マリア・ララ。彼女は、①ドミニクのかつての恋人ラウラ、②ドミニクがスイスの山で出会った、ラウラに生き写しの女性ヴェロニカ、そして③何度も輪廻転生していく中で、どこまでも古い言語にさかのぼり、サンスクリット語、バビロニア語、古代エジプト語等を自由に操り、ドミニクの言語研究の集大成に大きく寄与するルピニの3役を1人で見事にこなしている。
『ヒトラー~最期の12日間~』(04年)で、ブルーノ・ガンツ演ずるヒトラーの秘書トラウドゥル・ユンゲ役として大きな存在感を見せてくれた彼女はスクリーン上でそんなさまざまな顔と姿を見せてくれる。その演技力のすばらしさは当然だが、大きく胸の谷間を見せてくれる妖艶な(?)ドレス姿もじっくりと・・・。
<女優に注目 その2ーあのセクシーなナチスのスパイ女は?>
この映画がエッチを売りモノにしたものでないのは当然だが、落雷に打たれたことによってさまざまな奇跡を引き起こしているドミニクの存在はヒトラーの耳まで届き、彼の関心を集めることに。それはゲッベルスの側近であるルードルフ博士(アンドレ・ヘンニック)が唱える「百万ボルト以上の電流の感電によって、人は突然変異を起こす」との仮説が、ドミニクの存在によって証明されそうになったためだ。
そこでルードルフ博士はスタンチュレスク教授に対して、ドミニクのすべてのカルテを提出するよう命ずるとともに、ドミニクに対して女性諜報員を接触させることに。中国で日本の首脳がよく引っかかるハニートラップ作戦だ。その「先兵」となったのが、ルーマニア生まれで本作がデビュー作となった、女優兼ダンサーをしているというアレクサンドラ・ピリチが演ずる「6号室の女性」。そんなアレクサンドラ・ピリチが演ずる、あっと驚くドミニクとのベッドシーンに注目!
<女優に注目 その3ーあのルーマニアの女優も・・・>
2005年10月に撮影を開始したフランシス・フォード・コッポラ監督は、84日間をほとんどルーマニアのキャストとスタッフで撮影したらしい。
第60回カンヌ国際映画祭でパルムドール賞を受賞したクリスティアン・ムンジウ監督の『4ヶ月、3週と2日』(07年)は、ルーマニアのチャウシェスク政権末期(1989年頃)における「妊娠、出産」事情を描いた問題作だったが、そこで圧倒的な存在感を見せつけた女優がアナマリア・マリンカ。
『コッポラの胡蝶の夢』では出番は少ないものの、強く私の印象に残ったのがホテルのフロント係の女性。そんな役に『4ヶ月、3週と2日』でストックホルム映画祭、ヨーロッパ映画賞の最優秀女優賞を受賞した、ルーマニアで今最も注目される若手女優アナマリア・マリンカを起用するのだから、さすがはフランシス・フォード・コッポラ監督!
<コッポラも、70歳近くになればこんな心境に?>
『ゴッドファーザー』(72年)は壮大な叙事詩だったし、『地獄の黙示録』(79年)もベトナム戦争映画のバイブルとなった壮大なドラマだった。コッポラ監督の『レインメーカー』(97年)はそんなイメージをがらりと変えたものだったが、それでも問題提起作という点は共通していた。 しかし、70歳近くになると、そんなコッポラ監督でも心境の変化が起きるもの・・・?
かつての大作づくりに飽きた(?)コッポラ監督は、『レインメーカー』以降映画づくりの原点を、パーソナルかつインディペンデント的な映画に置いたらしい。
プレスシートによると、そんな中でめぐりあったのが、現代ルーマニア文学の巨匠ミルチャ・エリアーデの原作。「これは映画化できる!誰にも言うまい」と決心した彼の新たな映画づくりがそこから始まったわけだ。
前述のようにこの映画の解釈評論は難しい。本能寺の炎の中で切腹する時、織田信長は大好きな舞の『敦盛』の一節「人間50年。下天の内を比ぶれば、夢まぼろしの如くなり」とうたったらしいが、まさに人生は夢まぼろし・・・?そんな風に壮子が説き、信長も感じた人生をコッポラなりに解釈し、映像で表現した映画がこれ。
さあ2009年にちょうど70歳になるコッポラの、そんな心境の変化をあなたはどう読む?またこれがラスト作ではないであろう彼の、70歳以降の作品の傾向をどう読む?私にはそれはわからないが、少なくとも70歳を迎えることを契機として彼が新たな心境と新たな映画づくりのレベルに入ったことは確かだろう。
2009(平成21)年1月19日記