2009年 04月 24日
ダウト-あるカトリック学校で-(アメリカ映画・2008年) |
洋09-39 ★★★★★
<角川映画試写室>
2009年2月18日鑑賞
2009年2月21日記
私は昔から「ナポレオン」や「ダウト」というトランプゲームが大好きだったが、本作はそんなお気軽なゲームではない。テーマはメリル・ストリープ演ずる厳格なカトリック学校長の心に芽生えた、フィリップ・シーモア・ホフマン演ずる人気花形神父と黒人男子生徒との間の不適切な関係をめぐる「ダウト」!大成功した舞台劇の映画化は難しいが、『フロスト×ニクソン』(08年)をみても成功の確率は高いはず。会話劇のスリルと面白さ、そして言葉の重みと迫力を堪能したい。ちなみに、少しこれをアレンジすれば日本版『ダウト』の創作も可能では・・・?
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監督・脚本・原案:ジョン・パトリック・シャンリィ
原作:『ダウトー疑いをめぐる寓話』(白水社刊)
シスター・アロイシス・ボーヴィエ(カトリック系学校校長)/メリル・ストリープ
ブレンダン・フリン神父(司祭)/フィリップ・シーモア・ホフマン
シスター・ジェイムズ(新米の女性教師)/エイミー・アダムス
ミラー夫人(ドナルドの母親)/ヴィオラ・デイヴィス
ドナルド・ミラー(黒人の男子生徒)/ジョセフ・フォスター二世
2008年・アメリカ映画・105分
配給/ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン
<傑作舞台劇から傑作映画へ!>
プレスシートによれば、2004年秋にオフ・ブロードウェイで初演された舞台劇『ダウト』はその後すぐにブロードウェイでの上演が決定されて大ヒットし、2005年のトニー賞最優秀作品賞をはじめ主要4部門とピュリッツァー賞演劇賞をダブル受賞した傑作舞台劇。他方、本作の脚本を書き自ら監督したジョン・パトリック・シャンリィは、『月の輝く夜に』(87年)でアカデミー賞脚本賞に輝き、脚本家として長く映画の世界で活躍してきた人物で、戯曲『ダウト』を書いた人物。つまり、舞台劇として大ヒットしたのならきっと映画化しても成功するはずと考えたわけだが、舞台と映画は別モノ。したがって、舞台の成功は必ずしも映画の成功に結びつくものではない。しかし、素材の良さは保証されているのだから、いい俳優を得ていい演出をすれば映画でも成功する可能性が高いのは当然。
舞台劇の傑作が映画でも大成功した例は、2月9日に観た『フロストxニクソン』(08年)。もちろん、私自身の目で舞台と映画を見比べることはできないが、『フロストxニクソン』と同じように選び抜かれた言葉の応酬による「会話劇」の迫力と面白さに脱帽。麻生総理をはじめとして「言葉の軽さ」が目立つ日本人政治家や、近時レベルの低下が心配される法科大学院の院生や若手弁護士は、こんな迫力ある会話劇から学ぶことが多いのでは。
<あの名女優の真骨頂がここに!>
プレスシートによれば、ジョン・パトリック・シャンリィが戯曲『ダウト』を映画化するについては、企画段階からカトリック学校長のシスター・アロイシス・ボーヴィエ役にメリル・ストリープを思い描いていたらしい。この映画のポイントはタイトルどおり「ダウト」だが、トランプの「ダウト」なら誤ったカンや確信で「ダウト!」と宣言してもゲームに負けるだけ。しかし校長たるシスター・アロイシスが司祭のフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)に対して、この映画で描かれるような「ダウト」をかけたら大問題になるのは当然。
酒に酔って夜遅く自宅に戻った亭主の上着に口紅がついていたとして夫に浮気?不倫?と「ダウト」をかけるのは妻の特権だが、そんな場合概ね妻が心配するほど亭主はモテてないものと相場は決まっている。しかし、この映画におけるシスター・アロイシスのフリン神父に対する「ダウト」は執拗で確信に満ちたもの。
前作『マンマ・ミーア』(08年)では年齢を無視し(?)、またガラにも似合わず(?)底抜けに明るい母親役を目いっぱい演じたメリル・ストリープだが、うってかわって本作では何とも難しい性格の女性シスター・アロイシスを熱演。本作でのゴールデングローブ賞主演女優賞ノミネートを含めて史上最多23回のノミネートを受けた(アカデミー賞ノミネートは14回、主演女優賞1回、助演女優賞1回受賞)メリル・ストリープは、やはりこんないけ好かない役(?)でこそ真骨頂が。
<1964年VS2004年VS2008年>
ジョン・パトリック・シャンリィの戯曲『ダウト』が初演されたのは2004年だが、そこに描かれているのは1964年当時のニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校、セント・ニコラス・スクールで起きたある「ダウト」。日本人にはわかりにくいが、1964年(60年代前半)のアメリカは、ケネディ大統領の登場と暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師による公民権運動の高揚に象徴される、大きな価値観転換の時代。つまり1950年代に多くのアメリカ人が信じていた思考方法、行動様式に「ダウト」が突きつけられたわけだ。ベトナム戦争反対の大きなうねりが生まれたのもこの時代。日本でもその影響を受けて、1960年代後半には学園紛争が生まれることになった。
他方、舞台劇「ダウト」が上演されて絶賛された2004年は、2001年の9・11テロを契機としたアフガン戦争の発生とイラク戦争の開始でアメリカが大きく揺れ動いた時代。そして、映画化された本作が上映される2009年は、サブプライムローン問題に端を発したアメリカ発の金融危機が全世界に波及し深刻な経済危機を招くと共に、オバマ新大統領の「チェンジ」に大きな期待がかかっている激動の時代。
<「ダウト」の中身は?>
オバマ新政権の国務長官として2月16日来日したヒラリー・クリントンは第42代大統領ビル・クリントンの妻。第37代大統領ニクソンは「ウォーターゲート事件」で大きな汚点を残したが、クリントン大統領が残した汚点はホワイトハウス実習生のモニカ・ルインスキーとの「不適切な関係」。しかして、この映画が描くシスター・アロイシスのフリン神父に対する「ダウト」とは?
それは、セント・ニコラス・スクール唯一の黒人男子生徒ドナルド(ジョセフ・フォスター二世)とフリン神父との「不適切な関係」だ。ドナルドはフリン神父が行う礼拝の侍者役だが、その担任である新米女性教師シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)がシスター・アロイシスに対して、フリン神父がドナルドに強い関心を持っていると報告したことから、シスター・アロイシスの「ダウト」は深まっていく。酒臭い息をしたドナルドとフリン神父が2人きりでいるところを目撃したシスター・ジェイムズは、当然の義務としてそれを報告したわけだ。
フリン神父を校長室に呼んだシスター・アロイシスの追及は厳しく、曖昧な答えを許さなかったため、仕方なくフリン神父が答えたのは「ドナルドが祭壇用のワインを飲み、そのスキャンダルから生徒を守ろうとした」というもの。純真なシスター・ジェイムズはたちまちこれを信用して「これにて一件落着」と喜んだが、さまざまな人生経験をしているシスター・アロイシスはそうはいかず、彼女の「ダウト」は深まるばかり。さあフリン神父とドナルドとの間に「不適切な関係」はあったの?それともフリン神父はただ1人の黒人生徒であるためいじめられっ子となっているドナルドを守るため、あれこれと目をかけていただけ?
<弁護士の私の目で見ると>
35年間弁護士稼業を続けてきた私は、フリン神父の説明を聞いて単純に納得するシスター・ジェイムズの姿勢には同調できず、あくまで「ダウト」をかけて真相究明を目指すシスター・アロイシスの姿勢に賛成。もっとも、何の証拠もなく一方的に「ダウト」をかけられたフリン神父は迷惑千万。これでは、シスター・アロイシスはかんぽの宿を109億円でオリックスに売却することに「ダウトあり!」と主張し調査に乗り出した鳩山邦夫総務大臣のようなもの・・・?
ただし、決定的に違うのは、総務大臣は法律にもとづく立ち入り調査権等の権力を持っているのに対し、シスター・アロイシスは何の権力も持っていないこと。したがってあくまで言葉の勝負、つまりディベートによって決着をつけなければならないのだが、弁護士の私の目にはそんな2人の今後の言葉の対決に興味が深まっていくばかり。
<校長と神父の価値観の対立がすべての根源!>
1964年は価値観が大きく変動した時代だけに、同じセント・ニコラス・スクールで校長と司祭として働いていても、シスター・アロイシスとフリン神父の価値観が正反対だったのは仕方がない。しかしそれが、ある「ダウト」によって反目しあうと大変な事態に。
鉄の規律を重んじるシスター・アロイシスの厳格さは徹底している。というより想像を絶するもので、いわばナチスドイツのゲシュタポみたいなもの・・・?それを実感するのは、第1に情け容赦ない彼女自身による監視の目。シスター・アロイシスの目にかかれば、生徒たちがかげに隠れてコソコソ悪いことをやっているのはすべてお見通し。したがって、「校長室へ!」というのが生徒たちにとって最大の恐怖だ。第2は、シスターたちが集まった食事風景。ここではきっと「食事中はおしゃべり厳禁!」なのだろう。シスターたちは気まずい沈黙の中、黙々とナイフとフォークを使って皿の上の料理を口に運んでいるが、これでは全然おいしくないはず。
フリン神父の説教が示唆に富み、聴衆に深い説得力を与えるのは、神への敬虔な信仰心もさることながら、きっと彼の豊かな人生経験にもとづく大きな「人間力」のため。いつの時代でも保守派VS進歩派、守旧派VS改革派が存在するが、教会のあり方をめぐる議論においてもシスター・アロイシスとフリン神父は正反対で、フリン神父は当然進歩派であり改革派。そんなフリン神父が、生徒たちや多くの信者に尊敬されていたのは当然。したがって、フリン神父の食事風景はシスター・アロイシスとは正反対。同僚の神父と一緒の食事風景は、やかましすぎるのではないかと心配するほど大声で話し合い、大声で笑い合う楽しそうなもの。かねてから指摘されていた飲酒癖が原因で財務大臣と金融担当大臣を辞任せざるをえなくなった中川昭一氏ほどではないが、その食事の席にはワインも出されているようだ。
この映画を理解するためには、1964年という時代設定の中だからこそ浮かびあがる、この2人の対立する価値観をまずきっちり理解することが必要だ。
<会話劇としての見どころ その1、シスター・アロイシスVSシスター・ジェイムズ>
映画冒頭に登場する、教会の大聖堂でフリン神父が多くの信者や生徒たちに対して語る「疑惑というものも強力な絆になり得るのです!」という説教が興味深い。この映画では、これを含めてフリン神父の説教が3回登場するが、その内容はどれもすばらしいものだから注目したい。
あえて「疑惑」をテーマとした説教をフリン神父がしたのは、シスター・アロイシスに対するあてつけ?純真な新米教師のシスター・ジェイムズがそう感じたのは当然。それは、この映画のさまざまなシーンで見せつけられる、シスター・アロイシスの生徒たちに対するあまりに度を過ぎた「疑惑」のオンパレードをみればすぐにわかる。
生徒の言葉をすぐに信用するシスター・ジェイムズに対して、校長のシスター・アロイシスが説くのは「物事を“疑惑”の目で見なければならない」ということ。それに対して、シスター・ジェイムズは「疑惑をもつことによって神様が遠ざかってしまう」と反論するが、それに対するシスター・アロイシスの再反論は「悪事に立ち向かおうと1歩踏み出せば、それは神様から1歩遠ざかることになる。しかし、それは神のために成す行為だ」というものだ。
さああなたは、こんなシスター・アロイシスとシスター・ジェイムズのディベートについて、どちらの軍配を?
<会話劇としての見どころ その2、シスター・アロイシスVSミラー夫人>
出演シーンは少ないが、本作の会話劇で大きな存在感を示すのがドナルドの母親であるミラー夫人(ヴィオラ・デイヴィス)。ミラー夫人を学校に呼び出したのはシスター・アロイシス。その目的は、ドナルドとフリン神父との不適切な関係を裏づけるための事情聴取。こんな刑事のようなことも、シスター・アロイシスにとっては聖職者にある者としての大切な職務と考えているわけだ。
生きていくために働かなければならないミラー夫人が、事情聴取に応じるためにとれる時間は30分ほど。そこで校長室内での話し合いだけでは時間的に不十分と考えたシスター・アロイシスは、ミラー夫人の帰り道を一緒に歩きながら話そうとしたから、その職務熱心さには恐れ入る。ちなみに、「枕を持って屋根の上に登った女性がナイフで枕を切り開いた結果、周囲に広がり落ちていく羽を、女性は拾い集めることができるだろうか?」と問題提起をし、「噂とはそういうものだ」と何とも含蓄のある説教を終えたばかりのフリン神父が偶然通りかかった時に見えたのが校長室に入っているミラー夫人。「なぜミラー夫人を呼んだのだ!」と詰め寄るフリン神父とシスター・アロイシスとの会話劇がこの映画のラストのクライマックスだが、その伏線として用意されているのが、ミラー夫人の自宅近くになって俄然白熱する、ドナルドの「ある性質」をめぐるシスター・アロイシスとミラー夫人との議論。
<「ある性質」が問題?それとも「ある行動」が問題?>
もともとミラー夫人はフリン神父のファン。なぜならフリン神父はドナルドを何かと気にかけてくれ、何かと親切にしてくれているから。それに対して、シスター・アロイシスが「フリン神父はドナルドに対して不適切な関係を求めているダウトがある」と水を向けると、そこでミラー夫人は「それを望む子もいる」と何とも意外な告白を。
ミラー夫人が期待しているのは、ドナルドが何の問題も起こさず無事セント・ニコラス・スクールを無事卒業すること。そうすれば、次のハイスクールやカレッジへの道が自動的に開かれるのだから。ところがセント・ニコラス・スクールで問題を起こし退学処分でも受ければ、ドナルドの一生は台無し。ドナルドは公立校では殺されてしまうと考えてセント・ニコラス・スクールへ入学させたのだから、なんとしても問題を起こさずに卒業させたい。ミラー夫人は涙を浮かべながら懸命にそう訴えたが、それを望む「ある性質」が問題なのか、それとも、「ある行動」をとったことが問題なのかは別として、ミラー夫人の話を聞いたシスター・アロイシスがそこで立てた方針は「ドナルドの退学」?それとも「フリン神父の追放」?
私の考えでは、ドナルドの「ある行動」について問題提起をし質問してくるシスター・アロイシスに対してミラー夫人がまともに応じ、ドナルドの「ある性質」について、ベラベラと告白したのがまちがい。つまり、ミラー夫人がそんな告白をしなければ、世の中のことを知ってるつもりでも実はあまりわかっていない(?)シスター・アロイシスの、フリン神父に対する「ダウト」が「確信」に転じることはなかったのでは?
ちなみに、ミラー夫人を演じたヴィオラ・デイヴィスがゴールデングローブ賞助演女優賞にノミネートされたのは、このメリル・ストリープとの短い会話劇のおかげ(?)だから、その効率の良さは抜群。
<会話劇としての見どころ その3、シスター・アロイシスVSフリン神父>
プレスシートによれば「シスター・アロイシス役をメリル・ストリープが引き受けたことで、フリン神父を演ずる俳優の選択肢はぐっと狭まり、クライマックスで彼女と対峙できるほどのパワフルな人物が必要となった」らしい。そこで白羽の矢が立ったのがフィリップ・シーモア・ホフマン。たしかに『カポーティ』(05年)でアカデミー賞とゴールデングローブ賞を受賞した彼の存在感は大きい。
自分の説教中にミラー夫人を校長室に呼び出したことに血相を変えて怒鳴り込んできたフリン神父は、シスター・アロイシスに対して一気にそれまでの不満を爆発させ、「自分に対する根拠のない反対運動を直ちにやめろ」と迫ったが、そんな迫力にたじろぐシスター・アロイシスではない。それどころか逆に「私は確信をもっている。だからあなたは司祭の職を辞任しなさい」と迫ってきたからすごい。『フロストxニクソン』(08年)は全米進出の夢をかける司会者と政界復帰を目指す元大統領との熾烈なトークバトルだったが、本作の白熱したラスト15分間のシスター・アロイシスとフリン神父の会話劇、というより「言葉のバトル」の迫力もすごい。
2009年5月から実施される裁判員裁判でもこんな迫力ある検察側VS弁護側のバトルを期待したいものだが、そういう裁判を実現するためには本作のような会話劇、言葉によるバトルを学ぶことが不可欠だ。暴力に訴えることもなく、感情に流された議論に陥ることもなく、たまには大声を出すものの声の大きさ合戦になることもなく、あくまで冷静に言葉を選びながら展開されるシスター・アロイシスとフリン神父の「言葉のバトル」はとにかく最高!裁判員裁判実施に向けて弁護士の裁判員へのプレゼン能力向上のための研修が盛んだが、そんなくだらない「授業」を受けるより、こんな映画のこんな会話劇から学ぶことの方が大きいのでは・・・?
<勝負の決着は、あなた自身の目で>
この映画には3つの対話劇の中で、「疑惑」「確信」「立証」「証拠」などの法律用語(?)や「告白」「懺悔」「告解」などの宗教用語(?)が頻繁に登場する。また、①「証拠はあるのか」、②「立証はできないが、確信がある」、③「確信があると言っても、それは感情だ」などの法律的フレーズ(?)や、①「罪を犯したことはあるが、それは告白し懺悔して許されてきた」、②「辞任は告解と同じだ」、③「悪を駆逐するためには、神から遠ざかることもある」などの宗教的フレーズ(?)が強く印象に残る。
司祭の任命権は主任司祭にあるらしい。15分間にわたる激論を終え、あくまで辞任を求めるシスター・アロイシスはフリン神父を校長室に残し、「電話は自由に使ってくれ」と言い放って出て行ったが、さて1人残ったフリン神父はそこでいかなる行動を?少なくとも彼は自分の気持を整理し、愛用する聖書を机の上に置き、電話に手をかけたことはまちがいないが、さてその架電先は?そして、そこで彼が告げたことは?それはあなた自身の目でしっかりと。
<最後の説教は?>
あの迫力あるバトルシーンから舞台は変わり、大聖堂におけるフリン神父の3度目つまり最後の説教のシーンとなる。そこで彼が話すのは、「別れることはつらいが、それはやむをえない」という辞任の言葉。フリン神父は今まで親しくつき合ってきた生徒や信者たち1人1人の手を握り、別れのあいさつを述べていった。するとやっぱり、勝負はシスター・アロイシスの勝ち・・・?たしかに、フリン神父がセント・ニコラス・スクールを去ることになったのはまちがいないが、それはシスター・アロイシスの追放劇が成功したため?
最後のシーンとなるシスター・アロイシスとシスター・ジェイムズの静かな会話を聞いていると、意外にそうでもないようだ。シスター・アロイシスとフリン神父の勝負の行方とは別に、世間におけるシスター・アロイシスとフリン神父の評価は?そして、それにもとづいて下されたフリン神父の処遇は?ひょんなきっかけから生まれ、シスター・アロイシスの心の中で大きく広がっていった「ダウト」がこんな大事件になろうとは!
この映画はもちろんシスター・アロイシスとフリン神父の価値観について、あるいはシスター・アロイシスによるフリン神父の追放劇についてどちらの側にも立っておらず、その判断は観客に委ねられているが、さてあなたの判断は?
2009(平成21)年2月21日記
<角川映画試写室>
2009年2月18日鑑賞
2009年2月21日記
私は昔から「ナポレオン」や「ダウト」というトランプゲームが大好きだったが、本作はそんなお気軽なゲームではない。テーマはメリル・ストリープ演ずる厳格なカトリック学校長の心に芽生えた、フィリップ・シーモア・ホフマン演ずる人気花形神父と黒人男子生徒との間の不適切な関係をめぐる「ダウト」!大成功した舞台劇の映画化は難しいが、『フロスト×ニクソン』(08年)をみても成功の確率は高いはず。会話劇のスリルと面白さ、そして言葉の重みと迫力を堪能したい。ちなみに、少しこれをアレンジすれば日本版『ダウト』の創作も可能では・・・?
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監督・脚本・原案:ジョン・パトリック・シャンリィ
原作:『ダウトー疑いをめぐる寓話』(白水社刊)
シスター・アロイシス・ボーヴィエ(カトリック系学校校長)/メリル・ストリープ
ブレンダン・フリン神父(司祭)/フィリップ・シーモア・ホフマン
シスター・ジェイムズ(新米の女性教師)/エイミー・アダムス
ミラー夫人(ドナルドの母親)/ヴィオラ・デイヴィス
ドナルド・ミラー(黒人の男子生徒)/ジョセフ・フォスター二世
2008年・アメリカ映画・105分
配給/ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン
<傑作舞台劇から傑作映画へ!>
プレスシートによれば、2004年秋にオフ・ブロードウェイで初演された舞台劇『ダウト』はその後すぐにブロードウェイでの上演が決定されて大ヒットし、2005年のトニー賞最優秀作品賞をはじめ主要4部門とピュリッツァー賞演劇賞をダブル受賞した傑作舞台劇。他方、本作の脚本を書き自ら監督したジョン・パトリック・シャンリィは、『月の輝く夜に』(87年)でアカデミー賞脚本賞に輝き、脚本家として長く映画の世界で活躍してきた人物で、戯曲『ダウト』を書いた人物。つまり、舞台劇として大ヒットしたのならきっと映画化しても成功するはずと考えたわけだが、舞台と映画は別モノ。したがって、舞台の成功は必ずしも映画の成功に結びつくものではない。しかし、素材の良さは保証されているのだから、いい俳優を得ていい演出をすれば映画でも成功する可能性が高いのは当然。
舞台劇の傑作が映画でも大成功した例は、2月9日に観た『フロストxニクソン』(08年)。もちろん、私自身の目で舞台と映画を見比べることはできないが、『フロストxニクソン』と同じように選び抜かれた言葉の応酬による「会話劇」の迫力と面白さに脱帽。麻生総理をはじめとして「言葉の軽さ」が目立つ日本人政治家や、近時レベルの低下が心配される法科大学院の院生や若手弁護士は、こんな迫力ある会話劇から学ぶことが多いのでは。
<あの名女優の真骨頂がここに!>
プレスシートによれば、ジョン・パトリック・シャンリィが戯曲『ダウト』を映画化するについては、企画段階からカトリック学校長のシスター・アロイシス・ボーヴィエ役にメリル・ストリープを思い描いていたらしい。この映画のポイントはタイトルどおり「ダウト」だが、トランプの「ダウト」なら誤ったカンや確信で「ダウト!」と宣言してもゲームに負けるだけ。しかし校長たるシスター・アロイシスが司祭のフリン神父(フィリップ・シーモア・ホフマン)に対して、この映画で描かれるような「ダウト」をかけたら大問題になるのは当然。
酒に酔って夜遅く自宅に戻った亭主の上着に口紅がついていたとして夫に浮気?不倫?と「ダウト」をかけるのは妻の特権だが、そんな場合概ね妻が心配するほど亭主はモテてないものと相場は決まっている。しかし、この映画におけるシスター・アロイシスのフリン神父に対する「ダウト」は執拗で確信に満ちたもの。
前作『マンマ・ミーア』(08年)では年齢を無視し(?)、またガラにも似合わず(?)底抜けに明るい母親役を目いっぱい演じたメリル・ストリープだが、うってかわって本作では何とも難しい性格の女性シスター・アロイシスを熱演。本作でのゴールデングローブ賞主演女優賞ノミネートを含めて史上最多23回のノミネートを受けた(アカデミー賞ノミネートは14回、主演女優賞1回、助演女優賞1回受賞)メリル・ストリープは、やはりこんないけ好かない役(?)でこそ真骨頂が。
<1964年VS2004年VS2008年>
ジョン・パトリック・シャンリィの戯曲『ダウト』が初演されたのは2004年だが、そこに描かれているのは1964年当時のニューヨークのブロンクスにあるカトリック学校、セント・ニコラス・スクールで起きたある「ダウト」。日本人にはわかりにくいが、1964年(60年代前半)のアメリカは、ケネディ大統領の登場と暗殺、マーティン・ルーサー・キング牧師による公民権運動の高揚に象徴される、大きな価値観転換の時代。つまり1950年代に多くのアメリカ人が信じていた思考方法、行動様式に「ダウト」が突きつけられたわけだ。ベトナム戦争反対の大きなうねりが生まれたのもこの時代。日本でもその影響を受けて、1960年代後半には学園紛争が生まれることになった。
他方、舞台劇「ダウト」が上演されて絶賛された2004年は、2001年の9・11テロを契機としたアフガン戦争の発生とイラク戦争の開始でアメリカが大きく揺れ動いた時代。そして、映画化された本作が上映される2009年は、サブプライムローン問題に端を発したアメリカ発の金融危機が全世界に波及し深刻な経済危機を招くと共に、オバマ新大統領の「チェンジ」に大きな期待がかかっている激動の時代。
<「ダウト」の中身は?>
オバマ新政権の国務長官として2月16日来日したヒラリー・クリントンは第42代大統領ビル・クリントンの妻。第37代大統領ニクソンは「ウォーターゲート事件」で大きな汚点を残したが、クリントン大統領が残した汚点はホワイトハウス実習生のモニカ・ルインスキーとの「不適切な関係」。しかして、この映画が描くシスター・アロイシスのフリン神父に対する「ダウト」とは?
それは、セント・ニコラス・スクール唯一の黒人男子生徒ドナルド(ジョセフ・フォスター二世)とフリン神父との「不適切な関係」だ。ドナルドはフリン神父が行う礼拝の侍者役だが、その担任である新米女性教師シスター・ジェイムズ(エイミー・アダムス)がシスター・アロイシスに対して、フリン神父がドナルドに強い関心を持っていると報告したことから、シスター・アロイシスの「ダウト」は深まっていく。酒臭い息をしたドナルドとフリン神父が2人きりでいるところを目撃したシスター・ジェイムズは、当然の義務としてそれを報告したわけだ。
フリン神父を校長室に呼んだシスター・アロイシスの追及は厳しく、曖昧な答えを許さなかったため、仕方なくフリン神父が答えたのは「ドナルドが祭壇用のワインを飲み、そのスキャンダルから生徒を守ろうとした」というもの。純真なシスター・ジェイムズはたちまちこれを信用して「これにて一件落着」と喜んだが、さまざまな人生経験をしているシスター・アロイシスはそうはいかず、彼女の「ダウト」は深まるばかり。さあフリン神父とドナルドとの間に「不適切な関係」はあったの?それともフリン神父はただ1人の黒人生徒であるためいじめられっ子となっているドナルドを守るため、あれこれと目をかけていただけ?
<弁護士の私の目で見ると>
35年間弁護士稼業を続けてきた私は、フリン神父の説明を聞いて単純に納得するシスター・ジェイムズの姿勢には同調できず、あくまで「ダウト」をかけて真相究明を目指すシスター・アロイシスの姿勢に賛成。もっとも、何の証拠もなく一方的に「ダウト」をかけられたフリン神父は迷惑千万。これでは、シスター・アロイシスはかんぽの宿を109億円でオリックスに売却することに「ダウトあり!」と主張し調査に乗り出した鳩山邦夫総務大臣のようなもの・・・?
ただし、決定的に違うのは、総務大臣は法律にもとづく立ち入り調査権等の権力を持っているのに対し、シスター・アロイシスは何の権力も持っていないこと。したがってあくまで言葉の勝負、つまりディベートによって決着をつけなければならないのだが、弁護士の私の目にはそんな2人の今後の言葉の対決に興味が深まっていくばかり。
<校長と神父の価値観の対立がすべての根源!>
1964年は価値観が大きく変動した時代だけに、同じセント・ニコラス・スクールで校長と司祭として働いていても、シスター・アロイシスとフリン神父の価値観が正反対だったのは仕方がない。しかしそれが、ある「ダウト」によって反目しあうと大変な事態に。
鉄の規律を重んじるシスター・アロイシスの厳格さは徹底している。というより想像を絶するもので、いわばナチスドイツのゲシュタポみたいなもの・・・?それを実感するのは、第1に情け容赦ない彼女自身による監視の目。シスター・アロイシスの目にかかれば、生徒たちがかげに隠れてコソコソ悪いことをやっているのはすべてお見通し。したがって、「校長室へ!」というのが生徒たちにとって最大の恐怖だ。第2は、シスターたちが集まった食事風景。ここではきっと「食事中はおしゃべり厳禁!」なのだろう。シスターたちは気まずい沈黙の中、黙々とナイフとフォークを使って皿の上の料理を口に運んでいるが、これでは全然おいしくないはず。
フリン神父の説教が示唆に富み、聴衆に深い説得力を与えるのは、神への敬虔な信仰心もさることながら、きっと彼の豊かな人生経験にもとづく大きな「人間力」のため。いつの時代でも保守派VS進歩派、守旧派VS改革派が存在するが、教会のあり方をめぐる議論においてもシスター・アロイシスとフリン神父は正反対で、フリン神父は当然進歩派であり改革派。そんなフリン神父が、生徒たちや多くの信者に尊敬されていたのは当然。したがって、フリン神父の食事風景はシスター・アロイシスとは正反対。同僚の神父と一緒の食事風景は、やかましすぎるのではないかと心配するほど大声で話し合い、大声で笑い合う楽しそうなもの。かねてから指摘されていた飲酒癖が原因で財務大臣と金融担当大臣を辞任せざるをえなくなった中川昭一氏ほどではないが、その食事の席にはワインも出されているようだ。
この映画を理解するためには、1964年という時代設定の中だからこそ浮かびあがる、この2人の対立する価値観をまずきっちり理解することが必要だ。
<会話劇としての見どころ その1、シスター・アロイシスVSシスター・ジェイムズ>
映画冒頭に登場する、教会の大聖堂でフリン神父が多くの信者や生徒たちに対して語る「疑惑というものも強力な絆になり得るのです!」という説教が興味深い。この映画では、これを含めてフリン神父の説教が3回登場するが、その内容はどれもすばらしいものだから注目したい。
あえて「疑惑」をテーマとした説教をフリン神父がしたのは、シスター・アロイシスに対するあてつけ?純真な新米教師のシスター・ジェイムズがそう感じたのは当然。それは、この映画のさまざまなシーンで見せつけられる、シスター・アロイシスの生徒たちに対するあまりに度を過ぎた「疑惑」のオンパレードをみればすぐにわかる。
生徒の言葉をすぐに信用するシスター・ジェイムズに対して、校長のシスター・アロイシスが説くのは「物事を“疑惑”の目で見なければならない」ということ。それに対して、シスター・ジェイムズは「疑惑をもつことによって神様が遠ざかってしまう」と反論するが、それに対するシスター・アロイシスの再反論は「悪事に立ち向かおうと1歩踏み出せば、それは神様から1歩遠ざかることになる。しかし、それは神のために成す行為だ」というものだ。
さああなたは、こんなシスター・アロイシスとシスター・ジェイムズのディベートについて、どちらの軍配を?
<会話劇としての見どころ その2、シスター・アロイシスVSミラー夫人>
出演シーンは少ないが、本作の会話劇で大きな存在感を示すのがドナルドの母親であるミラー夫人(ヴィオラ・デイヴィス)。ミラー夫人を学校に呼び出したのはシスター・アロイシス。その目的は、ドナルドとフリン神父との不適切な関係を裏づけるための事情聴取。こんな刑事のようなことも、シスター・アロイシスにとっては聖職者にある者としての大切な職務と考えているわけだ。
生きていくために働かなければならないミラー夫人が、事情聴取に応じるためにとれる時間は30分ほど。そこで校長室内での話し合いだけでは時間的に不十分と考えたシスター・アロイシスは、ミラー夫人の帰り道を一緒に歩きながら話そうとしたから、その職務熱心さには恐れ入る。ちなみに、「枕を持って屋根の上に登った女性がナイフで枕を切り開いた結果、周囲に広がり落ちていく羽を、女性は拾い集めることができるだろうか?」と問題提起をし、「噂とはそういうものだ」と何とも含蓄のある説教を終えたばかりのフリン神父が偶然通りかかった時に見えたのが校長室に入っているミラー夫人。「なぜミラー夫人を呼んだのだ!」と詰め寄るフリン神父とシスター・アロイシスとの会話劇がこの映画のラストのクライマックスだが、その伏線として用意されているのが、ミラー夫人の自宅近くになって俄然白熱する、ドナルドの「ある性質」をめぐるシスター・アロイシスとミラー夫人との議論。
<「ある性質」が問題?それとも「ある行動」が問題?>
もともとミラー夫人はフリン神父のファン。なぜならフリン神父はドナルドを何かと気にかけてくれ、何かと親切にしてくれているから。それに対して、シスター・アロイシスが「フリン神父はドナルドに対して不適切な関係を求めているダウトがある」と水を向けると、そこでミラー夫人は「それを望む子もいる」と何とも意外な告白を。
ミラー夫人が期待しているのは、ドナルドが何の問題も起こさず無事セント・ニコラス・スクールを無事卒業すること。そうすれば、次のハイスクールやカレッジへの道が自動的に開かれるのだから。ところがセント・ニコラス・スクールで問題を起こし退学処分でも受ければ、ドナルドの一生は台無し。ドナルドは公立校では殺されてしまうと考えてセント・ニコラス・スクールへ入学させたのだから、なんとしても問題を起こさずに卒業させたい。ミラー夫人は涙を浮かべながら懸命にそう訴えたが、それを望む「ある性質」が問題なのか、それとも、「ある行動」をとったことが問題なのかは別として、ミラー夫人の話を聞いたシスター・アロイシスがそこで立てた方針は「ドナルドの退学」?それとも「フリン神父の追放」?
私の考えでは、ドナルドの「ある行動」について問題提起をし質問してくるシスター・アロイシスに対してミラー夫人がまともに応じ、ドナルドの「ある性質」について、ベラベラと告白したのがまちがい。つまり、ミラー夫人がそんな告白をしなければ、世の中のことを知ってるつもりでも実はあまりわかっていない(?)シスター・アロイシスの、フリン神父に対する「ダウト」が「確信」に転じることはなかったのでは?
ちなみに、ミラー夫人を演じたヴィオラ・デイヴィスがゴールデングローブ賞助演女優賞にノミネートされたのは、このメリル・ストリープとの短い会話劇のおかげ(?)だから、その効率の良さは抜群。
<会話劇としての見どころ その3、シスター・アロイシスVSフリン神父>
プレスシートによれば「シスター・アロイシス役をメリル・ストリープが引き受けたことで、フリン神父を演ずる俳優の選択肢はぐっと狭まり、クライマックスで彼女と対峙できるほどのパワフルな人物が必要となった」らしい。そこで白羽の矢が立ったのがフィリップ・シーモア・ホフマン。たしかに『カポーティ』(05年)でアカデミー賞とゴールデングローブ賞を受賞した彼の存在感は大きい。
自分の説教中にミラー夫人を校長室に呼び出したことに血相を変えて怒鳴り込んできたフリン神父は、シスター・アロイシスに対して一気にそれまでの不満を爆発させ、「自分に対する根拠のない反対運動を直ちにやめろ」と迫ったが、そんな迫力にたじろぐシスター・アロイシスではない。それどころか逆に「私は確信をもっている。だからあなたは司祭の職を辞任しなさい」と迫ってきたからすごい。『フロストxニクソン』(08年)は全米進出の夢をかける司会者と政界復帰を目指す元大統領との熾烈なトークバトルだったが、本作の白熱したラスト15分間のシスター・アロイシスとフリン神父の会話劇、というより「言葉のバトル」の迫力もすごい。
2009年5月から実施される裁判員裁判でもこんな迫力ある検察側VS弁護側のバトルを期待したいものだが、そういう裁判を実現するためには本作のような会話劇、言葉によるバトルを学ぶことが不可欠だ。暴力に訴えることもなく、感情に流された議論に陥ることもなく、たまには大声を出すものの声の大きさ合戦になることもなく、あくまで冷静に言葉を選びながら展開されるシスター・アロイシスとフリン神父の「言葉のバトル」はとにかく最高!裁判員裁判実施に向けて弁護士の裁判員へのプレゼン能力向上のための研修が盛んだが、そんなくだらない「授業」を受けるより、こんな映画のこんな会話劇から学ぶことの方が大きいのでは・・・?
<勝負の決着は、あなた自身の目で>
この映画には3つの対話劇の中で、「疑惑」「確信」「立証」「証拠」などの法律用語(?)や「告白」「懺悔」「告解」などの宗教用語(?)が頻繁に登場する。また、①「証拠はあるのか」、②「立証はできないが、確信がある」、③「確信があると言っても、それは感情だ」などの法律的フレーズ(?)や、①「罪を犯したことはあるが、それは告白し懺悔して許されてきた」、②「辞任は告解と同じだ」、③「悪を駆逐するためには、神から遠ざかることもある」などの宗教的フレーズ(?)が強く印象に残る。
司祭の任命権は主任司祭にあるらしい。15分間にわたる激論を終え、あくまで辞任を求めるシスター・アロイシスはフリン神父を校長室に残し、「電話は自由に使ってくれ」と言い放って出て行ったが、さて1人残ったフリン神父はそこでいかなる行動を?少なくとも彼は自分の気持を整理し、愛用する聖書を机の上に置き、電話に手をかけたことはまちがいないが、さてその架電先は?そして、そこで彼が告げたことは?それはあなた自身の目でしっかりと。
<最後の説教は?>
あの迫力あるバトルシーンから舞台は変わり、大聖堂におけるフリン神父の3度目つまり最後の説教のシーンとなる。そこで彼が話すのは、「別れることはつらいが、それはやむをえない」という辞任の言葉。フリン神父は今まで親しくつき合ってきた生徒や信者たち1人1人の手を握り、別れのあいさつを述べていった。するとやっぱり、勝負はシスター・アロイシスの勝ち・・・?たしかに、フリン神父がセント・ニコラス・スクールを去ることになったのはまちがいないが、それはシスター・アロイシスの追放劇が成功したため?
最後のシーンとなるシスター・アロイシスとシスター・ジェイムズの静かな会話を聞いていると、意外にそうでもないようだ。シスター・アロイシスとフリン神父の勝負の行方とは別に、世間におけるシスター・アロイシスとフリン神父の評価は?そして、それにもとづいて下されたフリン神父の処遇は?ひょんなきっかけから生まれ、シスター・アロイシスの心の中で大きく広がっていった「ダウト」がこんな大事件になろうとは!
この映画はもちろんシスター・アロイシスとフリン神父の価値観について、あるいはシスター・アロイシスによるフリン神父の追放劇についてどちらの側にも立っておらず、その判断は観客に委ねられているが、さてあなたの判断は?
2009(平成21)年2月21日記









