疾走(日本映画・2005年) |
<ホクテンザ2>
2006年2月19日鑑賞
2006年2月20日記
重松清の原作にSABU監督が惚れて映画化したものだが、そのタイトルを含めて、絵でいえば「抽象画」・・・?ここに描かれる兄弟像が1つの焦点だが、それ以上に人間の不幸とは?差別とは?宗教とは?そして生きることとは?という重たいテーマがずっしりと伝わってくる秀作。私が尊敬する韓国の『受取人不明(Address Unknown)』(01年)、『春夏秋冬そして春』(03年)、『サマリア』(04年)のキム・ギドク監督作品との共通点を強く感じたが、さてあなたは・・・?
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監督・脚本:SABU
原作:重松清著『疾走』
シュウジ/手越祐也
シュウイチ(シュウジの兄)/柄本佑
エリ/韓英恵
宮原雄一(神父)/豊川悦司
アカネ/中谷美紀
新田/大杉漣
鬼ケン/寺島進
宮原雄二(雄一の弟)/加瀬亮
シュウジの父/菅田俊
シュウジの母/高橋ひとみ
石倉/平泉成
角川映画、エンジェル・シネマ配給・2005年・日本映画・125分
<私の体験的兄弟論ー男の2人兄弟あれこれ・・・?>
私は男の2人兄弟。もっとも兄の上に姉がいたが、戦争中で栄養状態が悪かったこともあって早く死亡したとのことで、私はそれ以上のことは知らない。兄とは誕生日が約1年半離れているが、学年は1年違いだけ。したがって、幼児の頃から、幼稚園、小学校へ入るまで、遊びも勉強もほとんど同じことをやっていたが、この当時の1年半違いは大きい。当然ながら、兄がリーダーシップをとり、弟はそれについていくことが多かったが、それによるメリット・デメリットは、どこにでもいる男の2人兄弟とほぼ同じ・・・?
わが家の特殊性は、両親の教育方針として勉強をやらせようとしたこと。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』の主人公秋山好古・真之兄弟を目指したわけではあるまいが、微妙にそんな影もチラホラと・・・。その結果、兄はいつも成績優秀だったが、弟の私の目には、兄は過保護でわがままで傲慢・・・。他方、弟は成績はほどほどの状態を保っていたが、勉強はキライで、外で友達と遊ぶのが好き。
ここではこれ以上書かないが、自意識が芽生えた小学生の高学年頃から、私は兄の存在を強く意識し、これに反発していたようだ。そんな男2人の兄弟関係が中学・高校・大学と続き、社会人になってからは互いに結婚と離婚を体験するという過程を経て、今2人の仲は・・・?
私の友人には男の2人兄弟の弟というパターンが多いが、それはお互い直感的にそういう「臭い」を感じるせい・・・?
<シュウイチとシュウジ>
映画の冒頭、幼年期の兄シュウイチと弟シュウジが登場し、立派な一戸建ての家に住んでいる父(菅田俊)、母(高橋ひとみ)の姿も紹介される。この当時、圧倒的に兄の方が優位に立っているのは当然だが、シュウジもこれを当然のことと受け入れており、兄弟も家族も仲良く暮らしていた様子。しかし、いずれこの兄弟には何か起こるぞと思ったのは、前述した私の体験的兄弟論にもとづく直感・・・?なおこの映画のパンフレットに書いてある、「成績優秀な兄シュウイチと両親が大好きな」という点は違うが、「寂しがりやで心優しい子だった」という点は私も同じ・・・?
このように、西日本の「浜」と呼ばれるまちで、両親とともに恵まれた環境下で過ごしているこの2人の中学生時代をスクリーン上で観ていると、どうしても自分の体験と重ね合わせてしまうことに・・・。もっとも、その後も比較的順調に推移したわが家とは大きく異なり、カンニングがバレて停学処分になったシュウイチ(柄本佑)は壊れ始め、ここから家族全体が次第に危機的状況に・・・。
一方シュウジ(手越祐也)は、「浜」に対する「沖」で生活している鬼ケン(寺島進)と呼ばれるヤクザ者やその愛人アカネ(中谷美紀)と知り合って、気持を通じ合わせ、ケッタイな神父の宮原雄一(豊川悦司)が沖に新しくつくった教会に、親友の徹夫とともに通い始め、孤独で反抗的な少女エリ(韓英恵)と出会ってこれに魅かれたりと、どうも弟のやることは親の希望や「浜」の基準とは、かなりズレている様子。しかし、それが大きくその後の彼の心の糧となることに・・・。
<SABU監督も男2人兄弟の弟・・・>
この映画の監督は、重松清の原作本に惚れ込んで企画を立ちあげ、自ら脚本を書いたSABU。私はこれまで知らなかったが、彼は1996年の『弾丸ランナー』で監督・脚本デビューした、1964年生まれの新進監督で、パンフレットでは「今最も躍動的なクリエイターである」と称賛されている。またこの映画は『キネマ旬報』12月下旬号に「キネ旬チョイス」として取りあげられているが、私が興味を持ったのは、ここで彼が語っている兄弟論。彼は「オレ、次男なんですよ。シュウジと同じで、できる兄貴がいて。だからシュウジの気持がわかるというのか・・・」と語っている。男の2人兄弟の弟として、彼はどんな兄弟観を持っていたのだろうか・・・?
<神父さんの兄弟論は?>
なぜか「沖」に教会を開く宮原雄一神父は、その長髪も含めて一風変わった雰囲気で、何か曰く因縁がありそう。成績優秀なシュウイチは時事問題(?)にも精通しており、過去の新聞を調べたりするマメさをもっていたため、この宮原神父は人殺しの前科を持った男らしいという情報をつかんできた。そこで、それまでは全然興味を示さなかった教会のクリスマス会にシュウジと一緒にいくことに。そこで、シュウイチが投げかけたいくつかの質問は問題のポイントをつくものだったが、失礼このうえないもの。これがワガママな長男坊主のやることの特徴・・・。
しかし、宮原神父はこんなシュウイチを教会の中に入れ、自分が弟の宮原雄二(加瀬亮)とその恋人に対してとった行動とそのてん末をきっちりと説明した。このように宮原神父は、男2人兄弟の兄として深刻な悩みをもち続けていたわけだ。その弟の雄二は、今は殺人犯として死刑執行を待つ立場。これを聞いたシュウイチの反応は・・・?
さらに宮原神父からの手紙を通じてシュウジの存在を知った雄二は、死刑執行を控えて、シュウジに会いたいと言ってきたため、宮原神父はシュウジを面会させることに。ところが、面会室で雄二がシュウジに投げつけた言葉は、「俺はおまえだ、おまえは俺だ。俺たちは同じだ・・・・・・」というもの。こりゃ、いくらなんでもひどいもので、中学生のシュウジが大きなショックを受けたのは当然。
<キム・ギドク監督作品と共通点が・・・?>
私は、韓国のキム・ギドク監督が大好き。というより、彼の監督作品である、『受取人不明(Address Unknown)』(01年)、『春夏秋冬そして春』(03年)、『サマリア』(04年)は、小難しいだけの映画ではなく、その人間的な深みや宗教的な深みにビックリするものばかり。私がこの『疾走』を観ている中で感じたのは、この映画にはキム・ギドク監督作品と共通点があるということ。それはこの点だと明確に指摘できるわけではないが、漠然と思うのは、宮原神父が語る人間の宿命や運命、そして人間はみんな何かを背負って生きているという実感。この映画もキム・ギドク監督作品と同じように、ハッピーエンドになるものではないから、観ているのは結構しんどいもの。もともと鬼ケンやアカネははぐれものだし、家の火事で両親を失い、おじさん夫婦に預けられているエリも不幸な星の下に生まれてきた少女。そして一見幸せそうだったシュウジも、シュウイチが狂い始めてからは家族がバラバラになり、今やシュウジも独りぼっち。そしてその挙げ句、放火や殺人という大事件までも・・・。なぜ、シュウイチやエリ、そしてシュウジまで、みんなこんなに不幸にならなければならないのか、と思ってしまうが、逆にそうだからこそ人間の本質やその心の奥底にあるものが見えてくるもの。映画監督とは、そういう人間のもつ本質的なものを感動的にスクリーン上に観客に示すのが仕事なのだ。
SABU監督に、キム・ギドク監督との共通点を見つけたなどというのは、私の勝手な評価かもしれないが、是非直接SABU監督にその点をたずねてみたいものだ。そして、そんな不幸な人間のオンパレードの中、走るのが大好きなエリやシュウジの、前向きで積極的な面を強調した『疾走』というタイトルがすばらしい。地味ながら、是非多くの日本人に観てもらいたい好作品だ。
<聖書は心の救いとなるのか?>
聖書は世界最大のベストセラーだが、いつも聖書を読んでいる中学生など、日本にいるはずがない。また、韓国にはキリスト教信者が多いが、日本ではチャペルでの結婚式は増えても、キリスト教の信者数そのものは増えていないはず。したがって、「沖」に教会をもうけた宮原神父だったが、その教会を常時訪れるのはエリ1人だけのようで、そこにせいぜいシュウジと徹夫が加わる程度だから、所詮さびしいもの。
近時、チャペルで結婚式を主催する神父にニセ神父がいることが新聞報道されたが、この宮原神父は、ちゃんとした資格のもっている神父・・・。したがってその説得力の程度は別としても、語っていることはそれなりに筋の通ったものだし、エリやシュウジに対する温かい心配りも十分伝わってくるもの。もっともこの教会に出入りすることによって、シュウジがキリスト教信者になったわけではないし、エリも信者というわけではなさそう。
しかし、この物語をじっくり観ていると、やはり聖書のもつ重みがじっくりと伝わってくる。弟の死刑執行の後、その骨をお墓にいれるについて、宮原神父が聖書の一節をお墓の前で読むという風景はいかにも日本的で面白い。しかし、面白さを通りこして、やはり胸に手をあてて考えてみようという気持になるのは、東京を後にして再び故郷へ向かうバスの中でシュウジとエリが2人で手を握り合いながら聖書を読んでいるシーン。現実世界からの救済に聖書が直接役立つものでないことは明らかだが、心の救済には聖書はやはり大きな役割を果たしているのでは・・・?聖書には読み物としての面白さもタップリあるが、いろいろと悩みをもつあなたも、たまには聖書に心の救済を求めてみては・・・?
2006(平成18)年2月20日記