モリエール 恋こそ喜劇(フランス映画・2007年) |
<テアトル梅田>
2010年4月18日鑑賞
2010年4月20日記
イギリスのシェイクスピアは知っていても、フランスのモリエールは?そんな日本人が多い中、絶好の教科書が!モリエールを演ずる「フランスのジョニー・デップ」もいいが、ストーリーの軸は金持ちの商人が担っているから、それに注目!『アマデウス』(84年)のモーツァルトも相当ヤンチャだったが、若き日のモリエールもそう。なぜ、モリエールは「喜劇の神様」に?それはきっと若き日のこんな人生のおかげ。「人間万事塞翁が馬」とはよく言ったものだが、悲劇と喜劇も背中合わせ!そんな実感をタップリと。
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監督・脚本:ロラン・ティラール
モリエール(俳優兼劇作家)/ロマン・デュリス
ジュルダン(金持ちの商人)/ファブリス・ルキーニ
エルミール(ジュルダンの妻)/ラウラ・モランテ
ドラント伯爵(貧乏貴族)/エドゥアール・ベール
セリメーヌ(侯爵夫人)/リュディヴィーヌ・サニエ
アンリエット(ジュルダンの長女)/ファニー・ヴァレット
ルイゾン(ジュルダンの次女)/メラニー・ドス・サントス
ヴァレール(音楽教師、アンリエットの恋人)/ゴンザーグ・モンテュエル
トマ(ドラント伯爵の息子)/ジリアン・ペトロフスキ
マドレーヌ(モリエールの恋人)/ソフィー=シャルロット・ユッソン
2007年・フランス映画・120分
配給/セテラ・インターナショナル
<シェイクスピアは知ってるが、モリエールは?>
イギリスにシェイクスピアあれば、フランスにはモリエールあり!イギリスの絶頂期がエリザベス女王(1533~1603年)が君臨した16世紀後半なら、フランスの絶頂期はルイ14世(1638~1715年)が太陽王として君臨した17世紀後半。1564~1616年を生きたシェイクスピアより少し後輩のモリエール(1622~1673年)は、そんな絶頂期のフランスを生きた劇作家で、「喜劇の神様」と言われている。
ちなみに、文学座の江守徹の名前は、このモリエールに由来するらしいが、それは劇団関係者にはモリエールがそれだけ有名で身近だから。しかし、シェイクスピアの『ロミオとジュリエット』や『ヴェニスの商人』は日本人は誰でも知っているが、私が名前だけでも知っているモリエールの劇は、せいぜい『人間嫌い』や『守銭奴』くらい。したがって、彼がなぜ「喜劇の神様」と呼ばれているのかも、よくわからない。シェイクスピアはある程度知っているだけに、劇中劇が面白かった『恋におちたシェイクスピア』(98年)は最高だったが、モリエールをほとんど知らない私にとって、本作は?
<「フランスのジョニー・デップ」もいいが、ファブリス・ルキーニの怪演に拍手!>
映画冒頭モリエール(ロマン・デュリス)が仲間たちと旗揚げした劇団が経営難で破産の危機に瀕する姿が描かれる。この時のモリエールは22歳。日本では破産法によって破産宣告を受けた破産者は十分な保護を受けるが、17世紀のフランスでは債権者たちに訴えられたモリエールは投獄。しかし、金持ちの商人ジュルダン(ファブリス・ルキーニ)が借金を肩代わりしてくれたことによって何とか釈放されたモリエールは、その後一体何を?モリエールの伝記でも空白となっているこの数カ月間にモリエールに何が起こったの?
本作はそんな若き日のモリエールに焦点をあてながら、モリエールの作品に登場するさまざまな人物を登場させたフィクション。若き日のモリエールを演じているのは、フランスのジョニー・デップと呼ばれるロマン・デュリスだ。舞台俳優として朗々とセリフを語るモリエール、劇作家として傑作を書こうと悩むモリエール、ジュルダンの誘いに乗ったものの、とてもこんなバカバカしい屋敷に留まれないと考え逃げ出そうとするモリエール、自分の書いた戯曲をすばらしいと絶賛されたジュルダンの妻エルミール(ラウラ・モランテ)に恋をし、いつの間にか深い仲になっていくモリエール、そんなたくさんの顔をもつモリエールをロマン・デュリスが見事に演じている。
他方、本作でそれ以上に目立つのが、ジュルダン役を演ずるファブリス・ルキーニの怪演。NHK大河ドラマ『龍馬伝』でも41歳の福山雅治はそれなりに魅力的な青年坂本龍馬役を演じているが、それ以上に目立つのが岩崎弥太郎役の香川照之。ちょうどそれと同じような関係だ。本作ではフランスのジョニー・デップもいいが、ファブリス・ルキーニの怪演に注目!
<ストーリーの軸は、モリエールよりジュルダン>
本作の主人公はあくまでモリエールだが、ストーリーはジュルダンを軸として形成されていく。ストーリーの軸の第1は、商人の(にすぎない)ジュルダンが、社交界の華である侯爵夫人セリメーヌ(リュディヴィーヌ・サニエ)にぞっこん惚れ込んでいること。貧乏貴族のドラント伯爵(エドゥアール・ベール)はこんなジュルダンを利用し、セリメーヌとの仲を取り持つかわりに莫大な金をジュルダンから引き出そうとしていたが、そんなジュルダンとドラント伯爵の思惑の実現は?ストーリーの軸の第2は、すっかりセリメーヌに入れこんでいるため、全く関心を示さない妻のエルミールがモリエールの才能に惚れ込み、結局2人がいい仲になっていくこと。セリメーヌの気を引くため自作の芝居を彼女のサロンで上演するべく、モリエールを演劇の指南役として雇ったジュルダンは、言ってみれば飼い犬に手を噛まれてしまったわけだが、そこでみせるジュルダンの反応は?
ストーリーの軸はもう1つある。それはジュルダンの財産とドラント伯爵の爵位の点で利害が一致したジュルダンとドラント伯爵が、ジュルダンの長女アンリエット(ファニー・ヴァレット)とドラント伯爵の息子トマ(ジリアン・ペトロフスキ)を結婚させようとするストーリー。アンリエットにはしがない音楽教師のヴァレール(ゴンザーグ・モンテュエル)という恋人がいたが、あの時代、親の決定に逆らうことなどできないのは当然だ。劇作家としてさまざまな人間ドラマを書いてきた若きモリエールは、そんな事態をみていかなるアイディアといかなる演出を?
<フランスでも士農工商の身分制度が?>
日本では徳川家康が征夷大将軍となった1603年から1867年の大政奉還まで徳川幕府が265年間も続いたが、近時の安倍・福田・麻生政権とは全く異なる長期政権が実現できたのは、第1に鎖国政策、第2に士農工商という厳格な身分制度のおかげ。4月18日放映のNHK大河ドラマ『龍馬伝』では、町人から武士に転身し今は勝海舟の屋敷に住み込んで働いている長次郎に対して武市半平太が「町人の分際で・・・」というセリフを吐いたことに対して、長次郎が怒りを爆発させていた。土佐に定着していた上士・下士という身分制度に辟易していた武市半平太であれば、坂本龍馬のようにもっと自由な身分制度に憧れるのが当然なのに。長次郎の怒りはもっともだ。
他方、資本主義では金がすべてだから、18世紀にイギリスで起こった産業革命以降「資本家」が大きな力をもつようになったのは当然。『龍馬伝』に登場する岩崎弥太郎はさしずめその典型だ。本作を現代人の私たちの目でみれば、金持ちの商人ジュルダンはけっこううらやましい身分に思えるが、17世紀のフランスではそうではなかったようだ。つまり、太陽王ルイ14世が統治するあの時代のフランスでは、第1身分=カトリック聖職者、第2身分=貴族、第3身分=その他のフランス国民という身分制度が確立していたため、商人はいくら金持ちでも所詮第3身分にすぎなかったわけだ。
したがって、そんな第3身分のジュルダンが金にまかせて第2身分の侯爵夫人セリメーヌに言い寄っても、それは所詮ムリ。つまり、あの時代のフランスでも日本の士農工商や土佐の上士・下士制度と同じように厳格な身分制度が存在していたわけだ。そんな目でセリメーヌの気を引くため懸命に奮闘するジュルダンの姿をみていると、バカバカしいと思う反面少しは同情する気持も湧いてくるのでは?
<なるほど、悲劇と喜劇は背中合わせ!>
若い時の苦労は買ってでもやるべき。そんな教訓は、中国でも日本でもそしてヨーロッパでも同じ?借金を払えず投獄されたモリエールだが、ジュルダンとの取引によって次女ルイゾン(メラニー・ドス・サントス)の教育係としてジュルダンの広大な屋敷に住み込んだモリエールには、エルミールとの運命的な出会いが待っていた。そして、その後のさまざまな劇的展開の中、モリエールはさまざまな波乱の「演出」を要請されることに。
使い捨て芸人たちのオンパレードとなっている日本のアホバカバラエティー番組はバカげたギャグの応酬だが、さすがにモリエールが丹精込めてつくった劇の笑いは人間味タップリで面白い。天才モーツァルトがかなりのヤンチャ坊主だったことを同世代に生きた音楽家サリエリの目で描いた傑作が『アマデウス』(84年)だったが、そこでの若き日のモーツァルトのヤンチャぶりは相当なものだった。そう考えると、若き日のモリエールがいろいろと無茶をしたのは当然だと納得できるが、自分の雇い主であるジュルダンの妻エルミールとの不倫はいかがなもの?さらにジュルダンの長女アンリエットとドラント伯爵の息子トマとの結婚を阻止するため、モリエールが書いた脚本(?)に沿って演じる、エルミールの一世一代の大芝居もいかがなもの?
「人間万事塞翁が馬」という教訓は、張芸謀(チャン・イーモウ)監督の名作『活きる』(94年)やチェコスロバキアのプラハ生まれのイジー・メンツェル監督の『英国王 給仕人に乾杯!』(06年)などで明らかだが、「悲劇と喜劇は背中合わせ」という教訓は、モリエールをほとんど知らない私でも本作をみれば実によくわかる。ちなみに、本作のパンフレットにはモリエール作品についての解説がたくさん載っているから、興味ある人は是非それを参照されたい。もっとも、そんな知識がなくても本作を観れば、登場人物たちがかもし出す人間模様の本質をしっかり感じとることができるはずだ。
シェイクスピアの悲劇は悲劇としてすばらしいが、なるほどモリエールの喜劇はこんなに面白い。少なくとも、それが本作を観れば理解できるはずだ。2時間の中で観客を笑いに誘いながら、「これぞモリエールの喜劇!」というエッセンスを見せてくれた本作に感謝。
2010(平成22)年4月20日記