スプリング・フィーバー(春風沈酔的晩上)(中国、フランス映画・2009年) |
<シネマート心斎橋>
2010年12月7日鑑賞
2010年12月8日記
婁燁(ロウ・イエ)監督の前作『天安門、恋人たち』(06年)は政治的主張よりも『ラスト、コーション(色、戒/LUST,CAUTION)』(07年)ばりの過激な性描写が目立ったが、新作のテーマは同性愛(ゲイ)。こりゃ必見!3人の男と2人の女が織りなす恋愛劇(?)は夫婦者や恋人同士がいるため入り交じり、まさに原題の『春風沈酔的晩上』のように浮遊し不安定。さてスプリング・フィーバー(春の嵐)の行き着く先は?この手の数々の名作をしのぐ、生々しいシーンの続出にはビックリだが、私的には新人美女にも注目!当局からトコトン嫌われたこんな映画は、是非観ておかなければ・・・。
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監督:婁燁(ロウ・イエ)
脚本:梅峰(メイ・フォン)
原作:郁達夫(ユイ・ダーフ)『春風沈酔の夜』
江城(ジャン・チョン、ゲイの青年)/秦昊(チン・ハオ)
羅海濤(ルオ・ハイタオ、探偵)/陳思成(チェン・スーチョン)
李静(リー・ジン、探偵の恋人)/譚卓(タン・ジュオ)
王兵(ワン・ピン、林雪の夫)/呉偉(ウー・ウェイ)
林雪(リン・シュエ、王兵の妻、女性教師)/江佳奇(ジャン・ジャーチー)
ミン(工場長)/チャン・ソンウェン
2009年・中国、フランス映画・115分
配給/UPLINK
<「あれ」は見逃したが、「これ」は必見!>
平日の午後7時。久しぶりに1000円(60歳以上だから)の正規料金を支払って映画館へ。ところが、婁燁(ロウ・イエ)監督の超問題作にもかかわらず、入場者はわずか10名弱。東宝系では『SP 野望篇』(10年)と『THE LAST MESSAGE 海猿』(10年)が大ヒットしているが、それらとのあまりのギャップの大きさに唖然。婁燁監督の『ふたりの人魚』(00年)はヒロインの周迅(ジョウ・シュン)が印象的で何とも不思議な雰囲気の映画だった(『シネマート5』253頁参照)し、章子怡(チャン・ツィイー)と仲村トオルを起用した『パープル・バタフライ(紫蝴蝶/PURPLE BUTTERFLY)』(03年)は緊迫感あふれる独特の映像が印象的だった(『シネマルーム17』220頁参照)。
そんな婁燁監督は、『天安門、恋人たち』(06年)を第59回カンヌ国際映画祭コンペティションで上映したため、中国当局から5年間の映画製作・上映禁止処分を受けてしまった。それは同じ第6世代の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)、張元(チャン・ユアン)、王小帥(ワン・シャオシュアイ)、戴思杰(ダイ・シージエ)などは、きわどい映画づくりをしながらも何とか当局との「折り合い」をつけて中国国内での上映に「成功」しているが、婁燁監督は当局との折り合いなどハナから無視しているため?そんな婁燁監督は普通の家庭用ビデオカメラを使ってゲリラ的撮影に徹することによって製作費をケチるとともに、映画をつくるに必要な資金はフランスや香港から出資してもらって本作を完成させ、第62回のカンヌ国際映画祭コンペティションに出品した。そして『パープル・バタフライ(紫蝴蝶/PURPLE BUTTERFLY)』以降脚本家として婁燁監督とのつながりを深めている梅峰(メイ・フォン)は、本作で第62回カンヌ国際映画祭脚本賞を見事に受賞した。そんな問題作を今回は見逃すわけにはいかない。そこで、自転車を駆って映画館へ。
<のっけから、この映像!こりゃ刺激的!>
近時の邦画の美しい映像に馴れている目には、いかにも安モノのカメラで撮ったことがわかる本作の暗くてザラザラした映像はかえって刺激的。運転席に座る江城(秦昊)と助手席に座る王兵(呉偉)を、多分後部座席から普通の家庭用ビデオカメラで撮っているらしい映像は、適当にブレるから多少目が疲れる。そんな第一印象をもつ中、何か思わせぶりな雰囲気で2人がそろって「立ちション」をした後、一軒家の前に車を停め2人は家の中へ。ここはホテルでもないし友人の家でもないことが明らかだから、きっと法的には不法侵入だが、のっけからそこで展開される男同士の同性愛シーンにまずはビックリ。
近時のハリウッドの同性愛(ゲイ)映画の名作中の名作は、第78回アカデミー賞で最多8部門にノミネートされながら監督賞、脚色賞、オリジナル音楽賞の3つのみの受賞となってしまった『ブロークバック・マウンテン』(05年)(『シネマルーム10』262頁参照)、ショーン・ペンが第81回アカデミー賞主演男優賞を受賞した『ミルク』(08年)(『シネマルーム22』42頁参照)であり、つい最近では『シングルマン』(09年)(『シネマルーム25』104頁参照)。他方、古典的な中国映画のそれは、梁朝偉(トニー・レオン)と張國榮(レスリー・チャン)が怪しげな雰囲気をかもしだした、王家衛(ウォン・カーウァイ)監督の『ブエノスアイレス(春光乍洩/Happy Together)』(97年)(『シネマルーム5』234頁参照)。これらのゲイの名作では男同士が裸になっての露骨な同性愛シーンは登場しなかったが、婁燁監督の本作では?
まず最初にこのシーンの「洗礼」を受けただけで、本作に興味を示すかそれとも拒絶反応を示すかが分かれるはずだ。もちろん、人権の国、自由の国、作家主義の国フランスではこの手の映画が大好きだが、子供への安全かつ健全な教育のみを叫ぶお利口ママたちはもちろん、何よりも大衆の秩序を乱すことを嫌う中国の当局がこれに拒絶反応を示したのは当然。さて、婁燁監督は、なぜ今、あえてこんな同性愛(ゲイ)映画を?
<例によってセリフが少ないから、集中力を!>
私が思うに、婁燁監督をはじめ「作家主義」の監督たちに共通するのは、セリフの少なさ。本作もそうであるうえ、日本人にははじめて観る中国人俳優たちの顔と名前がなかなか一致しないというハンディキャップがあるから、ストーリー展開を理解するためには相当な集中力が必要。のっけにみせてくれる濡れ場(?)の後、探偵の羅海濤(陳思成)が登場するが、その依頼主が王兵の妻・林雪(江佳奇)であるとわかることによって、やっと「何だ、嫁さんによる夫の浮気調査か」というストーリーがわかる。王兵は江城とのつき合いを嫁に自然に見せるべく、「江城は2年先輩で、最近偶然再会した友人だ」と妻に紹介しようと企み、しぶしぶ江城もそれに乗ったが、男が考えるそんな策略に乗るほど女は甘くない。3人が一緒に食事した時の雰囲気について、江城は「林雪の目は、俺のことを前から知っているような目だった」と王兵に述べたが、その後に訪れる修羅場とは?
もっとも、ここでもう1つのストーリー展開があるから、それにも注目!それは、羅海濤が探偵の仕事を終えた後、恋人の李静(譚卓)とホテルにしけ込み、お楽しみのシーンが展開される。李静はミシン工場に勤めている新米のミシン工だが、工場長のミン(チャン・ソンウェン)も彼女が気に入っている感じ。こりゃ、ここでも何らかの「三角関係」が起こりそう、と予感したが・・・。
<南京にも、こんなゲイ・クラブがいっぱい!>
去る12月6日、通称アメ村と呼ばれる大阪市の西心斎橋のアメリカ村にあるクラブが風俗営業法(風営法)違反で摘発されたが、その容疑は無許可営業だけで、決してここはゲイ・クラブではない。私はまだ南京を旅行したことがないが、商業のまち・上海、政治のまち・北京に比べると、「まだまだ歴史的な趣が残る地方都市」というイメージが強い南京のまちにも、音楽がガンガン鳴り響き、多くの観客がフロアでダンスを踊っている巨大なゲイ・クラブがあることにビックリ。久しぶりにそこを訪れた江城が大歓迎されたうえ、司会者から彼の得意技である女装ショーまでおねだりされ、それに応じたのは一体なぜ?また、しつこくかかってくる王兵からの電話を頑に拒否し、今日はとことん飲もうとしているのは一体なぜ?それは、「浮気」がバレた後の修羅場を経験したことのあるあなたならきっとわかるはずだ。
もっとも、ゲイのお友達をたくさん持ち、こんなゲイ・クラブでのお楽しみに逃げ込める江城はまだ幸せだが、家庭で妻の冷たい視線にさらされる王兵は?林雪は専業主婦ではなく小学校の先生をしているから、昼間は外に出ている分だけまだましだが、妻から完全に見放されたうえ、「とにかく会いたい。会って相談をしたい。ケータイを切らないでくれ」と懇願したにもかかわらず、江城の頑な拒否にあった王兵はどうすればいいの?そんな後半へのストーリー展開を含みに残しつつ、南京の巨大なゲイ・クラブにおける江城をはじめとする男たちのお楽しみぶり(?)と腐敗ぶりを、じっくり鑑賞したい。
<男なら誰とでも・・・?>
婁燁監督と同じ第6世代で、フランスを中心に活動しているのが戴思杰(ダイ・シージエ)監督。そして、彼がある新聞記事にインスパイアされてつくったのが、女同士の禁断の同性愛を描いた『中国の植物学者の娘たち』(05年)だ。そこでの若く美しい女同士の同性愛のシーンはそりゃ美しいものだった(『シネマルーム17』442頁参照)。しかし、本作冒頭にみる江城と王兵との同性愛シーンはもとより、その後の江城と羅海濤あるいは江城とその他の男との間で交わされる裸の同性愛シーンを何度も見せられると、一切その手の傾向がない私の目には少しグロテスクに見えてくる。
私が意外だったのは、李静という恋人がいながらなぜか互いに江城と惹かれ合い遂に一線を越えてしまう(?)探偵クン羅海濤の気持。しかも、後半から羅海濤は南京を離れ李静を連れて江城との宿遷行の旅に出発するから、この探偵クンの気持は私にはサッパリわからない。さらに意外なのは、王兵は江城が去ってしまった後絶望してしまうが、江城は意外に切り換えが早く(?)、すぐに次の男を見つけ出すこと。浴室で羅海濤と激しく絡むシーンがありながら、旅行の途中でいとも簡単に(?)その羅海濤とケンカ別れするシーンを見ていると、結局江城は男なら誰とでも・・・?
そんな感じさえするが、そんなゲイの感覚とは?しかして、婁燁監督はどうしてそんな男のゲイ感覚がわかるの?ひょっとして・・・?
<当局が目を光らせたのは?>
戴思杰(ダイ・シージエ)監督の『中国の植物学者の娘たち』は同性愛の果てに、それを発見し激怒した父親を殺してしまうという大罪を犯してしまう映画だったが、その中に別段中国共産党に不都合な政治的主張が含まれていたわけではない。また、婁燁監督の前作『天安門、恋人たち』も「天安門事件」が描かれるのはほんのサワリだけで、「学生たちが『自由は天地に属す』『民主化を進めよ』などのスローガンを叫びながら集会やデモをしているだけ。また、この映画のヒロインである余虹や恋人の周偉、そして李緹とローグーたちは政治活動より恋愛活動の方に熱心なタイプ」だった(『シネマルーム21』263頁参照)。
しかして本作も、江城、王兵、羅海濤という3人の男と李静、林雪という2人の女の少し入り込んだ恋愛劇(?)だから、政治的主張とは全く無縁のもの。したがって、当局が目を光らせたのは、これら3作品における政治的主張ではなく、禁断の同性愛や過激な性描写だけ?
<婁燁監督が次々と発掘する美人女優に注目!>
そんな2人の第6世代監督に共通するのは、フランスを拠点として活動しているだけあって(?)女優選びに目がないこと。『初恋のきた道』(00年)で章子怡(チャン・ツィイー)を(『シネマルーム5』194頁参照)、『あの子を探して』(99年)で魏敏芝(ウェイ・ミンジ)を(『シネマルーム5』188頁参照)、『至福のとき』(02年)で董潔(ドン・ジエ)を(『シネマルーム5』199頁参照)それぞれ見い出した第5世代の張藝謀(チャン・イーモウ)監督は、「女優発掘の名人」と言われたが、第6世代の婁燁監督だってその面では決して負けてはいない。
まず、彼は『ふたりの人魚』では大きな目で観客を魅了する周迅(ジョウ・シュン)の魅力を、『パープル・バタフライ(紫蝴蝶/PURPLE BUTTERFLY)』では『初恋のきた道』とは全く違う章子怡(チャン・ツィイー)の新たな魅力をひき出した。もっとも、『天安門、恋人たち』におけるヒロイン郝蕾(ハオ・レイ)は、私の評価では「彼女の『男好きする表情』にハマってしまったが、残念ながらそのヌード姿の魅力はイマイチ。ちなみに、黒木瞳が『化身』(86年)でデビューし、美しいヌード姿を拝ませてもらった時はまさに感激、感動だった。しかし、今回郝蕾がベッドで横たわる時に見せてくれるヌード姿は、黒木瞳のヌード姿の美しさに比べると明らかにイマイチ。もちろん、何度も見せてくれるセックスシーンでの積極的な姿勢や歓喜の表情など演技力においては立派なものだが、造形美・女体美という点ではイマイチ・・・?」というものだった(『シネマルーム21』261頁参照)。そんな婁燁監督が本作では譚卓(タン・ジュオ)という若く美しい女優を発掘している。若い時の永作博美に少し似た(?)1983年生まれの譚卓は本作で女優デビューしたが、たちまち世界的に有名になり、次回作として韓傑(ハン・ジェ)監督の『Hello 樹先生』への出演も決まっているらしい。
本作では「七変化」とまではいかないが、貧しい女工姿、ドレスアップした姿、宿遷への旅立ちのためバッサリ髪を切ってイメチェンした姿、さらに裸で(?)ベッドインした姿を見せてくれるから、かなりのサービスぶり。本作ではどうしても男同士の同性愛シーンに目がいくし、ややもすればその是非をめぐる堅苦しくかつ難しい議論になりがちだが、私はもっと単純にこの美人女優に注目!
<原作は?タイトルは?睡蓮の花とは?>
最近の中国文学は若手の台頭が著しいが、本作の原作となった『春風沈酔の夜』を書いた郁達夫(ユイ・ダーフ)は、高校の教科書にも載っているというほどポピュラーな作家らしい。パンフレットにもある、その中の一節を引用すれば「こんなやるせなく春風に酔うような夜は 私はいつも明け方まで方々歩きまわるのだった」だが、その雰囲気は私が昔カラオケでよく歌っていた都はるみの名曲『古都逍遥』と同じように(?)、このタイトルから感じとることができる。本作の舞台は当初の南京から宿遷へと移るが、季節は春に始まり初夏に終わる。また本作の原題は『春風沈酔的晩上』だが、邦題は『スプリング・フィーバー』。春はスプリングだからそれでいいが、フィーバーとは?フィーバーという言葉はパチンコで急に有名になったが、①発熱。熱病。②極度に興奮すること。熱狂すること、だから、いわばその訳は「春の嵐」。しかし、それでは原作や原題が持つ、ふわふわと浮遊している春の不安定なイメージとは大きく違うのでは?他方、一言の「スプリング・フィーバー」を辞書で調べてみると、①春の高揚感。②春先のものうい感じとある。そうすると、本作の邦題はこう解釈すべきだろう。
他方、本作全体のイメージとして、江城と王兵が最初に愛を交わすシーンの後、一軒家の外でクローズアップで見せる睡蓮が重要!私はこれをてっきり蓮の花だと思ったが、パンフレットとネットで調べてみると、これは睡蓮らしい。睡蓮と蓮はよく混同されるらしいが、両者は共通点はあるものの全く似て非なるものだ。ちなみに「睡蓮」は「水蓮」ではない。睡蓮という名前の語源は、花が夜は閉じ、昼に咲き、蓮に似た形をしているためだ。映画冒頭に示されるそんな睡蓮の花は、一体何を象徴?
そんな問題意識と関連して考えたいのが、季節が初夏になってきたラストに見る、江城の左首から胸にかけて彫られた大きな花の入れ墨。これは一体何の花?また、普通入れ墨は背中に彫るものだが、彼はなぜそんな場所に?その答えのためには後半に訪れる「あっと驚く」いかにも人間的なドラマを観なければならないが、それは是非あなた自身の目で。
2010(平成22)年12月8日記