好きだ、(日本映画・2005年) |
<テアトル梅田>
2006年4月3日鑑賞
2006年4月4日記
静かな静かな映画。テレビの喧騒音に慣れた耳には、しばらくの間異和感があるものの、次第に集中力が・・・。男の私は、特にスクリーン上に表れる、17歳の宮﨑あおいと34歳の永作博美のしぐさと表情、そしてごくわずかのセリフに集中・・・。多少凝りすぎの感はあるものの、何とも奥深く、意味シンなタイトルと、日本映画でしか表現できないであろう繊細さに感動・・・。
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監督・脚本・撮影・編集:石川寛
ユウ(17歳)/宮﨑あおい
ヨースケ(17歳)/瑛太
ユウ(34歳)/永作博美
ヨースケ(34歳)/西島秀俊
ユウの姉/小山田サユリ
虎美(酔った女の子)/野波麻帆
虎美のバッグを物色する男/加瀬亮
ビターズ・エンド配給・2005年・日本映画・104分
<石川寛監督のプライベートな思いがいっぱい・・・>
この映画は、1963年生まれの石川寛監督が感じていた、きわめてプライベートな「思い」を、そのままスクリーンに表現したもの・・・?したがって、彼は監督だけではなく、脚本・撮影・編集もすべて担当することになった。カメラの異様な(?)までの長回しとか、カメラアングルの特殊性などは、専門的な解説を読まなくても、この映画を観ているとすぐにわかるもの。
彼がこの映画に『好きだ、』というタイトルをつけた思い、そして17歳の2人の主人公たちの物語と、その17年後34歳になった2人の同じ主人公たちの物語を1つの映画に登場させたことの思い・・・。それをじっくりと味わってほしいものだ。
<17歳という年は・・・?>
17歳という年は数字ヅラだけでは16歳と18歳の間だが、その1年の重みはすごく大きいもの。すなわち、18歳は高校卒業を控えた大人の年だし、16歳は中学校を卒業して高校生になったところだから、まだ子供・・・?そういうわけで、17歳という年齢には特殊な意味がある。それはまた、17歳をことさらに取りあげた映画や歌、そして小説や雑誌が多い(?)ことからもわかる。そして、17歳という年は、「好きだ」と言うのに最も適した年齢・・・、というのが、石川寛監督の思いだが・・・。
<宮﨑あおいの魅力がたっぷりと・・・>
17歳のユウを演ずる宮﨑あおいは、私が『NANAーナナー』(05年)を観て印象に残った女優だったが、1985年生まれの彼女が今や日本を代表する若手女優に成長していることが、この映画を観るとありありとわかる。
「台本を忘れて下さい」と言われ、毎朝キーワードだけを渡され、1、2時間カメラを回したまま、という撮影状況下、ほとんど表情と動作だけで、スクリーン上に観客の目を長時間集中させることができる演技力は、たいしたもの。この映画では、まずはこの宮﨑あおいの魅力をたっぷりと味わってもらいたいもの・・・。
<34歳の永作博美もステキ・・・>
他方、17年後のユウを演ずる永作博美も私の大好きな女優。テレビ出演が多く、映画は『ドッペルゲンガー』(03年)など少ないが、あのまん丸い顔(?)での演技力もすごいもの。
秋田県大館出身、34歳、独身、東京での一人住まい、という寂しい生活をしている女性は世の中にいくらでもいるはず・・・。そして他方、17年前の恋人(?)に東京でたまたま再会するなどどいう偶然はまずありえず、つくりモノの映画だからこそできる状況設定。しかし、そんな神の奇跡としか言いようのない状況下で出会った2人が交わしていく心のやりとりと、ごくわずかだけの会話。そんな難しい演技を永作博美は実に立派に・・・。
<ヨースケ(17歳)(瑛太)とヨースケ(34歳)(西島秀俊)>
坂和流映画評論は女優偏重が大前提だが、あまりにもそれが過ぎると男優諸氏に申し訳ないので、17歳のヨースケ(瑛太)と34歳のヨースケ(西島秀俊)にも触れておくと、2人とも静かな大熱演。以上・・・。なお、若干感想を述べると次のとおり。
それにしても17歳のヨースケはギターが下手だね。あんな同じフレーズだけをくり返す下手クソなギターを、ユウはよく隣りでじっと聴けるものだと、ヘンに感心・・・?
さらに、そんなヨースケでも34歳になって、曲りなりにも東京に住み、「音楽関係」でメシが食えるのだから、日本って本当にいい国だとヘンに納得・・・?もっとも、映画のラストに流れるギター曲は素晴らしいものだったので、これは妙に安心・・・。
<一度のキスの見方もあれこれ・・・?>
この映画は34歳になった男のヨースケの側から見ると、「なあユウ、あの時、何で俺は逃げる様に帰ってしまったんだろう?お前と初めてキスをしたあの時・・・」となる。しかし、他方、17歳の女のユウの側から見ると「ヨースケと向かい合っていた私は、思わずキスをした。ヨースケは何も言わないまま、私を置いて走って行ってしまった。涙が出た。何で私は泣いたんだろう?何で泣くことを止めなかったんだろう?何で?」となる。このように、2人とも、17歳の時に交わしたファーストキスのことを忘れることができず、これほどまでに思っているわけだが、その視点がこれほど違うところが面白い・・・?
<石川寛監督の見方が通用するのは・・・?>
しかし、これは、1963年秋田生まれの石川寛監督なればこその見方・・・?すなわち、この映画を監督した時彼が42歳という年齢であること、そしておぼこい(?)秋田県出身だからこその視点・・・?たしかに、よく考えてみれば、今ドキの都会育ちの子供たちは、17歳ともなれば「好きだ」と言った経験など山ほどあるだろうし、性体験だって既に複数・・・?したがって、17歳の時のファーストキスについて、ヨースケとユウがこの映画で語っているような思いを持っている17歳はほとんどいないのでは・・・?
<この女はナニ・・・?そしてこの男も・・・?>
この映画は、前半が17歳のヨースケとユウ、そして後半が34歳になったヨースケとユウの物語だが、後半の冒頭部分に突如ヘンな物語が登場する。まずは、ぐでんぐでんに酔っぱらい、道端でしどけない姿をさらして寝ている女の登場。ホステス風に正装し(?)、黒いストッキングを履いた両足を無防備に投げ出したその姿は、かなり艶めかしいもの。ヨースケはこの女を横目に通り過ぎて行ったが・・・。
続いて、そこに、女のバッグの中から財布を探るヘンな男(加瀬亮)が登場する。これが、人生に疲れ果てた中年オヤジならまだわかるのだが、若い男だから、なぜかそんなシーンを観ていると無性に腹が立ってくる・・・?
ところがその男は、その場に引き返してきて、自分をじっと観ているヨースケの目の力に負けたかのように、すごすごと逃げていくことに・・・。この女はナニ・・・?そしてこの男も・・・?
<何とも哲学的(?)なヨースケと虎美の会話・・・>
ヨースケがそんな女に靴を履かせてやり、仕方なく(?)自分の部屋まで運んでいき、水を飲ませ介抱してやったのはある意味当然かも知れないが、考え方によっては、これ自体かなりヤバイ行動・・・?やっと目をあけて、自分がどんな状況にあるか全然わからない女は、しばらくヨースケとトンチンカンな会話を交わしていたが、やっとその女の名前は虎美(野波麻帆)だということが判明・・・。
「いい名前だね」と言うヨースケに対して「そう言われたのははじめて」と答え、さらに続く「うまくいかなかった時、どうする?」というヨースケの質問に対しては、「目をつぶる・・・好きな自分を思い出す・・・そうするとちょっと元気になる」という、場末の飲み屋の女の言葉とはとても思えない、奥の深い哲学的な回答が・・・。こりゃ、かなり頭のいい女であることはまちがいなし・・・。ところが、この答えを聞いたヨースケは「俺は、好きな自分が思い浮かばない。もしいたとして、そいつは今でも俺の中にいるんだろうか?」と逆に落ち込むことに・・・。
<『うつせみ』VS『好きだ、』>
去る3月29日(水)に観た韓国のキム・ギドク監督の『うつせみ』(04年)は、2人の男女の主人公が全くセリフをしゃべらないという実に思い切った試みの映画だったが、バイクでの疾走を含めてスクリーン上の動きはごく普通のもの。そういう目で対比すると、この『好きだ、』は無言劇ではないが、セリフは極端に少ないうえ、長々と続くヨースケとユウとの2人だけのシーンが多いため、スクリーン上の動きもきわめて少なく静かなもの。
他方、キム・ギドク監督作品は人間の最も本質的な部分に切り込んでいくため、仏教やキリスト教を含む宗教的な色彩が強くなるが、石川寛監督がこの映画で描こうとするのは、あくまで男女間のシンプルでピュアな恋愛模様だから、その点では大違い・・・。
しかしひょっとして、1963年生まれの石川寛監督は頭のどこかに、1960年生まれと同世代のキム・ギドク監督やその作品を意識しているかも・・・。
<静けさと集中力・・・>
最近のテレビ番組は、「アホバカ」バラエティーのひどい喧騒ぶりはもちろん、ニュース番組でもそのやかましさが目についている。平成18年3月21日付産経新聞『正論』は、「騒々しく描写力失った日本社会」と題して、作家の曽野綾子さんが「テレビに象徴される幼稚化の波」、「なぜ甲高い女子アナの声」「ドラマも中学生の学芸会並」とその惨状を嘆いている。
これを読んで私はハタと膝を打ち、我が意を得たりと感心したもの。これと同じように映画の世界でも、CGを駆使したハリウッドの娯楽大作は、その喧騒ぶりが目につくもの。そして、そんな流れの対極にあるのが、キム・ギドク監督の『うつせみ』(04年)であり、この石川寛監督の『好きだ、』。
セリフが全くない、もしくは極端に少ない映画では、逆に観客がスクリーンに向ける集中力は強まるもの。小さな劇場で上映されたこの映画の観客は、みんな固唾を飲んでスクリーンに集中してることがありありと・・・。ところで、このテクニックは、二流大学、三流大学でよく見られる、教授の話を聞こうとせず、騒いだりケイタイを使っているアホバカ学生を静めるために大学の講義でも使えるかも・・・?
2006(平成18)年4月4日記