私の少女時代(我的少女時代/My Girlhoot)(中国映画・2011年) |
<シネ・ヌーヴォ>
2013年1月2日鑑賞
2013年1月9日記
「中国のヘレン・ケラー」と言われた女性の自叙伝の映画化だが、下半身マヒ状態での生活ぶりや、下放先での独学による医学の習得などキレイ事に過ぎる面がプンプンと・・・。しかし、それを差し引いても、地元の子供たちとの心の交流のストーリーは感動的。文化大革命の最中だってこれくらい頑張れば!!そんなストーリーは、むしろ今の日本の少女たちに見せてあげたい・・・。
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監督:馮振志(フェン・ゼンジ)
原作・脚本:張海迪(チャン・ハイディー)『車椅子の上の夢』(新潮社刊)
方丹(ファン・ダン)/李依暁(リー・イーシャオ)
黎江(リー・ジャン)/王毅(ワン・イー)
三梆子(サンバンズー)(ガキ大将)/史磊(シーレイ)
小金來(シャオ・ジンライ)(口の利けない少年)/鄭偉(チェン・ウェイ)
五星(ウーシン)(身体のデカイ少年)/省揚(シアン・ヤン)
方丹の父/任明生(レン・シンシェン)
方丹の母/趙慧利(チャオ・ホイリー)
許寧(シューニン)(黎江の恋人)/王子子(ワン・ズーズー)
2011年・中国映画・102分
配給/オリオフィルムズ
<中国のヘレン・ケラーとは?冒頭の出会いは?>
「中国のヘレン・ケラー」と言われても、それを知っている日本人は少ないはずだが、中国のヘレン・ケラーと言われる中国障害者連合会の女性会長、張海迪(チャン・ハイディー)の自伝的小説『車椅子の上の夢』を自身が脚色し、馮振志(フェン・ゼンジ)がメガホンをとった感動作というのが本作のウリ。映画冒頭ナレーションが流れる中、車を運転する姿で登場する中年女性が張海迪本人らしい。
本作の物語はここからの彼女の回想で始まるが、スクリーン上に登場する若い女性・方丹(ファン・ダン)を演ずる女優・李依暁(リー・イーシャオ)はかなりの美人。そんな方丹の家の近くの木の下でアコーディオンをひいている若い男性が学生の黎江(リー・ジャン)(王毅/ワン・イー)で、彼との間にまるで『ロミオとジュリエット』のバルコニーのシーンを彷彿させる美しい出会いのシーンが登場する。そこではじめてわかるのが、5歳の時に病気のため下半身不随になった方丹は、もう10年間もこの自宅のベッドの上で寝たり起きたりだけの生活をしているらしいこと。医師をしている両親の下で方丹は幸せに暮らしているようだが、さてこの先は?本作冒頭に観る方丹と黎江の出会いは美しいが、その後毛沢東が発動した文化大革命が勃発する中、方丹が楽しみにしていた本を毎日のように届けていた黎江はそれを続けられるの?また、医師という知識階級に属している方丹の両親が下放されたら方丹は・・・?
<どこまでが実話?どこまでがつくり話?>
5歳までの方丹は外を走り回る元気な女の子だったことがよくわかるから、ベッドの上しか生活の場がない今の方丹の悲しみと苦しみはいかばかり・・・。しかし、逆に動けないからこそ毎日読んでいる本の量はすごいもので、この状態なら学校へ行けなくても医師の両親は立派な後継者を育てることができるのでは・・・?
文化大革命前夜という緊迫した時代状況の中にあるからこそ、両親は方丹の将来のために何らかの手を打つべきことは明らかだが、それができないまま知識階級の両親に対する攻撃が強まる中ついに両親は下放され、方丹は一人家の中に残ることに。しかし、これってホント?一人では買い物にも行けず、トイレや風呂などの日常生活すらできない方丹が一人きりで取り残されたのでは、いくら黎江が献身的に本を運んでくれても死ぬしかないのでは?なぜ、下放された両親は一人娘の方丹を連れていかない(いけない)の?そこらあたりがよくわからないまま、前半の黎江と方丹の淡い恋模様が展開されるのが少し不満だ。さらに方丹の両親に続いて、学生だった黎江も田舎の村に下放されることになったから、今や方丹は一人ぼっちで誰も面倒をみてくれる人がいない状態に。そんな展開をみていると、『私の少女時代』というタイトルになっているものの、本作はさてどこまでが実話?どこまでがつくり話?
<本格的ストーリーは下放生活の中から・・・>
本作は急にバレエシーンが登場して、草原の中を方丹が美しく飛び回るシーンが登場するのでこれにはビックリ。また、こちらも下放された黎江の前に、突然若い女性・許寧(シューニン)(王子子/ワン・ズーズー)が登場してくるため、これを一瞬方丹と錯覚したりしてしまう。そのため、何となくストーリーが飛び飛びになってしまい、現実感を失いそうになってくるところがある。本作の本格的ストーリーが始まるのは、方丹が再び両親と共にとある農村に下放される中で、村人たちから子供たちの先生になることを頼まれ、これを承諾するところからだ。
方丹が村のために役立てることがあるとすればそれぐらいだから、これはまさに適材適所の役割りだが、この村に住む①口の利けない男の子・小金來(シャオ・ジンライ)(鄭偉/チェン・ウェイ)②ガキ大将の三梆子(サンバンズー)(史磊/シーレイ)③身体のデカイ少年・五星(ウーシン)(省揚/シアン・ヤン)という3人の少年を中心とした方丹との心の交流がいかにも「これぞ中国映画!」という感じで描かれていくところがすばらしい。下半身がマヒして動かないため、行動が制約される方丹への最大のプレゼントは器用な村人が作ってくれた車椅子。考えてみればそれまで誰もこれを作ってくれなかったのが不思議だが、この車椅子の登場によって方丹の行動範囲が飛躍的に広がると共に、独学で針治療の勉強を始めた方丹の外来医師(鍼灸医)としての第一歩(?)も始まることに。
もっとも、今から20年前頃にある人から毎週のように針治療を受けていた私は消毒していない針の恐さやまちがった針治療の恐さをよく知っているから、衛生状態の悪い方丹の下放先の村で、方丹が自身の身体を人体実験しながら小金來の耳に針を刺している姿を見るとちょっと恐い気もしたが、あの時代ではそんなことを心配しているヒマはなし・・・?この時代に方丹が両親から受けとった最高の誕生日プレゼントが針灸のツボが書かれている人体模型だが、さてこの人体模型を使った方丹の独学はどこまで進展・・・?
<黎江との文通は?それぞれの生き方は?>
吉永小百合と浜田光夫のゴールデンコンビ最高の泣かせる映画は『愛と死をみつめて』(08年)(『シネマルーム21』86頁参照)だったが、東京と大阪の遠距離恋愛の2人の最大の武器は手紙だった。それと同じように、互いに遠く離れた村に下放された黎江と方丹は手紙によって互いの状況を伝え合っていたが、よくわからないのはこの2人の関係が友情なのか、愛情なのかということ。外部の目には誰がどう見ても愛情に見えるのだが、互いにそれを告白し合ったことはないようだから、黎江の下放先で積極的に黎江にアプローチしてくる郵便配達の娘・許寧が出現すると次第に黎江の心は許寧の方に・・・?原作がどうなっているのかはもちろん知らないが本作を観ていても方丹が誰かと結婚したという情報は入ってこないから、結局本作中盤の間ずっと続く方丹と黎江の文通は清く正しく美しい友情のままで・・・。
そんな関係の中、黎江の彼女の許寧には某大学の物理学部電気自動車科に合格したとの通知が届くと共に、方丹には医学部合格の通知が。結局方丹と黎江との友情は恋に発展することなく方丹は医師への夢を実現させたわけだが、これでは少しさびしい感も・・・。
<ちょっと出来すぎ?少し現実離れしすぎだが・・・>
小金來が口を利けないのは耳が聴こえないことが大きな原因。ならば針治療によって耳が聴こえるようになれば口も利けるようになるのでは?そんな信念で懸命に方丹は小金來の耳に針治療を続けていたが、耳が穴だらけになっても一向に改善の兆しが見えないため、ある日小金來の母親は方丹を見切る決断を下すことに。ところが、映画の中では方丹の針治療は次第に村の評判を呼び、今では針治療だけでなく肺炎の診察までできるようになっていたからこれにはビックリ。医者になるための勉強って、こんな何の設備もない田舎でも、また独学オンリーでもできるの?さらに、雪と氷の中を車椅子で遠くまで診察に駆けつけたため自分も肺炎となり、敗血症の合併症まで引き起こした方丹は今にも死にそうな状態に陥ったが、これはどんな治療で全快したの?さらにパティ・デュークがアン・サリバン先生に扮した映画『奇跡の人』(79年)の中で、サリバン先生の猛特訓に耐えた少女ヘレン・ケラーがはじめて水を感じて「ウォーター」とうめくシーンは感動的だったが、本作でもある日急に小金來の耳が聴こえるようになるシーンは感動的。もっとも、同時にちょっと出来すぎの感も・・・。
本作のハイライトは長かった下放政策がやっと終わり、村を離れる方丹たち親子と村人たちの別れのシーンだが、そこでも小金來が口を利けるようになるという感動的なシーンが登場する。このように本作は少し出来すぎ、少し現実離れしすぎの面も強いが、そんな点を結果オーライの自叙伝と割り切れば、かなり感動的・・・。
2013(平成25)年1月9日記