ある海辺の詩人 ―小さなヴェニスで―(イタリア、フランス映画・2011年) |
<宣伝用DVD鑑賞>
2013年2月9日鑑賞
2013年2月13日記
『オーギュスタン/恋々風塵』(99年)の張曼玉(マギー・チャン)がフランスで大活躍なら、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督のミューズ、趙濤(チャオ・タオ)はイタリアで大活躍!ちょっと長い邦題だが、その邦題どおり「屈原」の詩と共に展開される、美しく切ないストーリーをじっくりと味わいたい。それにしても、いきなりのイタリア映画でイタリア・アカデミー賞の主演女優賞とは!趙濤の今後の活躍に注目!
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監督・脚本:アンドレア・セグレ
孫麗(ソン・リー)(イタリアで働く中国人移民女性)/趙濤(チャオ・タオ)
べーピ(詩人と呼ばれる漁師)/ラデ・シェルベッジア
コッペ(漁師生活を引退した男)/マルコ・パオリーニ
弁護士(今でも昔の職業名で呼ばれる男)/ロベルト・シトラン
デヴィス(外では威勢を張っていても妻の前では全く頭のあがらない男)/ジュゼッペ・バッティストン
2011年・イタリア、フランス映画・98分
配給/アルシネテラン
<張曼玉はフランスで!趙濤はイタリアで!>
香港の美人女優・張曼玉(マギー・チャン)の代表作は『宋家の三姉妹』(97年)と『花様年華』(00年)だが(『シネマルーム5』170頁、250頁参照)、その張曼玉がフランス語をしゃべって出演したフランス映画が『オーギュスタン/恋々風塵』(99年)。パリ13区のチャイナタウンに住む中国人女性と女流監督アンヌ・フォンテーヌがつくり出したオーギュスタンという個性的な男性との間に展開される恋愛ドラマは、オードリー・ヘップバーンばりの美しさ(?)を見せた張曼玉の魅力と相まって見事だった(『シネマルーム9』329頁参照)。やはり中国人は、また中国人女優の海外進出意欲は大したものだと感心させられたが、それと同じことが本作でも・・・。
本作でイタリアに「進出」したのは、中国第6世代監督の旗手・賈樟柯(ジャ・ジャンクー)のミューズとして『プラットホーム(站台/Platform)』(00年)、『青の稲妻』(02年)(『シネマルーム5』343頁参照)、『世界』(04年)(『シネマルーム17』289頁参照)、『長江哀歌(ちょうこうエレジー)(三峡好人/STILL LIFE)』(06年)(『シネマルーム17』283頁参照)、『四川のうた(二十四城記/24CITY)』(08年)(『シネマルーム22』213頁参照)に出演してきた女優・趙濤(チャオ・タオ)。なぜ趙濤が世界各国の映画賞を受賞し、「最も美しいイタリア映画の一つ」と賞された本作のヒロインに起用されたのかはよくわからないが、いきなり出演したイタリア映画でいきなり2012年イタリア・アカデミー賞でアジア人女優としてはじめて主演女優賞を受賞したという快挙にはビックリ。受賞式でレッドカーペットの上を歩く趙濤の姿は実に堂々たるものだった。
<小さなヴェニスとは?一方の主人公はこの風景!>
四方を海に囲まれた日本には美しい海辺の風景が至るところにあるが、それはイタリアも同じ。本作の舞台は「小さなヴェニス」と呼ばれるキオッジャだ。それがどこにあるのかは知らないが、ラグーナ(潟)に浮かぶ美しい漁師町がキオッジャらしい。本作ではその美しい漁師町の風景が一方の主役になるから、それに注目!
ところで、もともとローマの縫製工場で、縫製工として働いていた孫麗(ソン・リー)(趙濤/チャオ・タオ)が、なぜローマからキオッジャに「配置転換」され、パラディーゾ(天国)という名の、海辺にたたずむ小さな酒場(オステリア)で働くようになったのかは、かなり曰く因縁がありそう。なお、本作のプレスシートでは孫麗のことをシュン・リーと記載しているが、ネット上でも指摘されているように、これはソン・リーもしくはスン・リーと書くべきで、シュン・リーはあまりに不自然。それは孫文(ソン・ブン)、孫正義(ソン・マサヨシ)、孫悟空(ソン・ゴクウ)を考えれば明らかだ。そこで、本評論ではあえてソン・リーと書くことにする。
ソン・リーを動かしているのはある「組織」らしいが、中国に住む一人息子をイタリアに呼び一緒に生活するためには、ソン・リーはその「組織」に多くの額の借金を返済しなければならないらしい。そのため、ソン・リーは「組織」のいうとおり縫製工場で一生懸命働いていたが、今なぜか「組織」の方針変更のため、キオッジャへの「配置替え」となったわけだ。ソン・リーはイタリア語をしゃべれるとは言ってもまだまだ不十分だから、キオッジャのオステリアで働くようになると「プルーン入りコーヒー」や「極楽コンビ」など地元民にしかわからない飲み物をつくるのは大変そうだ。ソン・リーが息子に書き綴っている手紙を読む中国語を聞いていると、その発音がすごくきれいだから、私にもかなり聞き取ることができるのが嬉しい。ちなみに、イタリア語ではラグーナ(潟)は女性名詞であるのに対し、マーレ(海)は男性名詞らしい。なるほど、なるほど・・・。
<もう一方の主人公は、戦国時代の詩人「屈原」>
本作は冒頭、ソン・リーが赤い薄紙で作られた蓮の花の芯にローソクの火を灯してこれをバスタブの水に浮かべながら美しい詩を暗唱する幻想的なシーンが登場する。その詩が屈原の詩だ。アンドレア・セグレ監督によれば、これは古くから実際に中国にある「屈原の祭り」だが、これを祝う習慣は文化大革命で消え、近年になって少しずつ復活しているそうだ。そんな「屈原の祭り」をソン・リーが異国の地で思い出し、懐かしんでいる重要なシーンがこれ。しかし、ホントに今時の中国人女性が「屈原の祭り」を思い出し、屈原の詩を暗唱しているの?そんなことがありえないことは、プレスシートにある渡辺祥子氏の「アンドレア・セグレ監督 ドキュメンタリーから詩情ただよう劇映画へ」と題するインタビューで指摘されているが、アンドレア・セグレ監督の考え方は「でも、非現実的ではあるけれど、ただ単に非現実的なだけでなく、現実を超えた現実になっていく。そこに私の考える映画があるのです」ということらしい。
中学時代の漢文の授業のウエイトが大きかったため、私はトイレの中で四文字熟語の本をいつも読んでいたが、その中に屈原のことが書かれてあったことを今でも記憶している。そんな懐かしみを込めてネット上で「屈原」の情報を集めてみると、彼は中国の戦国時代(BC4世紀頃)を代表する詩人(『楚辞』が有名)であると同時に、楚の国の重要な政治家。当時、楚は西にある大国・秦とどう向き合うかをめぐって、秦と同盟することで安泰を得ようとする「親秦派」(楚における連衝説)と、東の斉と同盟することで秦に対抗しようとする「親斉派」(楚における合従説)に対立していたが、結局、屈原の策は容れられず、屈原は楚の将来に絶望して入水自殺してしまうことに。現在、行われているへさきに竜の首飾りをつけた竜船が競争する「ドラゴンレース」(龍舟比賽)という行事は、屈原の死体が魚に食べられないようにするため、楚の人たちが小舟で川に行き、太鼓を打ってその音で魚をおどし、さらにちまきを投げて「屈原」の死体を魚が食べないようにしたものが由来らしい。毎年、屈原の命日である5月5日に屈原の供養のためこのような「端午の節句」の祭りが行われるようになり、それがやがて中国全体に広がっていったわけだ。
本作の主たるストーリーは、パラディーゾに集まる地元の漁師で語呂合わせが得意なことから「詩人」と呼ばれている初老の男べーピ(ラデ・シェルベッジア)と、ソン・リーとの切ない心の交流と別れ。しかし、同時に本作ではキオッジャの美しい風景と共に、屈原の詩がもう一方の主人公になるので、それにも注目!
<心の交流の接点は?>
パラディーゾに集まるのは、前述したべーピの他、長年の漁師生活を引退し仕事のない明日に不安を覚えるコッペ(マルコ・パオリーニ)、今でも昔の職業名で呼ばれる弁護士(ロベルト・シトラン)、外では威勢を張っていても妻の前では全く頭のあがらないデヴィス(ジュゼッペ・バッティストン)たち。みんな初老の男だが、イタリア男はみんな陽気で前向き。そう思っていると、ベーピだけは旧ユーゴスラビアからの移民らしい。そして、まずそれが中国からの移民であるソン・リーとの心の交流の接点になっていく。
ベーピは近くの町に住んでいる息子夫婦から同居することを勧められているが、まだまだ現役の漁師が好きそう。そんなベーピだから、ソン・リーから彼女の故郷も海の近くで父も祖父もみんな漁師だったと聞くと急にソン・リーに親しみを覚えたらしい。また、ソン・リーも詩人らしいユーモアをたたえてソン・リーの話を聞いてくれるベーピに対して少しずつ心を開いていたのは自然な成り行きだった。「水の都」ベネチアの町が2012年11月の大雨によって1.5mも水位が上昇したことによって水につかってしまったというニュースはテレビで観たことがあったが、本作中盤で驚かされるのは、キオッジャの町全体が海水につかってもみんな平然と生活していること。当然パラディーゾも海水につかっていたが、そこでベーピが海水の上に灯篭に見立てた小さなローソクを浮かべて、「屈原の祭り」のまねごと(?)をして見せると、ソン・リーは?また、ある時、海の中に浮かんでいるベーピの「小屋」にソン・リーを招待した中で展開される、2人の心の交流とは・・・?
<「ムラ社会」のゆがみ?移民排斥の思想?>
キオッジャの漁師町はたしかに美しいが、そうかと言ってそこに住む人たちの心がみんな美しいわけではない。むしろ日本も同じで、「ムラ社会」ではその中に同化する者は迎え入れるが、そこに異質な価値観を持ち込む者は排斥してしまう傾向がある。本作は「起承転結」の形できれいに構成されているが、「転」の部分で起きるのが、その「ムラ社会」特有のソン・リーとベーピに対する排斥運動だ。それはそれである程度仕方ないが、問題はそこに外国人排斥思想、とりわけ世界に増殖している(?)中国人排斥思想が加わること。興味本位にソン・リーとベーピの関係を邪推し、はやし立てる一部の心ない男たちの姿を見ると悲しくかつ情けなくなってくるが、どうもそれが人間の本性らしい。
ソン・リーがそんな「騒動」に巻き込まれたことを知って怒ったのが「組織」。せっかくソン・リーをキオッジャに「配置替え」してしっかり稼がせようとしたのに、これでは台なし。こんな状態では借金の返済はできず息子にも会えないことになるぞ。そう脅しをかけられたうえ、今後ベーピと口を聞くことを禁止されたソン・リーはただその命令に従うのみだ。本作全編を通じて趙濤は自らの境遇にじっと耐え、子供との面会を待ちわびる若い母親像を静かに演じているが、この「転」から「結」にかけて主演女優賞受賞女優らしくその演技が光ってくるので、それに注目!また、そんなソン・リーの思いを一風変わった形でフォローするのがキオッジャの町にやってきた時、同室になるソン・リーと同じような境遇(?)の若い女性。本作ではこの女性が海辺に出て太極拳をする美しいシーンが数回登場するが、さてこのシーンをあなたはどのように理解?
<「切なさ」と共に、邦題の意味をしっかりと!>
本作では再三再四、屈原の詩が朗読されるが、それが字幕に表示されないのが残念。一度聞いただけでそれを理解し、味わうのは無理だから、それくらいの親切心は示してもらいたいものだ。本作の「結」の部分は、キオッジャの町を去ったソン・リーが待望の息子との再会を果たした後、再びキオッジャの町を訪れるというシークエンスになる。ソン・リーの再来を喜んだのはコッペだったが、そのコッペの口から聞かされたのはベーピの死。ベーピはソン・リーに送る手紙を書いたものの、その送り先がわからないため、その手紙をずっとコッペが預かっていたらしい。長い間漁師をやっていたベーピの財産は、かつてソン・リーも訪れたことのある海に浮かぶ小屋だけ。詩人らしいベーピの心のこもった手紙を読み終わったソン・リーは今、コッペのボートに乗ってその小屋に向かったが、そこで展開される最後の光景とは?
環境保護の観点からは少し問題あり!と思われる光景ながら、美しい漁師町キオッジャを一方の主人公とした本作にふさわしい、この美しい幕切れをしっかりと味わいたい。さらに、ちょっと長いが『ある海辺の詩人-小さなヴェニスで-』という邦題の意味も、本作「結」の部分で一気に提示される「切なさ」と共に、しっかりと味わいたい。
2013(平成25)年2月13日記