リバティーン(イギリス映画・2005年) |
<テアトル梅田>
2006年4月15日鑑賞
2006年4月20日記
これは17世紀イギリスに実在した放蕩詩人、第2代ロチェスター伯爵の破天荒な生涯を、ジョニー・デップならではの演技力で描いた映画。酒と女に狂うだけならバカでもできるが、彼は天才的劇作家だった(らしい)!ところが、フランスで100年後に有名になったマルキ・ド・サドと同じように、国王に迎合しないそのポルノチックな作風は困ったもの・・・。「放蕩と破滅」という、天才芸術家によくあるパターンのストーリーだが、天才俳優がそれを演じたからさらにすごいことに。もっとも、こんなマニアックな映画の評価は、賛否両論極端に分かれるのも当然だが・・・?
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監督:ローレンス・ダンモア
第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモット/ジョニー・デップ
エリザベス・バリー(女優)/サマンサ・モートン
国王チャールズ2世/ジョン・マルコヴィッチ
エリザベス・マレット(ジョンの妻)/ロザムンド・パイク
ジョージ・エサリッジ/トム・ホランダー
ジェーン(娼婦)/ケリー・ライリー
ビリー・ダウンズ(ジョンに憧れる若者)/ルパート・フレンド
オールコック(ジョンの従者)/リチャード・コイル
第2代ロチェスター伯爵の母/フランチェスカ・アニス
メディア・スーツ配給・2005年・イギリス映画・110分
<第2代ロチェスター伯爵は実在の人物>
「脚本の冒頭3行を読んで、出演を即決した。後にも先にも生涯で一度しかめぐり合わない作品さ」というのが、縦横無尽の大活躍をしたジョニー・デップ自身による、この映画の謳い文句。「天才俳優」ジョニー・デップがそれほど傾注したこの映画の主人公である放蕩詩人第2代ロチェスター伯爵ジョン・ウィルモット(ジョニー・デップ)は、17世紀のイギリスに実在した興味深い人物。もっともその評価が、文学史や文学論においても、必ずしも確立していないことは、パンフレットを読んで勉強すればよくわかる。あり余る才能はあったらしいが、酒と女に溺れ、ポルノ小説まがいの詩や脚本を書き、ことあるごとに国王に反抗したロチェスター伯爵。そして、結果的には酒と梅毒によって33歳という若さで死亡したこの男の生きザマは、誰がどう見てもメチャクチャだが、逆にそうだからこそ、ある意味で魅力的・・・?
<ジョンVSシェイクスピア>
シェイクスピア(1564~1616年)は、イギリスはもちろん全世界的に有名な劇作家だが、彼が生きた時代はエリザベス女王が統治するイギリスの全盛期。劇作家が自由に作品を書き、かつそれを自由に劇場で上演するためには、貴族や国王をパトロンとし、その支援を得ることが不可欠。それはシェイクスピアも同じだったはず。
したがって、シェイクスピアだって、一面では国王のご機嫌をとりながら創作活動に励んだのは当然で、ジョンのように何でも好き放題にやらせてくれというのは、ちょっと虫のいい話・・・?ましてや、国王から金をもらいながら、国王批判の劇を書くのは、信義則違反・・・?
<ジョンVSマルキ・ド・サド>
人間の性に関する最も本質的な部分を、文学の世界でトコトン追及したのが、私の大好きな(?)サド侯爵ことマルキ・ド・サドだが、そんな彼が反社会的で社会秩序を乱す輩として、時の政治権力から迫害されることになったのは当然・・・?
サドはフランス人だが、よく考えてみれば、ジョンはサドよりも100年早くイギリスで、性に関する問題提起をしていたわけだ。フランスのサド侯爵がイギリス人の第2代ロチェスター伯爵の影響を受けたのかどうかは知らないが、パンフレットによれば、「現代英国の詩人ピーター・ポーターなどは、ロチェスターはボードレール、ランボーの先駆者であるとさえ高く評価している」とのこと。もっともこれは、イギリス人のフランス人への対抗意識だけかも・・・?
<小ロマン派とは?>
私は全然知らなかったが、パンフレットの中には芝山幹郎氏の「放蕩伯爵の遺伝子」という評論がある。そしてそこでは、澁澤龍彦氏の名著『悪魔のいる文学史』の「孫引き」(?)ながら、①狼男を自称していたペトリュス・ボレル、②『天井桟敷の人々』の登場人物としても名高いピエール・フランソワ・ラスネールの2人について、「1830年代に文学史を彩った怪人」「文学者としては大成しなかったが、花火のような彼らの人生は歴史の谷間で暗く輝いている」と紹介している。さらに澁澤龍彦氏の本は、この2人の他、③43歳の年に梅毒で死んだアルフォンス・ラップ、④巨大な鼻と不幸な恋愛に苦しみ、最後は発狂して精神病院で死んだシャルル・ラッサイー、⑤詩人として出発しながら、最後は魔術師になってしまったエリファス・レヴィらについても紹介し、彼ら「小ロマン派」の短い栄光と破滅を、そしてそこに派生したダンディズムと黒いユーモアを描き出しているとのこと。音楽や絵画(の歴史)における印象派やロマン派は多少知っているが、小説や文学の世界でもこんな「小ロマン派」というジャンルがあることなど、ホント知らなかったナア・・・。今の私には、法律の勉強をするより、こんな評論を読んで、こんなヘンな時代の、ヘンな文学者たちの勉強をする方がよほど面白いから、ちょっと困ったもの・・・。
<2人のエリザベス・・・?>
この映画はジョンの生きザマに焦点を当てたものだが、ジョンの生き方に大きな影響を及ぼした女性は妻のエリザベス・マレット(ロザムンド・パイク)と女優のエリザベス・バリー(サマンサ・モートン)という2人のエリザベス。妻のエリザベスは、経済的に困窮していたジョンが、富裕な男爵の娘をたぶらかし、財産目当てで結婚した女らしいが、これが映画の中では実にいいオンナで、どちらかというと尽くすタイプの女・・・?ジョンを憎みながらも、ジョンの最後を見取るシーンなどは、何とも見上げたもの・・・?
これに対して女優のエリザベスの方は自立心とプライドの高い女で、ジョンの指導によって人気女優になることができたにもかかわらず、あくまでジョンとは対等の関係を求める女・・・?さらに自分の意思でジョンの愛人になりながら、他方で、国王から多額の報酬を提示されて、ジョンを監視し報告する役目を命じられると、「私はジョンの愛人だが、それ以前に国王の臣下」と述べて、何の矛盾もなく、それを承諾するという根性の座ったオンナ・・・?こんな2人だから、ジョンをめぐるこの2人の女のバトルもなかなかの見どころ・・・?
<おっと、もう1人・・・?>
おっと、ジョンをめぐる女はもう1人いた。それは、あの時代、女性の職業として立派に存在していた(?)娼婦のジェーン(ケリー・ライリー)。ジョンと女優エリザベスとの演技・演劇論争や女優論争そして人生論争ほど高尚ではないものの、ジョンとジェーンとの間の性論争(?)も結構面白いもの・・・。そして、このジェーンは、娼婦でありながら、ジョンが国王から追放された後、ずっとジョンと一緒に逃げ回っていたというからエライもの・・・。
<ピューリタン革命と王政復古の時代とは?>
封建時代=中世と、近世=市民社会を区別する最大の分岐点は1789年のフランス革命だが、実はその100年以上も前にイギリスで起こったピューリタン革命(1642~1649年)もそれに近いもの・・・?もっとも、これは市民革命=政治革命という要素以上に、カトリックに対するプロテスタントによる宗教革命という色彩が強かったために、これが近世への分岐点と評価されなかったもの・・・?以上、坂和説だがホンマかいな・・・?
それはともかく、このピューリタン革命による政治革命は結局中途半端に終わり、その後「王政復古」の時代が訪れたことは歴史的事実。そしてそれが、この映画に登場する国王チャールズ2世(ジョン・マルコヴィッチ)の時代だが・・・。
<議会と国王の権力闘争は?>
ピューリタン革命によって、議会の開設を承諾せざるをえなくなった国王だったが、「王政復古」で復活したチャールズ2世はそんな客観的な情勢を受け入れつつ、自分の立場の維持を狙った。そのため、彼にとってはフランスのブルボン王朝との友好関係の維持は大切で、国王のルイに対してもいろいろと気を遣っていた様子。もっともこの時代、イギリスに比べればフランスの王権は、まだまだ絶対的な力を持っていたもの。したがって、フランスの大使を招く歓迎式典で上演する劇の創作を、チャールズ2世がジョンに命じたのは、反抗的なジョンを嫌悪しながら、その才能は認めざるをえなかったせい。ところがここでジョンが創作した戯曲の内容とは・・・?
また映画後半には、弟に王位を承継させることの是非をめぐって、議会とチャールズ2世が対立する様子が生々しく描かれる。そして意外にも、そこでジョンが果たした役割とは・・・?
<これはいいセリフ>
この映画は、ジョンの名セリフがいくつか登場する。冒頭とラストシーンにおける「男は私に嫉妬し、女は拒絶するだろう。どうか好きにならないでくれ」というセリフは、キザでニヒルすぎる(?)ため私は好きではない。しかし、「自腹を切らねば、人生は学べない」というセリフには100%同感。これは今後あらゆる場面で引用していこう・・・。
他方、妻のエリザベスがジョンを憎みつつ、強く愛していることがよくわかるのは、ジョンが最も気に入っているという「莫大な遺産を相続した18歳の私を、あなたが誘拐し、王が怒って幽閉した」とエリザベスが語るエピソード。ジョンが息を引き取る直前にエリザベスにせがんだのも、そのエピソードを語ってもらうことだった・・・。
<注目すべきジョンVSエリザベス論争>
ジョンと女優エリザベス・バリーとの論争はすごく内容の濃いものだから、要注目。その第1は、女優としての演技指導における論争。いくら指導してもダメな大根役者は論外だが、スーパースターを夢見ているエリザベスは、自分は天才だと自覚しているほどの女優だから、鍛え方によっては、メキメキと力をつけてくるもの。ジョンはそんなエリザベスに対して、同じセリフを「もう1度、もう1度」と20回以上くり返させたため、周りからは驚きの声が・・・。しかし、これは私に言わせれば当然のこと。そして、エリザベスもすごい。あの劇の第何幕の○○のシーンと言うだけで、語るべきセリフが次々と彼女の口から飛び出してくるのだから。その第2は、芸術論と女優論に関する本音の議論で、その激しさと真剣味に注目したいものだ。
<あらためて梅毒の恐怖が・・・?>
医学・衛生環境の整備された今の日本はそれほどでもないが、今やアフリカや東南アジアなどにおけるエイズの恐怖は、次第に深刻になっている。しかし、私が物心ついた頃(?)の恐怖は、何といっても淋病と梅毒。もっとも、これは性病の代表だから、「悪い遊び」さえしなければ大丈夫なのだが、時としてはそういう話もチラホラ・・・?
目を転じて、17世紀のイギリスで、酒と女遊びの毎日を過ごし、放蕩の限りを尽くしていたジョンであれば、そんな悪い病気にかかる確率が高いのは当たり前。「梅毒がひどくなればと鼻がとれる」などと、まことしやかに語られていたことを思い出しながら、映画の終盤に見せるジョンの顔を観ていると、あらためて梅毒の恐怖が・・・?
<賛否両論が極端に・・・>
『キネマ旬報』4月上旬号は、巻頭特集に「天才を刺激するカリスマ」としてジョニー・デップを取りあげた。そして、ここでは当然ながら、あらゆる角度から彼に対して絶賛の嵐。しかし「天才俳優」ジョニー・デップのカラーが強く出るにつれて、それに対する反発が生まれるのは仕方ないもの。私はほとんどスクリーン上に出ずっぱりの彼の演技を観ながら、役になりきった彼の語りを聞いていると、「さすがだな」と感心する方が強く、全然反発は感じないが、それが鼻につく観客もいるはず。
そんな意見の代表が、『キネマ旬報』5月上旬号の黒田邦雄氏の映画批評(94頁)。そこでは、「これなら同じ快楽主義者でもサド侯爵やカサノバの方がよほど革新的だと思った」「つまり、私にはこの映画が描くウィルモットが、ひどく退屈だった」をはじめとして、ケチ論のオンパレード。もっとも、私と同じく彼も、「ウィルモットの名前がカサノバやサド侯爵ほど有名でないのは、そもそもそれほどの男ではなかったのか、そもそもこの映画のウィルモットが面白くないのか。その判断をする材料を持ち合わせていないので何とも言えない」と「自白」しているから、そのケチ論にあまり説得力を感じなかったが・・・。
新聞紙上によく書かれている「絶賛評論」は、それだけを読んだのではダメで、こんな「ボロクソ批評」と比較・対照しながら読んでこそ面白いというもの。ジョニー・デップ好み(?)のこんなマニアックな映画だから、それはなおさら・・・?
2006(平成18)年4月20日記