華麗なるギャツビー(アメリカ映画・2013年) |
<TOHOシネマズ梅田>
2013年6月15日鑑賞
2013年6月21日記
寡聞にして、フランシス・スコット・フィッツジェラルド原作の、アメリカを代表する『華麗なるギャツビー』を知らなかったが、本作を観てなるほど、なるほど・・・。第1次世界大戦終了後の1922年、空前の好景気に湧いたニューヨークで若き大富豪ギャツビーは、なぜ毎夜豪邸でパーティーを?その背後に、『タイタニック』のジャックと同じような純愛物語が潜んでいたことにビックリ!大富豪?それとも成り上がり者?その区別は難しいが3Dのスクリーン上でくり広げられる日本のバブルをはるかに上回る絢爛豪華さに酔いしれながら、この男の生きザマをじっくりと味わいたい。
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監督・製作・脚本:バズ・ラーマン
原作:フランシス・スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』
ジェイ・ギャツビー(謎の億万長者)/レオナルド・ディカプリオ
ニック・キャラウェイ(語り手、作家志望の青年、ギャツビーの隣人)/トビー・マグワイア
デイジー・ブキャナン(ニックの従兄妹、ギャツビーの元恋人)/キャリー・マリガン
トム・ブキャナン(デイジーの夫、ニックの学友)/ジョエル・エドガートン
マートル・ウィルソン(トムの愛人、灰の谷の住人)/アイラ・フィッシャー
ジョージ・ウィルソン(マートルの夫)/ジェイソン・クラーク
ジョーダン・ベイカー(女性プロゴルファー、デイジーの親友)/エリザベス・デビッキ
マイヤー・ウォルシャイム(ギャツビーの事業のパートナー)/アミターブ・バッチャン
2013年・アメリカ映画・142分
配給/ワーナー・ブラザース映画
<全然知らなかったが、こんなに有名とは・・・>
近時『ロード・トゥ・パーディション』(02年)(『シネマルーム2』143頁参照)、『パブリック・エネミーズ』(09年)(『シネマルーム24』186頁参照)、『欲望のバージニア(LAWLESS)』(12年)などアメリカの1920~30年代、禁酒法の時代、ギャングの時代の映画を立て続けに観た。それと同じ時代を背景としたフランシス・スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』という小説と、1974年にロバート・レッドフォードとミア・ファローの共演でそれを映画化した『華麗なるギャツビー』はメチャ有名らしい。
6月14日付大阪日日新聞の「一本見るなら」の映画評論では、「少し年配の人でなくてもこの題名を聞けば、1974年にロバート・レッドフォードとミア・ファローで映画化された作品を思い浮かべるはず。もう40年近くも前で、当時映画館に足を運んだ人も“独身大富豪とセレブ人妻のラブロマンス”くらいしか覚えていない方が多い。20世紀米国を代表する作家F・スコット・フィツジェラルドの同名小説が原作で、過去に7度も映像化されている不朽の名作でもある。」と書かれている。その筆者である畑山博史氏は私とほぼ同年輩だが、寡聞にして私はこの小説もこの映画も全然知らなかった。あえて弁解すれば1974年は私が弁護士登録した年で映画どころではなかったということだが、それでも結構好きな映画は観ていたから、まともな弁解とはならないだろう。そんな有名な作品を、恥ずかしながら今回はじめて鑑賞。ちなみに、『キネマ旬報』7月上旬号でも「バズラーマンMEETSフィッツジェラルド『華麗なるギャツビー』」なる巻頭特集を組んでいるので、それも読んでしっかり勉強しなければ・・・。
<74年版も本作も、最も旬な俳優が共演!>
ハリウッド屈指の美男俳優であるロバート・レッドフォードは、アメリカン・ニューシネマの代表作である1969年の『明日に向かって撃て!』で鮮烈な印象を残した。74年版『華麗なるギャツビー』でこのロバート・レッドフォードと共演したミア・ファローは、1968年の『ローズマリーの赤ちゃん』における怪演で一躍有名になった女優だ。
それに対して本作でギャツビー役をカッコよく演じたレオナルド・ディカプリオは、1997年の『タイタニック』で魅せたお坊ちゃま俳優(?)から、近時は『ディパーテッド』(06年)(『シネマルーム14』57頁参照)、『ブラッド・ダイヤモンド』(06年)(『シネマルーム14』116頁参照)、『J・エドガー』(11年)(『シネマルーム28』未掲載)、『ジャンゴ 繋がれざる者』(12年)(『シネマルーム30』41頁参照)などで、凄味のある大人の男への変身を見事に果たしている。他方、本作でデイジー役を演じたキャリー・マリガンは『プライドと偏見』(05年)(『シネマルーム10』198頁参照)でデビューした後、『17歳の肖像』(08年)(『シネマルーム24』20頁参照)で一躍脚光を浴び、近時は『わたしを離さないで』(10年)(『シネマルーム26』98頁参照)や『SHAME -シェイム-』(11年)(『シネマルーム28』186頁参照)などでいい味を出している、私の大好きなイギリス人女優だ。
この4人を対比して面白いのは、1936年生まれのロバート・レッドフォードは38歳の時、1945年生まれのミア・ファローは29歳の時に74年版『華麗なるギャツビー』に出演しているのに対し、2013年版の本作には、1974年生まれのレオナルド・ディカプリオは38歳の今、1985年生まれのキャリー・マリガンは28歳の今出演していること。つまり、ギャツビー役もデイジー役も同年代で、その時代の最も旬な俳優が起用されているわけだ。
1914~18年の第1次世界大戦に参戦せず、「モンロー主義」「孤立主義」を貫いたアメリカは戦後空前の繁栄期を迎えたが、本作はそんな1922年の時代のニューヨークが舞台。大富豪ギャツビーを演じたロバート・レッドフォードもレオナルド・ディカプリオもそのスーツ姿がメチャカッコいいのは当然だが、あの時代の女性ファッションの華やかさは?ミア・ファローも良かっただろうが、さてキャリー・マリガンの方は?そんな目でアメリカの「あの時代」を舞台とした新旧4人の俳優を比較するのも一興だ。
<日本もバブル時代はすごかったが、このスケールには!>
1980年代から90年代にかけての日本のバブル時代の象徴は、最盛期を誇っていた東京のディスコ「ジュリアナ東京」での風景だ。ボディコンに身を包み、ジュリ扇と呼ばれる羽付き扇子を振り回しながら、夜毎「お立ち台」の上でディスコダンスに酔いしれる姿は、まさに隔絶の感がある。しかし、3Dのスクリーンで見る1922年当時のギャツビー邸で夜毎(週末毎?)くり広げられるパーティーのサマは、第1にお屋敷のバカでかさ、第2にパーティー参加者の著名度において、「ジュリアナ東京」の風景とは大違いだ。
当時「ジュリアナ東京」の料金がいくらだったのかは知らないが、宮殿のような豪邸で暮らす謎めいた大金持ちギャツビーが主催するパーティーは、きっと参加無料で飲み放題、踊り放題のはず。そのうえ、そこに参加すれば著名な政治家・芸能人・スポーツ選手などと顔見知りになれるから、紹介者が紹介者を呼び、参加者がどんどん膨れあがっていったのは当然だ。そんな中ギャツビー邸の隣に住み、証券会社に勤めている男ニック・キャラウェイ(トビー・マグワイア)にギャツビーからわざわざ招待状が届いたから彼は大喜び。
本作はそんなニックの語りとニックがギャツビーの物語を執筆しようとするシークエンスから始まるが、一体このギャツビーという男は何者?なぜ、こんなに無尽蔵な大金持ちになったの?何のために夜毎こんなド派手なパーティーを開いているの?そしてまた、一介の証券マンにすぎないニックに、なぜ招待状が・・・?
<新旧タイプの「成り上がり者」は互いに反目!>
ライブドアのホリエモンこと堀江貴文や楽天の三木谷浩史らかつての「IT騎手」は新しいタイプの「成り上がり者」として巨万の富を築いたが、彼らが経団連や経済同友会に結集する古いタイプの「成り上がり者」(?)とソリが合わなかったのは当然。ホリエモンは失脚してしまったが、三木谷は現在、ITの新興企業などで作る「新経済連盟」(新経連)の代表理事を務めるとともに、安倍晋三総理を議長とする産業競争力会議の議員として大きな力を発揮している。しかし、その歯に衣着せぬ言動に対して反発する旧タイプの経営者が多いことは周知のとおりだ。このような新旧成り上がり者構造とその対立はいつの時代も同じであることが、1922年当時のアメリカのお金持ちの姿を見ればよくわかる。
美しい妻デイジー・ブキャナン(キャリー・マリガン)と結婚し、巨万の富を誇るトム・ブキャナン(ジョエル・エドガートン)は決して自分が成り上がり者とは思っておらず、むしろ「正当派紳士」と思っていたようだ。しかし、なぜ彼があの時代に一代で巨万の富を築くことができたのかを考えれば、所詮彼も古いタイプの成り上がり者?しかも、デイジーが著名な女子プロゴルファーのジョーダン・ベイカー(エリザベス・デビッキ)といつも仲良くしているのをいいことに(?)、自分は「灰の谷」に住むジョージ・ウィルソン(ジェイソン・クラーク)の妻マートル・ウィルソン(アイラ・フィッシャー )と密かに(?)浮気を続けていたから、これを見ても成り上がり者であることは明らか?
そんな彼がはじめてギャツビー邸のパーティーに参加した時、このパーティーの主催者であるギャツビーはうさん臭いことをして金儲けをしている奴に違いない、ひょっとして、その方法は裏社会のドンであるマイヤー・ウォルシャイム(アミターブ・バッチャン)と組んだ酒、女、ドラッグ絡みの事業では?そう考えたのは当然だ。しかも、はじめて目の前で見た男ギャツビーは、顔形こそハンサムだがピンクのスーツはいかにも趣味が悪く、成り上がり者そのもの!そんな評価をし、見下したのは仕方ない。他方、言葉遣いこそ丁寧だったが、そんなトムのことをギャツビーが「ポロの上手なポロプレイヤー」とパーティー参加者に紹介したのは、日本人にはわかりにくいが、ちょっとした皮肉。馬上からマレットと呼ばれる棒で球を打ち相手のゴールに入れることによって得点を競う集団競技である「ポロ」はイギリスでは紳士のスポーツとされており、上流階級の人たちのスポーツだが、ギャツビーは「ポロプレイヤー」と紹介することによって、トムのことを「ポロしかできない馬鹿な金持ち」というニュアンスを込めたわけだ。
こんな風に新旧タイプの「成り上がり者」同士であるギャツビーとトムが互いに反目し合ったのは当然だが、実は2人が反目した理由は他にも・・・。そして、それこそが、ある意味で壮大な「純愛物語」とも言える本作のテーマなのだ。
<ギャツビーは、なぜここに豪邸を?>
はじめてギャツビー邸に招待されたニックは、多くの来客の対応に忙しいギャツビーがにこやかに自分を友人として迎えてくれたことに大感激。一気に「ギャツビーは良い奴だ」と思い込んだのは当然だが、そこでギャツビーから聞かされた簡単な自己紹介は?さらに、その数日後ニックを2人だけのドライブに誘ったギャツビーは、ものすごい車を自ら運転しながら「裕福な名家に生まれてヨーロッパで暮らした後、戦争で英雄となり、両親が亡くなった今は天涯孤独の身だ」と詳しく自己紹介したが、それってホント?ちょっと出来すぎでは?そんな疑問を持ったニックだが、交通違反を見咎めた警察官に対してギャツビーが一枚の名刺を見せると、「失礼しました」でお咎めなし。その理由が、ギャツビーが警察署とも親しい仲だからと言うことがわかると、やっぱりこの男の説明はホント?一瞬ニックはそう思ったが、さてギャツビーの真の生い立ちは?
そんなギャツビーがニックに依頼したのは、ニックの従兄妹であり、今はトムの妻となっているデイジーと個人的に会うこと。ギャツビーの大邸宅は湖を挟んでトムの大邸宅の向かい側に建てられていたが、それって何か意味があるの?また、ギャツビーは時々湖に突き出ている桟橋の上に立ち、一人ブキャナン邸を見つめながら手を差しのばしていたが、それにも何か意味があるの?
大邸宅の奥行きの広がりと、湖を挟んだ2つの大邸宅の立体感が迫力を示す3Dのスクリーン上で1920年代の華やかなパーティーがくり広げられ、登場人物たちの相関関係が明らかにされていく中、ストーリーは少しずつ核心に・・・。そう、ギャツビーとデイジーとの間には、かつてものすごい悲恋物語があったわけだ。しかして、その当時のギャツビーの立場とは・・・?
<過去は取り戻せる?それとも?>
1974年生まれのディカプリオが『タイタニック』(97年)でジャック役を演じたのは23歳の時。あの時のディカプリオは初々しさでいっぱいだったが、今回ギャツビー役を演じたのは38歳の時だ。したがって貫禄がついたうえ、男の色気も、初々しいものから大人の男のそれに変わっているのは当然だ。ギャツビー邸のオーナーとして、パーティー参加者に対して丁寧に応対している姿を見ると、まさにその貫禄とカッコ良さにほれぼれするほどだ。ところが、ニックの手配によってニックの家でギャツビーとデイジーとの「再会デート」の日を迎えると、ギャツビーは『タイタニック』のジャックに戻ってしまった感がある。あれ、この男はこんなにウブだったの?ここまでのし上がるについて、カネの洗礼はもちろん、女の洗礼も散々受けてきたのではないの?この再会デートのシークエンスでは、ディカプリオが見せるそんな「男のギャップ」をしっかり確認しかつ楽しみたい。
他方、ニックはギャツビーの頼みを聞いて過去に相思相愛の関係にあった2人を再会させるのは友達として当然と考えていたが、再会して過去を語り合うだけではなく、ギャツビーが「デイジーは一度もトムなんか愛したことはない。彼女が愛しているのは今でも僕だけだ」と述べて、「過去は取り戻せる」と主張し始めると、さすがにちょっとヤバイ。さらに、ニックがギャツビーから聞いたところによると、ギャツビーがトムの大邸宅の対岸にこの大邸宅を建てて移り住み、夜毎パーティーを主催している目的はただ一つ、デイジーとの再会を果たすためだったらしいから、そりゃちょっと・・・。ギャツビーは極貧の出ながら、第1次世界大戦で勲功を挙げたことによって某有名大学に通っていたというのは本当らしい。しかし、その時の、すなわち5年も前の一途な恋を、今のギャツビーとデイジーのようにこれだけ違う立場になっても取り戻すことができるの?普通は誰でもそんなことはムリと考えるものだが、ギャツビーという男だけは・・・。ニックは、そんなギャツビーの男としての魅力に徐々に憑りつかれていったが・・・。
<プラザホテルでの、本音のぶつけ合いに注目!>
1人の女をめぐる2人の男の対決。そんな構図は映画にはよく登場するし、あなたも私もかつて体験したことがあるのでは・・・。本作に見るプラザホテル内でくり広げられるデイジーをめぐるトムとギャツビーの「男の対決」は、迫力満点で見どころいっぱいだ。そもそも、トムはデイジーという妻がありながら、他人の妻であるマートルと浮気を続けているのだから、デイジーがちょっかいを出してくるギャツビーに対して少しくらいなびいても大目に見てやれば・・・。そんな意見もあるだろうが、それができないのが男の沽券というやつだ。日常的に目の前にいるだけでは特別魅力を感じない美女でも、他の男が必死になってそれを追い求めてくると、その女の魅力を再確認。そんなパターンの壮絶な男の闘いは、弁護士を40年間もやっていると時々出くわすものだ。
もっとも、「1人の女をめぐる2人の男の対決」でも、1922年当時の大金持ちの男はあくまで紳士であるうえ、アメリカは民主主義の国だから、堂々と口での対決で決着をつけるのがルール。そんな前提で激論をくり広げる2人を、当のデイジーをはじめニックやデイジーの親友の女子プロゴルファー、ジョーダンはじっと見守っていたが、ある瞬間思わず激昂したギャツビーが取った行動とは?その拳を振り上げた行動、その時の形相を見れば、やっぱりギャツビーは生まれつきの紳士ではなく、所詮成り上がり者・・・?それはともかく、草食系男子が増殖し、女性に対してプロポーズさえできない男が増えている昨今、他人の妻でも「彼女が愛しているのは、今でも僕だけだ」と断言してその夫から奪い取るくらいの迫力を、このシークエンスに見るギャツビーの言動から学ぶ必要があるのでは・・・。
<一つ交通事故が人生をメチャメチャに・・・>
塩屋俊監督の『0(ゼロ)からの風』(07年)(『シネマルーム15』214頁参照)、テリー・ジョージ監督の『帰らない日々』(07年)(『シネマルーム20』133頁参照)は、私が交通安全をめぐる講演でよく使っていた題材だ。これを観れば、一つの交通事故が人生をメチャメチャにしてしまうことがよくわかる。第1次世界大戦後、アメリカは自動車産業で世界をリードしたが、ギャツビーが乗っている車はトムでさえビックリするようなスーパーカーだ。ところが、あの当時は飲酒運転は当たり前と思われていたのか、プラザホテルでウィスキーを散々飲みながら「1人の女をめぐる2人の男の対決」をくり広げた後、ギャツビーもトムも平気で車の中に。
本作で印象的に登場する「貧者の住むまち」の代表としての「灰の谷」や、そこで目を光らせている「エクルバーグ博士の眼」や「緑の光(グリーン・ライト)」の意味は本作を観ただけでは容易に理解できない。きっと、フランシス・スコット・フィッツジェラルドの原作を丹念に読まなければわからないものだ。しかし、トムの車が疾走してくるのを見たジョージの妻マートルは、夫の束縛から逃れるべくその車を止めようと車の前に走り出てきたため、猛スピードの車に跳ね飛ばされてしまうことに。しかして、その車を運転していたのは誰?また、マートルの死亡を確認したトムが、多くの目撃者や警察官に対して説明したのはどんな内容?突然交通事故が起き、そこでマートルという女性が死亡したのは事実だから、その犯人を追及し、処罰しなければならないのは当然だが、さて本作がラストのシークエンスに向けて見せるそのミステリー色を含めた展開とは?それは、あなた自身の目でじっくりと。
<こんな男の物語なら、きっとベストセラーに>
本作はタイトルどおりあくまでギャツビーが主人公で、彼の生きザマが物語の焦点だが、1922年当時のギャツビー邸でのパーティーの様子や、あの交通事故後に迎えたあっと驚く「あっけない結末」が今日まで伝えられているのは、フランシス・スコット・フィッツジェラルドの原作がベストセラーになったためだ。しかして本作を観ていると、その原作を書いたのが、はじめてギャツビー邸のパーティーに招待されて有頂天になりながらギャツビーとの親交を深め、デイジーを紹介する中で心ならずも「禁断の恋」のキューピット役を務めることになったニックであることがよくわかる。
ニック役を演じたトビー・マグワイアは『スパイダーマン』シリーズ(02年、04年、07年)で表と裏の二役(?)を見事に演じ分けていたが、本作ではあくまでギャツビーの物語の「語り部」に徹している。日本でも、例えば岩下俊作の小説『富島松五郎伝』を原作として何度も映画化された『無法松の一生』(阪妻こと阪東妻三郎の43年大映版、三船敏郎の58年東宝版、三國連太郎の63年東映版、勝新太郎の65年大映版)や北条秀司の原作『王将』を何度も映画化した『王将』(阪妻こと阪東妻三郎の48年大映版から勝新太郎の73年東宝版まで全5作)などに見る、破天荒な男の生きザマが小説でも映画でも好まれるように、やはり男の生き方は破天荒な方が面白い。『タイタニック』のジャックは残念ながら冷たい大西洋の海の底に消えていったが、もし彼がタイタニック号の処女航海の成功とともにニューヨークに渡り、持ち前の才覚と若さで頑張っていれば、一代で財をなしギャツビーのようになっていたはずだ。そういう意味ではギャツビーもジャックも同じようにあの若さであの絶頂期に死んでしまったから、その後の展開が見れないのは実に残念。
もっとも、ストーリー展開を見ている限り、デイジーが「自白」するように彼女は少なくとも一時的にはトムを愛していたことはまちがいないうえ、現在のトムとの夫婦関係を解消してまでギャツビーと一緒になるほどの「冒険心」は持ってなさそうだから、多分ギャツビーのデイジーに対する恋心は幻想。そう考えると、本作に見るギャツビーの結末はあまりにもあっけないうえ惨めでもあるが、ニックがそんなギャツビーの生きザマをきちんと物語にしてくれたのだから、それはそれで十分良かったのでは・・・。
2013(平成25)年6月21日記