さよなら、アドルフ(LORE)(オーストラリア、ドイツ、イギリス映画・2012年) |
<梅田ガーデンシネマ>
2014年1月19日鑑賞
2014年1月22日記
ケイト・ショートランド監督の夫はドイツ系ユダヤ人だが、その祖母の逸話を基に作 った本作は、ナチス親衛隊高官を父に持つ14歳の少女が、幼い妹弟たちと共に過酷な状況下で生き抜く名作。
ユニークなのは、それを助ける青年が、何と「黄色い星」のマークの身分証を持つユダヤ人だということ。過酷な旅の中で2人の間にどんな接点と交流が・・・?
一つの価値観の権力的・高圧的な押し付けは私も大嫌いだが、ラストに見せるヒロインの成長ぶりに注目!
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監督:ケイト・ショートランド
脚本:ケイト・ショートランド、ロビン・ムケルジー
原作:レイチェル・シーファ『暗闇のなかで』
ローレ(14歳の少女)/サスキア・ローゼンダール
トーマス(ユダヤ人の青年)/カイ・マリーナ
リーゼル(ローレの妹)/ネレ・トゥレープス
ローレの母/ウルシーナ・ラルディ
ローレの父/ハンス・ヨッヘン・ヴァーグナー
ユルゲン(ローレの双子の弟)/ミーカ・ザイデル
ギュンター(ローレの双子の弟)/アンドレ・フリート
ローレの祖母/エーファ・マリア・ハーゲン
キノフィルムズ配給・2012年・オーストラリア、ドイツ、イギリス映画・109分
<過酷な状況下で生き抜く少女の名作が、新たに誕生!>
ナチス・ドイツによるユダヤ人弾圧と、その中でも懸命に生きる人々の姿を描いた名作は、古くは『ライフ・イズ・ビューティフル』(97年)(『シネマルーム1』48頁参照)、『聖なる嘘つき その名はジェイコブ』(99年)(『シネマルーム1』50頁参照)など、新しくは『黄色い星の子供たち』(10年)(『シネマルーム27』118頁参照)、『サラの鍵』(10年)(『シネマルーム28』52頁参照)など数多い。
さらに私は『シネマルーム30』には「子供たちはどんな時代でも力強く!」という見出しで、戦争や貧困などの過酷な状況下でも力強く生き抜く少年少女たちの姿を描いた名作として、①『明日(アシタ)の空の向こうに』(10年)(170頁参照)②『命をつなぐバイオリン』(11年)(175頁参照)③『魔女と呼ばれた少女』(12年)(180頁参照)④『三姉妹~雲南の子(三姉妹/Three Sisters)』(12年)(184頁参照)を掲載した。①は子供たちによるソ連の村から、ポーランドの村への国境越えを描いたもの。②はユダヤ人として生まれたために過酷な運命を生きることになった、バイオリンの神童とピアノの神童2人を描いたもの。③は14歳でコンゴ共和国の反政府ゲリラとして働く少女の姿を描いたもの。④は中国・雲南省の貧困な村で父と離れて暮らす三姉妹の過酷な現実を描いたものだった。
そして今、ナチス・ドイツが崩壊した1945年春、ナチス親衛隊の高官だった父(ハンス=ヨッヘン・ヴァーグナー)の娘として生まれた14歳の少女ローレ(サスキア・ローゼンダール)を主人公とした、その系譜の名作が誕生!
<主人公は?妹や弟たちは?父母は?>
『魔女と呼ばれた少女』では、14歳の反政府軍戦士コモナが、『三姉妹~雲南の子(三姉妹/Three Sisters)』では、妹たちをリードする10歳の長女・英英(インイン)の姿がそれぞれ印象的だったが、本作全編を通じて、そのストーリーをリードするとともに、激変する心の中をセリフではなく青い瞳とキリリとした表情で表現するのが、原題のタイトルにもなっている本作のヒロイン、ローレ。冒頭、広いお屋敷の中で無邪気にケンケン遊びに興ずるローレの姿が登場するが、それと同時並行的に、ナチス親衛隊の高官だった父が証拠品を処分する姿と子供たちを逃亡させるために慌ただしく動き回る姿が描かれる。長女ローレの下には妹のリーゼル(ネレ・トゥレープス)、双子の弟のギュンター(アンドレ・フリート)とユルゲン(ミーカ・ザイデル)、そしてまだ生まれたばかりの赤ん坊ペーターがいたから、これらの子供たちを連れて村の中の家にかくまってもらう母親(ウルシーナ・ラルディ)も大変だ。
時は1945年春。ヒトラー総統は既に死亡し、ナチス・ドイツは既に連合国に降伏していたから、ドイツのまちはあちこちが連合軍の占領下に置かれていた。そんな中、自身も出頭しなければならないことを悟った母は、ローレに対してここ南ドイツのまちシュヴァルツヴァルトからハンブルクにいる祖母(エーファ・マリア・ハーゲン)のもとへ逃げること、妹たちには母親は先にハンブルクに行っているよう説明することを伝えて一人で連合軍に出頭。ローレには指輪や鹿の置物など換金できそうなものを与えたが、シュヴァルツヴァルトからハンブルクまでは900kmもあるらしい。両親と別れ、いきなり「厳しい現実」の前に放り出された14歳の女の子ローレは、幼い妹や弟たちを連れて、そんな旅をどうやって・・・?
<戦後日本の価値観は大転換したが、さてローレは?>
日本でも戦時中の子供たちは、天皇陛下を「現人神」と教えられ、満州国や大東亜共栄圏の建設は全アジアのためと教えられ、さらに「鬼畜米英」と教えられていた。それと同じように、ナチス時代のドイツでは、ナチス党内の青少年組織である「ヒトラー・ユーゲント」(ヒトラー青少年団)が、青少年(少女も含む)のナチス的教育に大きな役割を果たした。ナチス教育の根幹は①ゲルマン民族の優越性とユダヤ民族の劣等性の他、②偉大な戦うドイツの賛美③ヒトラー総統への忠誠、敵の排除、そして④規律や秩序の遵守、等だ。それは、私が「ベスト1」の映画に挙げる『サウンド・オブ・ミュージック』(65年)でトラップ大佐が当初7人の子供たちに施していた、規律最優先のケッタイな教育ぶりを見ればよくわかる。
さらに、パンフレットにある「ケイト・ショートランド監督の言葉」によれば、本作はケイト・ショートランド監督の夫であるドイツ系ユダヤ人の祖母の逸話に由来するそうだ。また、ローレと彼女の妹弟たちは、ベラルーシでユダヤ人の大量殺戮に関わったナチス親衛隊の高官という特権階級の子供たちらしい。したがって、1939年当時は戦争の英雄だったけれども、ローレの父親が映画が始まる1945年には犯罪者になってしまっていたことを、14歳の女の子がすぐに理解できなかったのは仕方ない。また、ローレはヒトラーの言う「最終勝利」を微塵も疑っていなかったから、総統が死亡したと聞いてもそれを信じられなかったのも当然。まして、過酷な旅の途中のキャンプで見せられた、大量のユダヤ人を虐殺する写真の中に、愛する父と同じ制服を着たナチスの幹部がいるのを見て、いかに頭の中が混乱し、それまでの価値観が崩れ去っていったのかは容易に想像がつく。
占領軍としてやってきた米軍のマッカーサーが意外に「親日的」だったこともあって、日本はいとも簡単に「軍国主義」から「平和主義」へ価値観を180度転換することができた(?)が、さてローレの価値観の転換は・・・?
<助けてくれたのはユダヤ人!そんな設定にビックリ!>
母はローレのために、指輪などの金目のものや列車のチケットを準備してくれたが、今やドイツはアメリカの占領区、ソ連の占領区、イギリスの占領区等々に分割されていた。また、ローレはナチス幹部の娘だから、連合軍にその身分がバレたら女子供であってもたちまち逮捕される可能性が高い。赤ん坊のペーターまで連れたローレたちの徒歩での旅がいかに過酷なものか?食料を求めるため、どれほどの犠牲を払わなければならないのか?本作前半ではそれをじっくり確認したい。
本作を観た1月19日の日曜日、夜のNHK大河ドラマ『黒田官兵衛』では、はじめて堺を訪れた官兵衛が「世界は広い!俺は何も知らない」と嘆息する姿が描かれていたが、ローレは今まさに否応なくドイツが置かれている現実、自分たちが置かれている現実を、広い世界の視点から、理解せざるをえなくなったわけだ。
そんな旅の中、いつの頃からか一人の青年がローレたちの後をつけてきたが、彼は一体何者?ひょっとして自分たちに危害を加える目的でついてきているのでは?そんな不安を持ちながらローレは先を急いだが、ある日連合軍の検問に出会うと・・・。そこでは「身分証」の提示を求められることすら知らなかったローレは戸惑うばかりだったが、そこで「身分証はこれだ」「俺は、兄のトーマスだ」「妹たちは身分証を失った」、と助け舟を出してくれたのがこの男。ところが、チラリと見たところでは、その身分証には、『黄色い星の子供たち』を観てよくわかったユダヤ人の証である「黄色い星」が挟まれていたから、ローレはビックリ!
<なぜ、行動を共に?2人の動きをしっかりと!>
以降、このトーマスと名乗るユダヤ人(らしき)青年は、ローレたちと行動を共にするようになったが、①戦争に負けた今、ドイツは連合軍によって分割統治されていること②今いる場所はアメリカ地区だということ③北に行くのはとても難しいということ④愛する祖国は世界中から憎まれているということ等、何かと物知りなトーマスに妹や弟たちがなつくのには時間がかからなかった。しかし、ユダヤ人は劣った民族で浄化すべき対象と教わり、それを信じてきたローレだけは、そう簡単にトーマスに心を開くことができなかったのは当然だ。
最近の邦画は過度な説明調になっているから、もし日本人監督が本作をつくれば、多くのセリフの中で現状を語らせ、これからの方針を語らせ、意見の違いをぶつけ合う姿を描くのだろうが、ケイト・ショートランド監督はそうではない。トーマスはもちろんローレもセリフをほとんどしゃべらず、アップを多用した顔の表情だけで、その意思を伝えようとするから、その心の中を読み解くのは難しい。ちなみに、冒頭に見た14歳のお嬢サマのローレはきれいな足でケンケン遊びをしていたが、ワンピース姿で野山の中を這いずり回る旅を続けてきたローレの足は今?セリフで語ってくれない分、観客は集中力を持ってスクリーンを凝視し、ローレの気持ちと一体になって、必死に今と、この先の生き方を考えなければならないところだが・・・。
<生きるためなら、盗みはもちろん殺人でも・・・?>
赤ん坊を抱えた旅は大変だが、他方で食料を恵んでくれやすいというメリットもある。現に一人で暮らすおばあさんの家では、双子の兄弟が歌う歌をえらく気に入ってもらったうえ、ペーターを自分の子供として譲ってくれと言われるまでに。ハンブルクへの旅を急ぐ必要がないのなら、しばらくそこに留まるという選択肢もあったかもしれないほどだ。もっとも、いくら赤ん坊を連れていても誰もが好意的になるわけではないのが現実だから、その点ローレも少しずつ現実的に、そしてしたたかになっていかなければ・・・。
他方、ユダヤ人の身分証をもつトーマスと名乗る青年は、収容所から逃げ出してきたと言っているくらいだから、生きるための能力は抜群。どこからともなく食料を手に入れていたが、それは赤ん坊を利用したもの?それとも・・・?そんな「混成チーム」が今困惑しているのは、橋が破壊されたため、船がなければ向こう岸まで渡れない川の前に到着した時。ここで、トーマスはペーターを背中におぶってでも泳いで渡るしか方法がないと主張したが、ローレはそれに従わず、一人で近くにいた漁師に「船を出してもらえないか」と交渉するという行動に出たからビックリ。これは、一面では過酷な旅の中でのローレの成長ぶりを示すものだが、船を出してもらうお礼として、歌を歌ってあげるというのはあまりにバカげている。また、金目のものとして差し出した腕時計は動かないうえ、母が大切にしていた指輪は既に使っていたから、そこで提供した鹿の置物などは鼻で笑われてしまったのは当然。そこで、最後の最後にブラウスのボタンを一つずつ外していくという行動に出たローレを見て、私はビックリ!14歳の女の子が生きるために、そこまで身を投げ出す覚悟をしたの?
ケイト・ショートランド監督が本作のところどころで描き出す、14歳の少女ローレの「性の部分」は非常に興味深い。一緒にこんな旅を続けていれば、トーマスとの間にも何らかの男女関係が生まれても当然だから、それはそれとしてじっくり観察してもらいたいが、ここでケイト・ショートランド監督が描くシークエンスはもっと壮絶だ。トーマスは生きるために盗みを働くくらいは当然と考えていただろうが、さすがに殺人までは考えていなかったはず。しかし、ここでローレが取った行動を見て、それと悟った漁師がローレの身体を抱きしめようとすると、その背後からは静かにトーマスが・・・。
<やはりドイツでも、ソ連の方がアメリカより乱暴?>
戦後日本の驚異的な経済成長の要因は、ドイツ人と良く似た日本人(民族)の勤勉さだが、ラッキーだったのは、敗戦国・日本を占領したのがソ連ではなくアメリカだったということ。それは、シベリアに抑留された日本人捕虜の悲惨さと、「give me chocolate」と叫ぶ子供たちに対して、気前よくチョコレートを配るアメリカ兵の姿を見れば明らかだ。ケイト・ショートランド監督は夫の祖母の逸話を基に、ローレの過酷な旅のエピソードの数々を見せてくれるが、ギュンターが銃弾で撃たれて死んでいくシークエンスを観ると、やはりドイツでもアメリカ占領区の方がソ連占領区よりよほど楽だったことがわかる。その展開は次のとおりだ。
ソ連占領区をさまよい歩く中で、「お腹がすいた」と訴えるギュンターたちに対して、トーマスは「戻るまでここを動くな」と言い残して森の中へ消えて行ったが、さてトーマスは一体ナニを?ローレたちが不安な時間を過ごしている中、遠くに人影が見えたため、思わずギュンターがローレの制止も聞かずに、「トーマス!トーマス!」と叫びながら走り出していくと、いきなり銃声が。「ここを動くなと言ったのに・・・」と言うトーマスに対して、ローレは「あなたが盗みなどするから・・・」と責めたが、さてこの言い分はどちらが正しいの?それは微妙だが、何ゴトも開放的で民主的なアメリカの兵士に比べると、ソ連の兵士たちの乱暴さが際立つことは明らかだ。
<微妙に描かれる2人の距離感をしっかりと!>
本作は第85回アカデミー賞のオーストラリア代表作品に選ばれる等、国内外で高く評価されたが、その理由は「テーマ」の秀逸性と共に、逃走の旅を続けるナチス高官の娘ローレと、それを助けるユダヤ人青年という組み合わせの妙にある。①ローレが後をつけてくる青年を怪しんだこと②「身分証」をめぐる救出劇を契機に、少しずつ信頼関係が深まったこと③漁師の殺害やギュンターの死亡をめぐって考え方の対立が激化してきたこと、等々はストーリー展開を見ていると容易に理解することができる。他方、悩ましくもよくわからないのは、①反ユダヤ人主義の価値観を根底に持ちながらも、一度目にしたユダヤ人大量虐殺の写真が頭の中から離れないローレが、ユダヤ人のトーマスとの距離感の持ち方に苦労していること②一度はスカートの中にトーマスの手を誘ってみたものの、そこで慎みを見せるトーマスに対して、ローレは「性の部分」でも適切な距離感がつかめないこと③ハンブルクにたどりつくためにはトーマスの助力が不可欠だとわかりつつ、ローレはそれを素直にトーマスに伝えられないこと、等々だ。
そんな状況下、「ここから先は検問はない。汽車にも乗れる。もう頼るな」とトーマスから言われると、さてローレは?その後に展開されるローレの「ペーターをあなたの弟にしていいから、私たちを置いていかないで」と泣いてすがる姿は、私には意外だった。さらに、そう言われても態度を変えず、また「弟たちには“両親がハンブルクで待ってる”と言ったの。でも違うの」という告白にも、「関係ない」と表情ひとつ変えず、トーマスが「拒否」を貫くのも私には意外だった。その結果、堪えきれなくなったローレが「ウソばっかり!何もかもウソだったなんて。――あなたを見ると思い出すの。あれが頭に焼き付いて離れない――」と叫ぶのは混乱の極みだが、コトここに至ってこんな風に展開される2人の距離感をあなたはどう見る?微妙に描かれる2人の距離感を、しっかりと確認したい。
<「別れ」は思いがけない形で・・・>
最近の司法修習生や若手弁護士は何でも答え(正解)を欲しがるが、そもそも弁護士が聞く相談はクイズではないのだから、そのすべてに答え(正解)があるものではない。また、ある人にとってはAが答え(正解)であっても、他の人にとってはAは不正解で、Bが答え(正解)ということだっていくらでもある。世の中とはそういうものだということが、今ドキの単純な筋書きのTVドラマしか観ていなければ、なかなかわからないわけだ。しかして、本作ラスト近くでは遂にトーマスはローレたちと別れることになってしまうが、それは全く想定外の展開からだ。
あれこれと苦しい旅の最後に描かれるのは、列車に乗っているローレやトーマスたちの姿だから、トーマスが言うように、このまま列車でハンブルクまで到着することができれば、もはやトーマスの助けは不要。そう思っていると、そこで連合軍兵士から身分証の提示を求められる流れの中で、なぜかトーマスの様子がおかしい。あれほど用心深いトーマスが、こんなところで「あれ財布がない!一体どうしたんだ」とうろたえるストーリー展開には少し違和感があるが、そこから先のトーマスとローレたちの別れはあなたの目でしっかり確認してもらいたい。
それはともかく、トーマスが去った後、ユルゲンがローレに「僕が隠したんだ、引き止めたくて」と言いながら、トーマスの身分証を差し出したのには私もビックリ。あの幼い双子の兄弟にも、いいか悪いかは別として、今やこんな(悪)知恵が備わってきたわけだ。さらにその身分証をローレがめくってみると、そこに書かれている名前はたしかにトーマス・ヴァイルだが、写真は全くの別人。アレレ、これは一体ナニ?事態をのみこめないローレに対してユルゲンは、「もう死んだ人だ。なりすましたんだって、アメリカ人はユダヤ人が好きだから」と説明したが、するとあの青年のホントの名前は?
ことほど左様に、激動する時代の中では答え(正解)などどこにもないことがゴマンとあるわけだ。すると、いよいよハンブルクに到着するという最後の段階になって、あのトーマスと名乗っていた男の人種は?その出自は?腕に入れ墨があったことを考えると犯罪者?それも政治犯?そんな疑問は、映画鑑賞後も残ったままだが、さてその答え(正解)は・・・。
<一つの価値観の押し付けは、もうウンザリ!>
ハンブルクに立つあの家は、きっと幼い時に来たことのある祖母の家。そう思って近づくと、入口からは懐かしい祖母の姿が。単純な邦画なら、これにてハッピーエンドになるかもしれないが、本作のラストは更に興味深いストーリーが待っているので、それをしっかり味わいたい。
ハンブルクはドイツ第2の都市で大きな港町だが、ここはイギリス軍の占領地区らしい。そのハンブルクも連合国からの空襲によって当然大きな被害を受けたはずだが、祖母の家はハンブルクからさらに北に行った北海沿岸の干潟にあるらしく、空襲による被害はほとんどなさそうだ。したがって、これまでの旅ではせいぜい川の中で汚れた身体を洗っていただけのローレたちにとって、そんな家の中で温かいお湯に浸かれるのは、天国のようなもの。また、清潔なシーツが敷かれたベッドの上で眠るのは、何十日ぶりの幸せ?そう思っていたが、翌朝みんなそろっての朝食になると・・・。
日本でも戦前は家族そろっての食事にはさまざまな厳格なルールがあったが、何でも自由になり、核家族化が進んだ今の食事風景はハチャメチャ。そもそも、家族そろっての食事自体がなくなってしまっている。それに比べると、キリスト教が支配しているヨーロッパでは、食事前の祈りを含む食事のルールは厳格だ。また、パンフレットにある姫岡とし子氏の「『さよなら、アドルフ』とその背景」によれば、「祖母の住む北ドイツはプロテスタント地域で、カトリックが多くて陽気な南ドイツよりも規律を重んじ、躾も厳格だった」らしい。さらに、祖母が確信を持って語る「お父さんは正しかったのよ」の言葉は、シュバルツヴァルトからハンブルクまでスンナリ飛行機に乗ってやって来たローレなら素直に受け入れることができたかもしれないが、今のローレにはそんな言葉は全く通用しないもの。したがって、父親と同じように厳格な姿勢で、食卓からパンを取る際の規律を強いる祖母の姿に、ローレが反発したのは当然だ。
もっとも、そこで見せるローレの反発のすさまじさに私はしばし唖然。『サウンド・オブ・ミュージック』では、家庭教師として派遣されてきたマリアが『ドレミの歌』をはじめとする歌の楽しさを教えることにより、規律よりもっと大事なことがあることを子供たちはもちろん、父親のトラップ大佐にも教えることができたが、ローレはシュヴァルツヴァルトからハンブルクまでの過酷な旅の中で、それまでの教育の中で埋め込まれていた「厳格な規律の大切さ」という価値観はすでにふっとんでいたわけだ。そんなローレにとって、たとえ食事の仕方一つであっても、祖母からの一つの価値観の押し付けは、もうウンザリ!
2014(平成26)年1月22日記