アデル、ブルーは熱い色(フランス映画・2013年) |
<梅田ブルク7>
2014年4月6日鑑賞
2014年4月10日記
二人の女優の魅力と演技がすごい!ヌードがすごい!そして、レズビアンのセックスシーンがすごい!第66回カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞作は、とにかくすごい!
大阪都構想の議論も憲法改正の議論も遅々として進まない日本と比べ、フランスでは本作を祝福するかのように、「同性婚」を認める法律が施行された。そんな国に見る、感受性豊かな女子高生と素晴らしい才能を持った美大生との、愛の展開とその行方は興味深い。フランス文学や哲学、さらにフランスにおける身分格差や階級性を考察しつつ、その美しさと儚さをタップリと味わいたい。
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監督:アブデラティフ・ケシシュ
脚本:アブデラティフ・ケシシュ、ガリア・ラクロア
原作:ジュリー・マロによる『ブルーは熱い色』(DU BOOKS発行)
エマ(青い髪の美大生)/レア・セドゥ
アデル(15歳の高校生)/アデル・エグザルコプロス
サミール(アデルに興味を示すエマの友人の男性)/サリム・ケシゥシュ
リーズ(画家、エマの友人の女性)/モナ・ヴァルラヴェン
トマ(アデルの上級生の男性)/ジェレミー・ラユルト
ベアトリス(アデルの同級生の女性)/アルマ・ホドロフスキー
アデルの父/オーレリアン・ルコワン
アデルの母/カトリーヌ・サレ
アメリ/ファニー・モラン
アントワーヌ(教師になったアデルの同僚の男性)/バンジャマン・シクスー
ヴァランタン/サンドール・フンテク
コムストック・グループ配給・2013年・フランス映画・179分
<カンヌ国際映画祭で絶賛!異例の展開に!>
2013年の第66回カンヌ国際映画祭で、是枝裕和監督の『そして父になる』(13年)がコンペティション部門の審査員賞を受賞したのは素晴らしいニュースだった(『シネマルーム31』39頁参照)。このコンペ部門には、『そして父になる』以外に、私が観たものでは『ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅』(13年)、『エヴァの告白』(13年)、『エリ』(13年)、『オンリー・ラヴァーズ・レフト・アライブ』(13年)が、また、これから観るものでは、『17歳』(13年)、『ある過去の行方』(13年)、そして中国の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督の『罪の手ざわり』(13年)等が出品されていた。そんな中、審査員長のスティーヴン・スピルバーグをはじめとする審査員たちの圧倒的支持を得て、パルム・ドール賞(最高賞)に選ばれたのが本作だ。しかも、今回はコンペ部門史上はじめて審査員たちは、アブデラティフ・ケシシュ監督と共に、スクリーン上で美しい名画のようなラブシーンを見せてくれた、アデルを演じたアデル・エグザルコプロスとエマを演じたレア・セドゥにもパルム・ドール賞を贈るという異例の展開となった。本作の上映時間は2時間59分と長いうえ、レズの2人のラブシーンは延々と続くらしい。そんな映画だから、いかにパルム・ドール賞受賞作といえども、「R18+」指定は当然だが、こりゃ必見!
もっとも、公開2日目の日曜日の映画館の入りはごくわずか。やはり日本人には、とりわけ日本人の若者にはいくら話題作でもフランス発のこんなクソ難しそうな映画はノーサンキュー、ということ?
<この出会いをどう解釈?この女子高生の感性に拍手!>
レズビアンの女の子たちの美しいセックスシーンといえば、私は『中国の植物学者の娘たち』(05年)を思い出す(『シネマルーム17』442頁参照)。中国では上映はおろか撮影すら許可されないそんな映画を監督したのは、フランスに留学し、フランス生活が長い、中国第6世代監督の旗手、戴思杰(ダイ・シージェ)監督だ。もっとも、この「禁断の物語」は、同じ工場に勤めていた2人の若い女性が同性愛者で、どちらかの父親の殺害容疑で死刑を宣告されたという事件にヒントを得たものだけに、結果は悲劇的なものだった。ところが、フランスは中国とは違い、同性愛や同性婚には寛容だ。そればかりか、本作がカンヌ国際映画祭で上映されている最中の2013年5月18日には、社会党のオランド大統領の選挙公約であった「同性婚の合法化」が発効し、フランスは欧州で9番目に同性婚の可能な国になった。
本作導入部では、高校生のアデルが、意外と真面目に(?)勉強する姿が映し出される。また、それと同時に、アデルに好意を抱く上級生のトマ(ジェレミー・ラユルト)との淡い恋(?)や、ちょっとした交際を経てすぐにセックスに至る流れがごく自然に描かれる。しかし、なぜそこでアデルは有頂天にならないの?そこが本作のミソであり、アブデラティフ・ケシシュ監督が描くレズの世界の奥深さだ。トマとは音楽の話で盛り上がり、アデルもごく自然に恋に落ちたように見えたが、なぜアデルはトマとのデートに向かう途中ですれ違ったブルーの髪の女性エマに目を奪われたの?アデルがトマとのセックスに応じながらもそれに満足出来ず、何の感動も覚えなかったのは、アデルにとっては、トマよりもすれ違いざまに射抜くような瞳でアデルを見た、あの青い髪の女性の方が魅力的で心を奪われる存在だったためだ。
やっぱり、そんなことってあるの?あなたは、この女同士の出会いをどう解釈?それにしても、アデルというフランスの女子高生の何とも豊かな感性にびっくり!
<アデルも魅力的だが、エマはそれ以上!>
『中国の植物学者の娘たち』では、いささかスケベ親父的な視点から、「2人がオールヌードで抱き合うシーンの見せ方に是非注目してほしい」と書いた。それは、「服を着ているとそれほどとは思えないが、真正面から見せるヌードシーンにおいては、その胸の豊かさにビックリ・・・」のミンと、「バックから見せる形のいいお尻とスレンダーな全裸のシーンは圧巻・・・」のアンを前提としたためだ。そして、そこでは、「そんな視点でミンとアンを見比べた場合、あなたはミン派、それともアン派・・・・・・?」と結んだ(『シネマルーム17』446頁参照)が、アデルとエマがゲイバーで出会い、学校に誘いにきたエマとアデルが初めてのデートをし、以降急速に親しみを増して行く中で、必然のようにエマのアパートで激しく求め合うシーンを見ていると、本作と『中国の植物学者の娘たち』との違いがよくわかる。私は李安(アン・リー)監督の中国映画『ラスト、コーション』(07年)での、梁朝偉(トニー・レオン)演ずる易(イー)と、湯唯(タン・ウェイ)演ずる王佳芝(ワン・チアチー)との、「本番まがいの激しくかつバリエーション豊かなセックスシーン」に仰天した(『シネマルーム17』226頁参照)が、本作のセックスシーン(レズシーン)はそれ以上だ。
本作については数多くの批評が書かれているが、そこでは「女同士の濃密な10分間のセックスシーン」に、「覗き見趣味」「ポルノ」という批判もあるらしい。さらに、「監督のあそこが画面に見えた感じ」という女性批評家もいるし、原作者のジュリー・マロ自身も「ポルノ」「私を落ち着かない気分にさせた」「ばかばかしい」とブログで批判したらしい。さらに、エマを演じたレア・セドゥがインタビューで語ったところでは、「セックスシーンは作り物の性器を着けて臨んだ」らしいから、そりゃすごいのも当然だ。
本作では当然そんなセックスシーン(レズシーン)における2人の女性の演技が大きな話題を呼んだが、それ以外でも2人の女優は魅力的だ。さらに、本作全編を通じて、人生を懸命に生きていこうとする女子高生のアデルも魅力的だが、美大生で自分の人生観を完徹するエマの魅力はそれ以上!
<あなたの文学的素養は?哲学的素養は?>
今ドキの日本では、大学生だってロクな文学的素養も哲学的素養も持っていないが、本作導入部におけるアデルとトマの会話を聞いていると、フランスの劇作家・小説家ピエール・ド・マリヴォーの未完の長編小説『マリアンヌの生涯』や、フランスの作家コデルロス・ド・ラクロの『危険な関係』の面白さが浮かび上がってくる。また、アデルも同級生の女子高生もあまり好きではなさそうだが、17世紀末にラファイエット夫人によって書かれた『クレーヴの奥方』や、ソポクレスが紀元前442年ごろに書いたギリシャ悲劇『アンティゴネ』、さらに20世紀に活躍したいっぷう変わったフランスの詩人フランシス・ポンジュの『物の見方』を題材とした授業の進行の様子を見ていると、フランスの高校生がいかにしっかり文学の勉強をしているかがよくわかる。
また、美大生のエマとアデルとの会話でも、エマがサルトルの『実存主義とは何か』に書かれている「人間は生まれ、存在し、自らの行動で決定される。行動には責任がある」という実存主義の哲学を教えるし、アデルもサルトルの戯曲『汚れた手』は「自分が好きな戯曲だ」と答えているから、日本のアホバカ学生の会話に比べると、その会話はチョー高級。さらに、エマの自宅に絵の披露を兼ねて友人たちを招いたパーティーでは、「ウィーン分離派」を代表するオーストリアの画家「グスタフ・クリムト」や、ギリシャ神話『オイディプス王』や『アンティゴネ』に登場するテーバイの盲目の予言者である「テイレシアス」、さらに20代の若さで世を去ったオーストリアの画家「エゴン・シーレ」等の話題でいっぱいだから、その道の専門家ではないアデルがその会話について行くのはさすがにしんどかったようだ。
それはそれで仕方ないが、さて日本人の大人であるあなたの、文学的素養や哲学的素養は?さらに、絵画や美術についての素養は?
<あなたは「階級の違い」を、どこまで認識・理解できる?>
高校を卒業後保育園の教師となったアデルは、美大を卒業し画家になったエマのモデルをつとめながら、アトリエを兼ねたエマの一軒家で一緒に暮らしていた。アデルは女2人の同居生活を同僚の男性アントワーヌ(バンジャマン・シクスー)たちに隠していたが、それはやはり、同性愛(レズビアン)に対する社会の抵抗を感じたため。しかし、この頃がアデルにとって最も幸せな時期だったはずだ。だって、保育園では職業人としての義務をきっちり果たしているうえ、夜になれば2人だけのめくるめくような性の陶酔が・・・。
日本は格差や不平等を厳しく批判するが、私に言わせれば、フランスは今なお格差や不平等はもとより、階級性や身分差別があるのが当たり前の国。それは、本作中盤でエマがアデルを自分の両親への紹介を兼ねて自宅に招いた時と、そのお返しとしてアデルがエマを自分の両親への紹介を兼ねて自宅に招いた時の違いを見れば明白だ。エマの両親(父親は離婚しているため実際は義理の父親)はごく自然にアデルを娘の恋人として歓迎してくれたが、それはエマの実父も美術愛好家で、その妻(つまりエマの母親)も現在の義理の父親も、芸術家や自由人として生きていくことの誇りを持った階級に属していたためだ。それに対して、アデルの父親はエマに対して「絵では食べていけないだろう」と心配し、「恋人の仕事は何?」とさかんに質問した。つまり、こちらは日々をいかに堅実に生きていくかだけを考えている、そんな階級・階層に属していたわけだ。したがって、アデルの両親にとって、エマを娘の同性愛の相手などとは到底想像できず、単なる年上の女友達としか理解できなかったのは当然だ。
私が本作を鑑賞した4月6日の朝日新聞『Cinema Critiques[映画クロスレビュー]』には、映画監督・批評家の樋口尚文氏の『凡庸から離脱できない少女の教訓劇』と題する本作のレビューがある。そしてそこでは、2人の階級性の違いを「知性と教養に富み、美しい精神性を志す者と、それに憧れるも育ちの差ゆえに凡庸な世俗から離脱できない者」という表現で明確に指摘している。さて日本人のあなたは、本作に見る「階級性の違い」をどこまで認識・理解できる?
<不協和音はどこから?「出ていけ!売春婦!」をどう理解?>
このまま未来永劫に続くかに見えたアデルとエマの仲は、どうもエマの友人たちを招いた自宅でのパーティーあたりから、少し雲行きが怪しくなり始めたようだ。男と女の関係でも、仲が怪しくなり始める原因は「第三者」がそこに介入してくることが多いが、本作にみるその「第三者」は、エマの友人で画家のリーズ(モナ・ヴァルラヴェン)。エマは根っからのレズではなく、過去にたくさんの(?)「男との関係」と「女との関係」を持った中で、やっぱり自分には男より女の方がいいと悟っているだけに、昔のレズ友達が何人かいても決しておかしくはない。したがって、パーティーの席で親しげに語り合う2人の姿をみて、アデルがその仲を疑った(?)のは仕方ないが、女同士のレズ関係でもそこに「第三者」が入ってくるとやっかいなものだ。
そんな風にリーズへの嫉妬(?)を含めて、エマに対して寂しさや疎外感(?)を抱き始めたアデルは、いとも簡単に(?)保育園の同僚の(男の)教師アントワーヌに誘われるままベッドインしたから、私にはアデルのそこらの心理と生理そして性的欲望の如何は、かなり不可解だ。それにしても、アブデラティフ・ケシシュ監督はアデルのような若い女の子のそんな微妙な心の動きをなんとも丹念に追ったものだ、と感心していたが、ある日の晩、アントワーヌの車で送ってもらったアデルに対して、エマの怒りが大爆発!これがすごい。
夫の浮気が発覚した後の夫婦ゲンカが激しいのは当然だが、その収拾のつけ方は、「今回だけは許しましょう」というのが普通。しかし、どうも女同士の場合はそうはいかないらしい。しかも、エマのような教養の高い階級に属する人種にとっては、アデルのような「凡庸な」「浮気」は絶対に許せないらしい。そこで、エマの口から発せられた言葉が「出ていけ!売春婦!」だが、そのケンカのものすごさに、男の私は唖然・・・。
ちなみに、前述の樋口尚文氏の評論では、この点を「エマの美学の教徒となりながら、その育った環境の違いもあって(監督のここへの踏み込みも念入りだ)庶民的な凡庸さから解脱できないアデルは、エマに対する『寂しさ』という凡庸な感情に襲われて、愚かにも男性と浮気をする。これを知ったエマがあまりにも潔癖に、そして突然にアデルを自分の『美と官能の帝国』から破門するのは、彼女が男性と遊んだことよりも、そんなことをするアデルの凡庸さが許せないのだ」と解説している。なるほど、なるほど・・・。
<2人の再会は?互いの人生は?>
感受性豊かな女子高生がボーイフレンドには満足できず、少し年上の知的で素敵な女性に憧れ交流を交わす中で、必然のようにレズビアンの関係に。時あたかもフランスでは、それが法的にも認められる時代になったわけだが、男女の仲がいつまで続くかわからないのと同じように、エマとアデルのレズビアンの関係もアデルの(男との)浮気がばれたことによってジ・エンド・・・?
カンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を受賞した本作が、そんな単純なところで終わるはずはない。そんな目で見ていると、数年後の喫茶店での2人の再会のシーンは衝撃的だ。弁護士として私は、あらゆる問題について時間が解決することをよく経験しているだけに、ここで懸命に「許しと復縁(?)」を請うアデルの姿を見ていると、エマもここでアデルを許すのでは?一瞬そう思ったが、さてエマは?喫茶店の中で女同士がキスを交わし、エマの手を自分のスカートの中に引き入れるという行為は日本では「いかがなもの?」と思われるはずだが、人前でキスを交わす光景は当たり前のフランスでは、これもOK?それはともかく、この2人の喫茶店での再会のシーンは味わい深い。
そして、本作ではエマの個展の舞台がラストとなる。エマは商業主義に走りがちなスポンサーとの対立を乗り越えてここまでやってきたわけだが、この個展で展示されているアデルをモデルにした絵画の出来はいかに?そして、そこを訪れたアデルは、このエマの(完成された)世界に再び入っていくことができるの?もちろん、アブデラティフ・ケシシュ監督は、ここでアデルの今後の生き方について明確な「答え」を示している訳ではない。したがってそれは、私たちひとりひとりが2時間59分の鑑賞を終えた後にじっくり考えるべきテーマとなる。そして、それを考えるのが楽しいと言うことは、つまり本作の素晴らしさを明白に物語っているはずだ。
2014(平成26)年4月10日記