罪の手ざわり(天注定/A Touch of Sin)(中国、日本映画・2013年) |
<シネ・リーブル梅田>
2014年6月9日鑑賞
2014年6月11日記
中国第六世代を代表する賈樟柯(ジャ・ジャンクー)監督作品はどれも素晴らしいが、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した本作のテーマはナニ?
3つの犯罪と1つの自殺という物語を理解するには、原題『天注定』よりも、英題、邦題の方がわかりやすいが、その背後にある本質的問題に突っ込むには、やはり原題の方が・・・。
オムニバスではなく、チェーン・ストーリーという枠組みを押さえつつ、こんなしんどい国・中国で生きていかなければならない人たちの大変さとしっかり向き合いたい。そしてくれぐれも、平和で自由な国・日本との対比を忘れないように。
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監督・脚本:賈樟柯(ジャ・ジャンクー)
小玉(シャオユー)(湖北省の宜昌(イーチャン)の風俗サウナの受付嬢、佑良の不倫相手)/趙涛(チャオ・タオ)
大海(ダーハイ)(山西省に暮らす独身の炭坑夫)/姜武(チァン・ウー)
周(チョウ)(周家の三男、重慶のA級指名手配犯)/王宝強(ワン・バオチャン)
小輝(シャオホイ)(湖南出身。広東省・広州の縫製工場を辞め、東莞にある高級ナイトクラブのボーイになり、リェンロンに恋をする青年)/羅藍山(ルオ・ランシャン)
佑良(ヨウリャン)(広東省・広州で縫製工場を営む妻帯者。小玉の不倫相手)/張嘉譚(チャン・ジャイー)
蓮蓉(リェンロン)(台湾・香港からの客を対象にした高級クラブで働くホステス)/李夢(リー・モン)
三明(サンミン)(ダーハイの仕事仲間。奉節に妻を残し、山西省に出稼ぎでやってきた炭鉱夫)/韓三明(ハン・サンミン)
サウナ客(小玉に売春行為を強要し、無茶な通行料をせしめる役人)/王宏偉(ワン・ホンウェイ)
ビターズ・エンド、オフィス北野配給・2013年・中国、日本映画・129分
<韓国のキム・ギドク作品、中国の賈樟柯作品は必見!>
韓国のキム・ギドク監督の最新作は『メビウス』(13年)だが、これはまだ観ていない。しかし、私は①『受取人不明』 (01年) (『シネマルーム8』77頁参照)、②『春夏秋冬そして春』(03年)(『シネマルーム6』68頁参照)、③『サマリア』(04年)(『シネマルーム7』396頁参照)、④『うつせみ』(04年)(『シネマルーム10』318頁参照)、⑤『弓』(05年)(『シネマルーム12』325頁参照)、⑥『絶対の愛』(06年)(『シネマルーム13』86頁参照)、⑦『ブレス』(07年)(『シネマルーム19』61頁参照)、⑧『悲夢』(08年)(『シネマルーム22』232頁参照)、⑨『アリラン』(11年)(『シネマルーム28』206頁参照)、⑩『嘆きのピエタ』(12年)(『シネマルーム31』18頁参照)という同監督作品をたくさん観ている。
同じように、中国第六世代を代表する賈樟柯監督作品は必見!私がこれまでに観たのは①『一瞬の夢』(97年)(『シネマルーム30』未掲載)、②『プラットホーム』(00年)(『シネマルーム30』未掲載)、③『青の稲妻』(02年)(『シネマルーム5』343頁参照)、④『世界』(04年)(『シネマルーム9』174頁、『シネマルーム17』289頁参照)、⑤『長江哀歌』(06年)(『シネマルーム15』187頁、『シネマルーム17』283頁参照)、⑥『四川のうた』(08年)(『シネマルーム22』213頁参照)の6本だ。しかして、2013年の第66回カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した本作の出来は?
<中国の今を、流行語から読み解けば・・・>
私が4月に参加したある勉強会で入手した中国の最新情報によれば、習近平体制になってからの中国を読み解く3つの流行語は、①中国夢、②光盤、③土豪というもの。①はまさに東シナ海、南シナ海への海洋国家としての膨脹を含む、「中華民族の復興」というキーワード。②は共産党幹部や高級官僚の腐敗が問題視されて、「贅沢禁止令」が出され、接待が禁止される中、食べ尽くす(皿をカラにする)=ムダをなくす、という習近平の政策が良くも悪くもどうやらホンモノらしいと認識されていること。中国では、これによって白酒、芽台酒等の高級酒が売れなくなり、高級料理店も軒なみガラ空き状態になっているわけだ。③は中国では拝金主義が蔓延しているが、それを皮肉って、教養のない金持ちという意味の流行語だ。
2014年3月5日~13日に開かれた、日本の国会に相当する全人代(全国人民代表大会)では、李克強首相の政治報告には99%が賛成したが、最高人民法院、最高人民検察院に関する報告(要するに司法分野の報告)には反対票が2割近くあったというから、腐敗に対する中国人民の怒りはかなり高まっているわけだ。そんな中、賈樟柯監督が「武侠映画」を撮りたいと宣言して臨んだ本作では、4つの物語において殺人や自殺など悲惨な事件ばかりが・・・。さて、これは一体なぜ・・・?
<おなじみの俳優たちに注目!>
本作の登場人物は、例によって(?)「賈樟柯」組(?)の①趙涛(チャオ・タオ)(鄭小玉(シャオユー)役)、②姜武(チァン・ウー)(胡大海(フー・ダーハイ)役)、③王宝強(ワン・バオチャン)(周(チョウ)役)、④韓三明(ハン・サンミン)(三明(サンミン)役)が出演している他、新顔の⑤羅藍山(ルオ・ランシャン)(小輝(シャオホイ)役)、⑥張嘉譚(チャン・ジャイー)(佑良(ヨウリャン)役)等が出演している。本作ではまずは、そんな出演者に注目!
本作冒頭、バイクに乗って山道を走る周が、手斧を持った3人組の強盗に呼び止められ、「金を置いていけ」と要求されるシーンが登場する。しかし、これって一体いつの時代?どこの国の物語?そんな不思議な感覚でスクリーンを見ていると、3人組の言葉に全く反応しなかった周が、やおら懐から拳銃をとりだし、正面の男を一発で撃ち殺したかと思うと、後の2人も次々と。こりゃまるで勝新太郎の座頭市の世界と同じだ。
<本作はオムニバスではなく、チェーン・ストーリー!>
そんなプロローグで始まる本作は、第1話が大海を主人公とした物語で、舞台は山西省。第2話は周を主人公とした物語で、舞台は重慶。第3話は小玉を主人公とした物語で、舞台は湖北省。第4話は小輝を主人公とした物語で、舞台は広東省の東莞だ。なるほど、これはいわゆるオムニバス映画?そう思っていたが、パンフレットにある川本三郎氏(評論家)の「チェーン・ストーリーの面白さ」というコラムを読むと、本作はチェーン・ストーリーというらしい。すなわち、プロローグとエピローグの中におかれた4つの物語は、それぞれ主人公も舞台もストーリーも全く別モノだが、そこでの登場人物(の一部)がどこかで接点をもっており、全体を通して繋がっているというわけだ。
もっとも、それは賈樟柯作品ファンとして、これまで多くの作品を観ている人にはすぐにわかるかもしれないが、何の予備知識もないまま本作をいきなり観た日本人にはわかりにくいかもしれない。だって、第2話に登場した賈樟柯のミューズである趙涛なら、エピローグで再度登場してもすぐにわかるだろうが、第3話に登場していた小玉の不倫相手である佑良が第4話の主人公・小輝が働く工場の経営者であることは、ちょっとわかりにくい。もっとも、プロローグに登場した、顔つきの悪い若者・周が第2話では周家の三男として故郷の重慶に戻ってきていることは多分わかるだろう。また、第2話のラストではこの周が銀行から出てきたばかりの夫婦を襲って現金を奪い、宜昌行きのバスに乗り込むが、そんなシーンを観ていると、周は根っからのワルの同一人物であることがわかるはずだ。
アルフレッド・ヒッチコック監督は自らの映画のワンシーンに「カメオ出演」することを好んだが、本作では4つの物語においてどの人物がどんなところでチェーン・ストーリーの役割を果たしているかに注目したい!
<原題の意味は?英題と邦題の意味は?>
「Sin」は「罪」だから、英題の『A Touch of Sin』は、まさに邦題どおり『罪の手ざわり』となる。他方、原題の『天注定』は「天の定め」という意味。日本語でも「天命」という言葉があるが、それと同じような意味だ。しかして、「天の定め」にもいろいろある。司馬遼太郎の小説『項羽と劉邦』(80年)や冼杞然(スティーブン・シン)監督、張藝謀(チャン・イーモウ)総監修の中国映画『項羽と劉邦ーその愛と興亡 完全版』(94年)(『シネマルーム5』140頁参照)では、項羽が劉邦に敗れたのも「天の定め」だ。また、天下統一を目の前にして、織田信長が明智光秀の裏切りによって49歳で殺されたのも「天の定め」。
ところが、英題も邦題もそんな原題を使わず、『A Touch of Sin』『罪の手ざわり』としたのは、本作が描く4つの物語がいずれも罪を描いた物語だから。しかし、『A Touch of Sin』や『罪の手ざわり』というタイトルだけでは、その犯罪と社会とのつながり、そしてそのどうしようもなさ、つまり「天の定め」は十分表現できていない。つまり、賈樟柯監督が本作の第1~3話で描く、庶民(というより底辺の人々)が犯す犯罪はやりたくてやるものではなく、どうしようもなくやってしまうものだ、という一種の共感ないし社会への告発の意味が含まれているはずだが、英題、邦題ではそれが十分伝わってこない。
したがって、本作をきちんと理解しようと思えば、原題に含まれる意味をしっかり把握する必要がある。
<第1話の大海タイプは、今の中国にはうじゃうじゃ?>
第1話の主役・大海は、猟銃を持ち出して、村長や実業家として大成功している同級生のジャオなどを殺害してしまう男だが、到底ワルとは思えない。彼は山西省・烏金山で炭坑夫をしながら一人暮らしをしている中年男で、村長やジャオたちがワイロづくしで村を牛耳っていることに憤激し、北京の中央規律委員会宛てに告訴状を送ろうとしたが、いかんせん頭が良くないこともあって、なかなかコトが思うように進まないらしい。
同級生で今は高校生の息子を持つ女性の手を握るシーンを見ていると、大海は仕事でも「負け組」、女でも「負け組」になっていることがよくわかる。彼の目下の生き甲斐は「ジャオや村長よりも悪人になってやる」ことだが、この頭の悪さでは、多分それはムリ。挙げ句の果てに猟銃を持ち出しての大量殺人事件に発展してしまうわけだが、今の中国の社会情勢を見ていると、大海タイプの男によるこの手のワケのわからない大量殺人事件が次々と起こりそうだ。
大海自身は微博(ウェイボー)でたくさんの情報を集めているわけではない。しかし、身のまわりの世界がすべてワイロで成り立っていることに気づき、その中で自分がいかにもがいても浮上することができないとわかった時、この男がいかなる行動に走るかはかなりの精度で読めるが、実際にここまでやるとは・・・。
<第2話の周は根っからのワル・・・?>
それに対して、プロローグに登場し、3人の強盗を一瞬のうちに射殺してしまう周は第2話の主人公として再度登場するが、拳銃を懐に持っていることからしてこの男は根っからのワル・・・?いやいや、第2話で周が母親の70歳の誕生日を祝うために故郷の重慶に戻り、妻や幼い男の子と再会するシーンを見ていると、やっぱり出稼ぎで稼いでいる普通の男・・・?
「送金を受け取ったわ。13万人民元。最後は山西からだった」という妻に対して、周は無愛想な口調で「武漢で稼いで、山西から送ったんだ」と答えていたが、ホントに出稼ぎでそんな大金を稼げるの?周の妻でなくても、そんな疑問を抱くのは当然だ。そして、そっと夫のカバンを開けると、銃の弾倉が出てきたから、アレレ・・・。更に、周のカバンには広州、宜昌、南寧行きの切符も。一体この男は何者なの?
馮小剛(フォン・シャオガン)監督の大ヒット作『イノセントワールド―天下無賊―』(04年)はメチャ面白い映画だった(『シネマルーム17』294頁参照)し、同作で主演した王宝強は無邪気そうな顔立ちの男だったが、本作に見る周は顔からしてかなりのワル。私にはそう見えたが、さて彼にとっての「罪の手ざわり」とは?
<女だって、ここまでやられたら・・・>
中国の「武侠映画」は、日本のヤクザ映画と同じようなもの。私を含めて多くの日本人はそう思っているが、小玉が主役として登場する第3話も武侠映画だと言われると、武侠という意味がわからなってくる。第3話の最初に登場する小玉と不倫相手の佑良との会話を聞いているだけでは小玉がどんな仕事をしているのかはわからないが、その直後に小玉は「夜帰人」というサウナ旅館(風俗旅館?)の受付嬢として働いていることがわかる。
夜行バスで宜昌駅にやってきた佑良と小玉との会話では、小玉は佑良に対して「奥さんをとるなら、私と別れて。お互いに考えて決めましょう」とハッキリ言っていたが、佑良の態度が曖昧なのは日本でも中国でも同じ・・・?そんな状況下、佑良の妻と連れの男が店に現れたかと思うと、小玉に対して殴る、蹴るの暴行を加えてきたから大変。ほうほうの体で逃げ出した小玉が駆け込んだのが見せ物小屋の中というのは面白い設定だが、第3話では小玉があちこちを歩いて旅する姿が印象的だ。
事件が起こるのは、「夜帰人」への2人連れの中年男の宿泊客が、従業員の部屋で洗濯している小玉に対して「マッサージしろ!」としつこく強要してきたため。この場合の「マッサージ」に特別の意味が込められていることは明らかだから、小玉は「自分は受付嬢であり、娼婦ではない」とハッキリ拒絶したのは当然。ところが、この客は「貴様なんか金で俺の言いなりだ。この売女!」と言いながら何度も札束で小玉の顔をはたいたから、これには小玉も堪忍袋の緒が切れてしまったのは仕方ない。
日本では到底ありえない状況設定だが、拝金主義でここまで毒されている中国では、ホントにこんなことがあるのだろう。
<中国の若者の労働条件は?日本との比較は?>
アベノミクスの「成功」によって、一方では時給いくらで飲食店等に雇われる若者のバイト料が高くなり、他方では〇〇社のように「ブラック企業」と呼ばれて社会的にたたかれる状況となったため、結果的に若者たちの権利や地位が少しは上昇気味・・・?ところが、第4話にみる小玉の恋人・佑良が工場長を務める、広東省にある縫製工場で働く青年・小輝の労働条件は最悪だ。「仕事中におしゃべりしていた友人がケガをしたのは、お前のせいだ」と言われ、「給料を丸々そちらに渡す」、と言われている様子を見ると、そりゃひどい。1989年に起きた天安門事件から25周年の記念日となった去る6月4日の北京の天安門の厳戒ぶりもひどかったが、この縫製工場の労働条件もひどいものだ。
そんな小輝が友人の紹介で東莞で就いたのは、台湾・香港からの客を対象にした高級クラブ「中華娯楽城」でのボーイの仕事。私もタイのバンコクに旅行した時、この種のナイトクラブで遊んだことがあるが、この職場で小輝が知り合ったホステスの蓮蓉(リェンロン)(李夢/リー・モン)のコスプレぶりや客への接待ぶりは見モノだ。なるほど、中国は広い。第1話の40男の炭鉱夫ぶりも現実なら、第4話の蓮蓉のコスプレぶりや性的サービスの提供ぶりも現実なのだ。
<これくらいで自殺とは!八〇后、九〇后はひ弱?>
私は蓮蓉を演じた李夢を本作ではじめて見たが、1990年生まれというから今は24歳の美人。小輝も貧乏ながらメチャかわいい顔をしていたから、この2人が恋に落ちるのは確実と思いながら観ていると、案の定。ところが、そこで小輝の前につきつけられたのは、蓮蓉には3歳の娘がおり、生きるためにはコスプレだろうが性的サービスだろうが、なんでもやらざるをえないという現実だった。そんな蓮蓉との恋に破れた小輝は、「中華娯楽城」を辞めて台湾企業の工場で働き始めたが、ここも広東省の縫製工場と同じく過酷な労働条件だった。
そんな小輝に対して追い打ちをかけるかのように母親からは、「金送れ!」の催促が・・・。さらに、縫製工場でケガをさせた元同僚が棍棒を持って乗り込んできたから最悪!もっとも、それ以上の事件に進展しなかったのは幸いだったが、そこでまだ若く将来性のあるはずの小輝がとった行動とは・・・?
一人っ子政策が長い間続いてきた中国では、いわゆる八〇后、九〇后の世代はひ弱と言われていたが、これくらいで自殺してしまうとは・・・。
<京劇の『玉堂春』の登場に注目!>
橋下大阪市長の誕生以降、日本の古典芸能の一つである文楽は予算削減の嵐に見舞われてきたが、歌舞伎の方は次々と若手が成長していることもあり安泰らしい。中国にも歌舞伎や文楽と同じような古典芸能がたくさんある。京劇の『覇王別姫』はその代表だが、本作のエピローグに登場する『玉堂春』もその一つ。広場で演じられる京劇『玉堂春』が見せる問題提起に注目!
『玉堂春』は私流に解釈すれば、トルストイの小説『復活』(1899年)と似たようなストーリー(?)で、カチューシャに相当するのが、名妓・玉堂春(蘇三)。そして、陪審員として殺人罪の被告人席に立つカチューシャを裁くネフリュードフに相当するのが、3人の合議体の裁判官の1人となる王金龍だ。『復活』では、カチューシャが堕落したのは召使いだったカチューシャと恋に落ちたようなフリをしてお金で買ったためだと改心したネフリュードフ公爵が、以降、有罪判決を受けたカチューシャのために献身的な努力をすることになる。これに対して『玉堂春』では、裁判官になる前の若い頃に玉堂春と恋に落ちた経験のある王金龍は、法廷でその青春時代の遊蕩歴がバレないかとヒヤヒヤ。王金龍はこっそり拘置所を訪ねて玉堂春と感激の再会を果たすが、さて彼は玉堂春の冤罪を晴らすことができるのだろうか?
<自分の罪を認めるか?でも、誰がそれを問えるの?>
この裁判の舞台は、私の中国人の知り合いの故郷である山西省の省都、太原。本作のエピローグでは、第3話で宜昌の風俗サウナ内で客をナイフで刺し殺した小玉が、第1話で大海の猟銃によって殺されたジャオの妻が夫の後を継いで経営している会社で面接を受けるシーンが登場する。小玉の履歴書を見た女社長は「聞き覚えのある名前だわ。地元で何かあった?」と尋ねるが、小玉は「いえ、何も」とシャーシャーと受け流していた。しかし、「ちょっと年がいきすぎているわね」と言われていたから、さてその採否は?
その結果は知らないが、その後、街を歩いていた小玉がふと目にしたのが、広場で演じられている『玉堂春』。小玉が群衆に交じってその芝居を観ていると、カメラは裁判官席から群衆に向けられたアングルに。そして、まるで小玉に問いかけるかのように、裁判長は「自分の罪を認めるか?お前は自分の罪を認めるか?」と質問。『玉堂春』の芝居では、玉堂春は「私は無罪です」と答えるはずだが、もし小玉がこの時自分の罪を認めるか?と聞かれたかのように感じたとしたら、小玉の答えは・・・?他方、何よりもこの裁判官にこんな質問を発する資格があるの・・・?
賈樟柯監督作品はキム・ギドク監督作品と同じように、どれを観ても素晴らしいが、この最後のシーンを観ただけでも「あっ、参った」となること請け合いだ。
2014(平成26)年6月11日記