欲動(TAKSU)(日本・2014年) |
<シネ・ヌーヴォ>
2014年11月5日鑑賞
2014年11月11日記
進境著しいアジア映画のミューズ・杉野希妃の監督2作目となる本作のテーマは、男女の性愛と人間の生死。「性の開放感」を浮かび上がらせるために選んだ舞台が異国情緒タップリのバリ島だが、ガムランという地元の音楽とケチャという地元の舞踏がそれを更に増幅させてくれる。
地元のジゴロ男とのセックスが中盤の見どころで、ストーリーの転換点だが、重い心臓病の夫との絡みが、物語に深みを持たせている。
今ドキの大学生にはなかなかわからないタイトルの意味を、ストーリー展開の中でしっかり確認したい。
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監督・コプロデューサー:杉野希妃
勢津ユリ(看護師)/三津谷葉子
勢津千紘(ユリの夫、心臓に重い病気を抱える)/斎藤工
ワヤン(地元ビーチのジゴロ)/コーネリオ・サニー
九美(臨月を迎えた千紘の妹)/杉野希妃
ルーク(九美の夫、オランダ人)/トム・メス
木村(バリ島に住む日本人青年)/高嶋宏行
イキ(地元の青年)/松﨑颯
2014年・日本映画・97分
配給/太秦
<活躍の場が広がる杉野希妃の監督2作目の舞台は?>
『歓待』(10年)(『シネマルーム27』160頁参照)以来、私が注目している杉野希妃は、その後『おだやかな日常』(12年)(『シネマルーム30』209頁)、『ほとりの朔子』(13年)(『シネマルーム32』115頁)等で女優兼プロデューサーとして数々の映画祭に招待され、国内外で脚光を浴びている。他方、私はまだ観ていないが、彼女が初監督した『マンガ肉と僕』(14年)が東京国際映画祭アジアの未来部門で上映され、2作目の監督作品となる本作は釜山国際映画祭でワールドプレミア上映され、「アジアスターアワーズ」の新人監督賞を受賞した。今後も、三澤拓哉監督の『三泊四日、五時の鐘』(15年)、佐々部清監督の『群青色の、とおり道』(15年)が公開待機中というからすごい。また、『キネマ旬報』11月下旬号には「アジア映画のミューズ、新たなステージへ」と題するインタビュー記事が掲載された。
本作の舞台はバリ。私はまだ行ったことがないが、バリは日本人、特に若い日本人女性に大人気。その理由は、美しいビーチや異国情緒タップリなリゾート地だからという理由もあるが、ホントの理由は、かつてバブルの頃、東京都の伊豆諸島にある「新島」が大流行したのと同じ。つまり、抑圧された性的道徳観にがんじがらめにされた日本を離れて、異国の地バリ島に行けば、若い日本人女性に声をかけ、セックスに誘うことを仕事とする(?)地元のジゴロ青年がたくさんおり、日本の男とは比べものにならないほど優しい彼らが日本人女性を誘ってくれるから・・・?
それが本作のテーマだが、まずは冒頭ガムランと呼ばれるバリの音楽とケチャと呼ばれるバリの舞踏に注目!何を歌っているの?何を祈っているの?それはわからないが、これを聴き、これを観ているだけで、たちまちここは日本とは無関係な異国。したがってセックスの面では何をしてもOK。せっかくバリに来たのだから、地元のお楽しみをしっかり手に入れなきゃ・・・。誰でもそう思うのでは・・・。しかも、それが女性なら・・・?
<タイトルの意味は?インターナショナルタイトルとは?>
日本という枠にとらわれず、アジア全体に軸足を置いて活躍する杉野希妃が監督する作品のタイトルをどうするのかは大問題。邦題だけではアジア各国はわからないからだ。さらに本作の「欲動」とはナニ?今ドキの中・高校生はもちろん、日本語能力の劣化した大学生では、その意味もわからないのでは?私ですら、漢字の意味を繋げて解釈すればわからないことはないが、少なくとも日本語として定着した熟語でないことはたしかだ。
そこで、杉野希妃は「インターナショナルタイトル」という新しい概念(?)を創り出し、本作のそれを『TAKSU』としてが、これがさらにわからない。ちなみに、バリ島旅行.comで調べてみると、タクススパ(Taksu spa)はスパの店名で、「観光客が多いウブドエリアにありながら、静かな森の中に広がる静寂のスパです」と紹介されている。また、「観光地の真ん中にありながら、スパ敷地内に一歩足を踏み入れると、そこには静寂の森が広がります。森の中には川が流れ、その清々しい空気の中に身を置くだけで、森の精霊たちに癒される気分になります」とも書かれている。すると、「Taksu」とは現地語で「森」という意味・・・?
<第1のテーマは、男女の性愛>
本作には杉野希妃自身もオランダ人男性ルーク(トム・メス)と結婚してバリに定住し、今は出産を直前に控えている女性・九美役として出演しているが、本作の主役は三津谷葉子扮する勢津ユリだ。
『キネマ旬報』11月号の「インタビュー」によれば、本作の企画の原型は6年ほど前に思いついた、「ヒロインは歌手で、彼女は自分の表現力に悩んでいたのが、バリに行くことによって性的に解放されて、表現力も身に付けていくというシンプルな話を、自分の主演・監督でやりたいな、と考えていました。」というものだったが、その後、自身をめぐる状況も変わり、この企画はいったん保留になったらしい。そして、それを再始動させるきっかけとなったのが、主演女優・三津谷葉子との出会いだったそうだ。私が三津谷葉子をはじめて観たのは『愛の渦』(14年)(『シネマルーム32』未掲載)だった。同作の主役となった女優は、真面目そうなメガネの女子大生ながら、性欲のメチャ強い「女1」を演じた門脇麦だったが、美人度の点では今ドキのOL「女3」を演じた三津谷葉子の方が上だった。彼女は、近々鑑賞予定の、安達祐実主演の話題作『花宵道中』(14年)にも出演している近時の注目女優だ。そんな三津谷葉子演じるユリが心臓に重い病気を抱えている夫の千紘(斎藤工)と共にバリに赴いたのは、自分が看護師をしていることもあり、夫の妹・九美の出産に立ち会う(協力する)ためだが、異国情緒タップリのバリに来てみると・・・?
タイではオカマが有名だが、バリでもそれは似たようなもの・・・?さらに、『ジゴロ・イン・ニューヨーク』(13年)(『シネマルーム33』参照)で観たとおり、ニューヨークでもジゴロが活躍しているのだから、バリのビーチにウジャウジャいるジゴロの女を引っかける能力は抜群らしい。すると、地元で生活し、ジゴロの友人もたくさんいる木村(高嶋宏行)の「欲望は解放しなくちゃ」のセリフに対して、「人間には理性がありますから・・・」などと甘っちょろい反論をするユリなど、地元のジゴロの手にかかるとイチコロ・・・?
そう、杉野希妃の監督2作目となる本作のテーマの第1は「男女の性愛」なのだ。もちろん、その描き方は日活ロマンポルノ的な男性目線のものではないが、女性監督として本作の第1のテーマとする男女の性愛の描き方は・・・?
<第2のテーマは、人間の生死>
第1のテーマをより浮かび上がらせるために、杉野希妃が設定した第2のテーマは人間の生死。つまり、明日にも死ぬかもしれないという恐怖の中で妻ユリとともに妹・九美の出産に立ち会うべく、バリにやってきた千紘の死というテーマだ。千紘を演じる斎藤工は、綾野剛とよく似たイケメン俳優。ちょっとキザっぽいが、さすが杉野希妃がキャスティングしただけあって演技力は抜群だ。
バリに到着した直後から肉体的にかなり辛そうな千紘が、死への恐怖やイライラを爆発させるセリフは、ユリに対する「もっと動揺しろよ!」というもの。自分は明日死ぬかもしれないという恐怖と闘い日々動揺しているのに、看護師として病院勤めをしている妻のユリが人の「死」に慣れているのが気に入らないらしい。もちろん、今更そんなことを言われてもユリは困るだけだが・・・。九美が日本に戻り日本の病院で出産しようとしないのも、病院というものがイヤなためだ。さすがに夫と2人だけのバリでの出産には不安があったため、看護師をしているユリとその夫である兄を観光も兼ねて(?)バリに呼んだのだが、さて自分には心地良かったバリの「解放感」は、兄嫁のユリには・・・?
千紘の死というファクターがユリにも九美にも大きな影響力を及ぼすのは当然だが、それが本作第1のテーマである男女の性愛、とりわけジゴロのワヤン(コーネリオ・サニー)から迫られるユリの性愛に、いかなる影響を・・・?
<男の目からみると、ユリの甘さが目につくが・・・>
かつての新島は「それ」を期待した若い女の子が大挙して出かけて行ったようだが、本作のユリは決してそうではない。あくまで兄嫁として、また看護師として九美の出産に立ち会うためバリ島にやってきたものだ。しかし、予想もしなかった夫の言葉を聞かされてその場を飛び出してしまうと、そこは勝手知ったる日本ではなくバリだから、どこにも行くところがない。そこで地元で働く青年・木村から声をかけられ、「気晴らしに」と誘われたナイトクラブ行きにスンナリ応じ、そこで木村が男友達のイキ(松﨑颯)と絡み合っているのを目撃したところで、地元ビーチのジゴロ・ワヤンから迫られると、普通はそれだけでアウト。
ユリが必死に抵抗したことによってその場を逃げ出せたのは、さすが日本の貞女、人妻の鏡と褒めてあげたいところだが、どうもここらあたりでユリは自分の「欲動」に気付いたらしい。したがって、翌日に再びワヤンとの間で展開される、出来レースのような指輪の奪い合い、そして予想どおりのセックスへの展開は、男の目からみると、どうしても女の甘さが目についてしまうが・・・。
<これは強姦?それとも和姦?>
ちなみに、弁護士の目でみると、これが強姦か和姦かの判断は難しい。つまり、形だけ見ればユリはセックスに合意していないことは明らかだが、そうかといってワヤンが女の抵抗を奪い、暴力でユリを犯したといえないことも明らかだ。強姦罪は親告罪だから、ユリの告訴がなければ事件にならないところ、ユリが告訴する意思がないことは明白だから、そんな議論をする意味はない。しかし、まさに女ゴコロの奥底に潜む「欲動」と、それを自覚してしまった女とワヤンとのこんな展開をみれば、仮に親告罪でないとしても、強姦罪の成否がいかに難しいかがよくわかる。
まさにバリのような開放感の中に身をおけば、自分には理性があると自信を持って木村に反論していたユリのような女だって、ビーチのジゴロ・ワヤンのテクニックの前にイチコロ・・・?なるほど、なるほど・・・。
<ユリと千紘の夫婦仲は?>
本作中盤の展開をみていると、ユリと千紘との夫婦仲には決定的なミゾが入ったことがわかる。そんな中でユリは地元ビーチのジゴロ・ワヤンの「餌食」になってしまったのだから、ここからは2人の「離婚」という展開になってもおかしくはない。そこで、ストーリーは九美の出産が無事成功した後の、2人の夫婦仲は如何に・・・?という展開になっていく。
千紘の心臓病はストーリー展開のための設定だから、重くしたり軽くしたりするのは脚本上の自由。したがって、到着した当時は今にも死にそうだった千紘だが、その後の食事は普通にしているし、寝たきりになっているわけでもない。そんな千紘がユリと夫婦喧嘩状態になった原因は、千紘の例のセリフだが、その後も千紘は「自分はバリに残る」、「お前は1人だけで日本に帰れ」と言い放ったから、夫婦仲の決裂は決定的。しかも、ユリは千紘には内緒にしているだろうが、ジゴロのワヤンとのセックスで性の快感、性の解放とやらに目覚めたのだから、なおさら離婚も決定的・・・。そう思っていると、意外にも・・・。
<激しいセックスは心臓に悪いはずだが・・・>
私は三津谷葉子は清純派の美人女優と思っていたが、本作で見せるセックスシーンはなかなかのものだし、堂々と見せてくれる胸の豊かさも相当のものだ。しかし、それは赤の他人が見ての性的魅力であって、重い心臓病のうえ、妻に対してイラついている千紘には、そんな妻から今さらセックスを迫られたって・・・。案の定、千紘はいったんは迫ってきたユリを拒否したが、ユリが思いっきり泣き始めると、やはり男は女の涙に弱いもの。そこから、妻を抱きしめたかと思うと、その後は重い心臓病を患っていることなど忘れてしまったかのような激しいセックスシーンが・・・。
激しいセックスは心臓に悪いはずだが、セックスそのものには千紘もユリも十分満足したようだ。さあ、これによって2人の夫婦仲は・・・?もちろん、映画ではその結論は見せてくれないが、監督2作目となる杉野希妃の視点をハッキリ読み取ることはできるはずだ。この余韻を残したラストを味わう中で、今後の2人の展開についてのあなたの見立ては・・・?
2014(平成26)年11月11日記