幸せのありか(ポーランド・2013年) |
<ビジュアルアーツ専門学校大阪試写室>
2014年11月20日鑑賞
2014年11月26日記
重度の知的障害と身体障害を持つマテウシュ。1980年代、民主化へと動いたポーランドで現実に存在した青年をモデルとした「BASED ON A TRUE STORY」は興味深い。ストーリーの進行役は、マテウシュ自身のモノローグ。アレレ・・・。マテウシュは言葉がしゃべれず、意思疎通ができないから、施設に入れられているのでは・・・?
男なら誰でも青年期になれば性的興味が膨らむのが当然だが、マテウシュの場合は?その対象は?
ヘレン・ケラーを描いた『奇跡の人』(62年)は「w-a-t-e-r」が感動的なシーンだったが、本作は「私 植物 違う」。
人間とは?人間の尊厳とは?本作からあらためてそんなテーマを考えてみたい。
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監督・脚本:マチェイ・ピェブシツア
マテウシュ(脳性麻痺の障害をもつ青年)/ダヴィド・オグロドニク
マテウシュ(少年時代)/カミル・トカチ
マテウシュの父(風変わりな魔法使い、天文学をマテウシュに教える)/アルカディウシュ・ヤクビク
マテウシュの母/ドロタ・コラク
マグダ(新たに施設にやって来た看護師)/カタジナ・ザヴァツカ
ヨラ/アンナ・ネフレベツカ
2013年・ポーランド映画・107分
配給/アルシネテラン
<これはドキュメンタリー?いやこれも真実に基づく物語>
ポーランド映画といえば、私はどうしてもアンジェイ・ワイダ監督の『カティンの森』(07年)(『シネマルーム24』44頁参照)やロマン・ポランスキー監督の『戦場のピアニスト』(02年)(『シネマルーム2』64頁参照)に代表されるような、ポーランドがナチス・ドイツに翻弄された時代の問題提起作を思い浮かべてしまう。しかし、第1作目の『木っ端微塵』(08年、日本未公開)でポーランド映画賞新人監督賞を受賞した、1964年生まれのマチェイ・ピェブシツアの第2作目で、第16回ポーランド映画賞観客賞、主演男優賞など主要5部門を受賞した本作は全くそうではない。
私は全然知らなかったが、本作はポーランドが民主化へと大きく揺れ動いた時代を背景としているものの、そのような時代背景とは全く関係なく、脳性麻痺の障害をもった男プシェメク(実名)にインスパイアされて作られた映画。他方、「エヴァ・ピェンタを偲んで」と本作にエンド・クレジットされるエヴァは、マチェイ監督の学生時代からの友人らしい。マチェイ監督は、そのエヴァが障害者を撮り続けた2004年のドキュメンタリー映画『Jak motyl(原題)/Like A Butterfly(英題)【蝶のように】』に感銘を受けて、本作を作ることを決意したそうだ。したがって、本作は決してドキュメンタリーではないが、すべて実際の出来事にインスパイアされて構成された物語だから、これも11月16日に観た『デビルズ・ノット』(13年)と同じく「BASED ON A TRUE STORY」だ。
<こりゃすごい!2人の俳優の迫真の演技に拍手!>
ハリウッドの名優ショーン・ペンが、7歳の知能しかもっていない父親役を演じた『アイ・アム・サム (I am Sam)』(01年)は、弁護士としては無料奉仕の敏腕美人弁護士と共に7歳を迎えた娘の「親権」をめぐっての法廷闘争が興味深かったが、同時にショーン・ペンの演技力に驚かされた(『シネマルーム2』125頁参照)。それと同じように、本作では少年時代のマテウシュを演じたカミル・トカチと、青年になってからのマテウシュを演じたダヴィド・オグロドニクの迫真の演技にビックリ!
ちなみに、視覚障害者を主人公にした映画はたくさんあり、古くはオードリー・ヘップバーン主演の『暗くなるまで待って』(67年)、新しくはジェイミー・フォックスが盲目の歌手レイ・チャールズを演じた『Ray/レイ』(04年)(『シネマルーム7』149頁参照)等がある。邦画でも、古くは岩下志麻主演の『はなれ瞽女おりん』(77年)や大沢たかお主演の『解夏(げげ) 』(03年)(『シネマルーム3』356頁参照)、木村拓哉主演の『武士の一分(いちぶん)』(06年)(『シネマルーム14』318頁参照)等がある。また、運動障害者を主人公にした映画は、ベトナム戦争で四肢を失った兵士を描いた『ジョニーは戦場へ行った』(71年)というすごい映画があったし、ラモン・サンペドロをモデルとし、障害と尊厳死を描いた『海を飛ぶ夢』(04年)(『シネマルーム7』197頁参照)があった。さらに、精神障害者を主人公にした映画は、前述の『アイ・アム・サム (I am Sam)』の他、韓国映画の『マラソン』(05年)(『シネマルーム8』62頁参照)、中国映画の『海洋天堂(Ocean Heaven)』(10年)(『シネマルーム27』219頁、『シネマルーム34』335頁参照)等がある。
これら各種の名演技を比べても、本作にみる2人の俳優の知的障害と運動障害の演技はすごい!
<両親のスタンスは?家族の絆は?>
マテウシュは父(アルカディウシュ・ヤクビク)、母(ドロタ・コラク)の長女、長男に続く3番目の子供として生まれたが、あれほどの障害をもった子供が生まれると両親は大変。その苦労は弁護士40周年を迎えた私は、私の友人・知人たちから聞いてよくわかっている。しかし、本作全編を通じて気持が暗くならないのは、障害の子供をもった絶望から一家心中・・・などという方向に向くことが一切ないこと。母親がマテウシュの世話のために24時間振り回されるのは仕方ないが、我が子への愛情からそれを当然のように受け入れている。そして、父もあくまで明るく、一人前の男の子としてマテウシュと接している。
もっとも、長女は両親の愛情が3番目に生まれたマテウシュばかりに向いているといつも不満に思っているようだが、そうかといってマテウシュにつらく当たることもなく、この5人家族はいつも明るく暮らしているからエライものだ。少しでもマテウシュの症状が良くなるようにと母は毎日考えているが、最も切ないのは、多くの医師たちからマテウシュは植物状態にあることを理由として改善はムリ、人間として扱うことはムリ、と断言されること。母の目からみれば、決してそんなことはないのだが・・・
本作の物語はいくつかの章に分けて構成されているが、全編を通じて両親のマテウシュに対する愛情が変わることはない。他方、本作の物語はマテウシュのナレーションを通じて進行していくが、それはなぜ?マテウシュが植物状態だったら、マテウシュの視点で物語を進行させていくことは不可能ではないの?その「カラクリ」は最後のクライマックスになって明らかにされるので、その瞬間をしっかり確認したい。
<知覚障害、運動障害でも、性的興味は・・・?>
マテウシュのプロローグを聞いていると、アパートの窓際を自分の特等席としているマテウシュの、女性に対する(性的)興味は、当然ながら思春期から大人になるにつれて芽生えていることがよくわかる。ユーモアを込めて描かれる最初のガールフレンドとの物語はほの温かいものだったが、周りにいたヘンな奴(?)のおかげで、彼女は引っ越しを余儀なくされることに・・・。
これに対して、母親とは違う形で誰よりもマテウシュのことを愛してくれた父親が死亡した後、母親1人では介護できなくなったため、やむなく「施設」に入れられたマテウシュは毎日嫌な思いで暮らしていた。ところがある日、チョー美人の看護師がやってきたからラッキー。それまで、マテウシュは女性のランキングをオッパイの大きさだけで決めていたようだが、マグダ(カタジナ・ザヴァツカ)を見ると必ずしもその基準が正しくなかったことを痛感したらしい。本作のチラシで見たカタジナ・ザヴァツカは、一見『イングロリアス・バスターズ』(09年)(『シネマルーム23』17頁参照)、『オーケストラ!』(09年)(『シネマルーム24』210頁参照)、『黄色い星の子供たち』(10年)(『シネマルーム27』118頁参照)、『人生はビギナーズ』(10年)(『シネマルーム28』200頁参照)、『リスボンに誘われて』(13年)(『シネマルーム33』10頁参照)、『グランド・イリュージョン』(13年)(『シネマルーム32』241頁参照)、『複製された男』(13年)(『シネマルーム33』275頁参照)等に出演しているフランスの美人女優メラニー・ロランと錯覚したくらいの美人だが、本作にみるマグダの行動はかなりエキセントリックだ。知的障害、運動障害のマテウシュに対して分け隔てなく接するとか、人間としての愛をもって接するのは看護師の職業倫理として大切だが、なぜマグダはそれ以上にマテウシュに対して男女の愛を示したの?そして、それは本心から?それとも何かに対する反発から?
父親の誕生日パーティに、いきなり車椅子に乗せたマテウシュを連れて参加するマグダの行動は少し異様。父親は「突飛な娘でね。去年はホームレスの彼。今年は・・・」と周囲の人に弁明していたが、これではパーティがぶち壊しになってしまうのは当然だ。さらに、夜中にマテウシュの部屋を訪れて、明らかにマテウシュが興味を示している自分の胸を見せたり、触らせたりする行動は、異様というより明らかに職務規定違反!もっとも、それが(男女の)愛情の証ならそれでいいのだが、さて・・・。
<「w-a-t-e-r」VS「私 植物 違う」>
「三重苦」の少女ヘレン・ケラーの人生、とりわけその幼少期におけるパティ・デューク演じるヘレンと、アン・バンクロフトが演じたサリバン先生との二人三脚による「闘い」を強烈に描いた『奇跡の人』(62年)は世界中の人々に大きな感動を呼んだ。その最大のハイライトは、それまで動物のように暴れるばかりだったヘレンがサリバン先生の厳しい指導の下で指文字で「w-a-t-e-r」と答えるシーン。それと同じようなシーンが本作のクライマックスにも登場する。
知的障害者との意思疎通をどのように図るのかは難しいテーマだが、その1つの方法として瞬きの回数で単語をチョイスさせ、それを並べることによって意思疎通を図るという方法があるらしい。マテウシュは言葉を発することができないから、言いたいことがあるのにそれが伝えられないと、どうしてもイライラして暴れてしまう。そのため、介護する側はこれを発作とみなして拘束してしまうから、ますます意思は伝わらない。それまではそういう悪循環が続いていたが、ある日マテウシュは自分の隣で1人の患者に対してそんな試みがなされていることを知って、大興奮!そこで「俺にもやってくれ!」と叫んだわけだが、それが何とか伝わったのか、マテウシュの一生の幸せに繋がることに・・・。
『奇跡の人』の「w-a-t-e-r」と並ぶ本作の感動的シーンは、単語ブックを見ながらマテウシュの瞬きによってマテウシュの言いたいことが「私 植物 違う」であることが伝わった時だ。1つ言葉が通じれば後はいくらでもOK。まさに、マテウシュが植物ではなく、1人の人間であることが証明された感動的瞬間だ。
<1つクリアすれば、また次の難問が!>
『奇跡の人』に観たヘレン・ケラーは「三重苦」を乗り越えて、人間であること、レディであることが明らかになると、全世界の障害者に勇気と希望を与える大きな存在となった。しかし、マテウシュの場合は「私は植物ではない」ことがわかり、人間として扱うことになると、たちまち施設を出て行かなければならない、という現実的な問題が発生。施設を出て行ったら、一体誰がマテウシュの世話(介護)をするの?
本作冒頭には、大きな建物の中でマテウシュが受ける面接らしきシーンが登場するが、その時点ではそれが何を意味するのか全くわからなかった。しかし、前述したクライマックスが終わり、ラストに向けて再度そのシーンが登場してくると、なるほど、なるほど・・・。子供時代のマテウシュと毎日のように語り合っていた父親の姿を見ていると、父親の死亡したのが1989年6月4日にポーランドの第1回目の自由選挙が行われた頃と重なることがわかる。したがって、マテウシュが施設を出るための面接を受けているそのシーンは、ポーランドも少し民主化が進んだ時代なのかもしれないが、この「合議制」による面接が一体どこまで意味を持つのかは大いに疑問だ。
それはともかく、そこでは単語ブックを見せながらマテウシュの瞬きの回数を確認することによって、通常人と同じ意思疎通を(=会話)ができることを実証すればいいだけと思っていると、現実は意外な展開に・・・。エンド・クレジットが流れる間、本作でマテウシュの青年期をリアルに演じたダヴィド・オグロドニクと、まだ生きている時のプシェメクが2人で語り合う映像が流れるが、これほどまでにマテウシュになりきったダヴィドの演技に再度拍手!
2014(平成26)年11月26日記