神は死んだのか(アメリカ・2014年) |
<シネ・リーブル梅田>
2014年12月16日鑑賞
2014年12月18日記
「GOD’S NOT DEAD」?それとも「GOD’S DEAD」?全米の大学で実際に起こった数々の訴訟事件をベースに映画化した本作は、アメリカで大ヒット!無神論者の教授に対して、「GOD’S NOT DEAD」の証明に挑む、ロースクールを目指す大学生はすごい。日本でもこんな学生が増えれば法曹界は前途洋々だが、現実は全く逆だ。
もっとも、この論争をめぐる青春群像劇や中年男女の群像劇を観ていると、アレレ、本作は、「GOD’S NOT DEAD」という結論を導くための映画・・・?そう思ってしまう面もあるが、こんなテーマに関心の薄い日本人も、たまにはこんな映画でこんな勉強を!
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監督:ハロルド・クロンク
ジョシュ・ウィ―トン(大学生)/シェイン・ハーパー
ラディソン教授(無神論者)/ケヴィン・ソーボ
デイヴ牧師/デヴィッド・A・R・ホワイト
ジュード牧師/ベンジャミン・オチェン
マーティン/ポール・クウォ
ライス・ブルークス(本人役)/ライス・ブルークス
ウィリー・ロバートソン(本人役)/ウィリー・ロバートソン
2014年・アメリカ映画・114分
配給/シンカ
<原題も邦題も、何と挑発的!>
本作の原題は『GOD’S NOT DEAD』。しかし、これを実感できるのは、ラストに陪審員に見立てられた学生たちが、次々と立ち上がり、口々に「GOD’S NOT DEAD」と叫ぶシーン。それまでは逆に、無神論者のラディソン教授(ケヴィン・ソーボ)が自分の哲学の講義を受講する学生たちに、強要した「GOD IS DEAD」がテーマだ。
受講生は次々と教授が要求するとおりに「GOD’S DEAD」と神の存在を否定する宣言書に署名して提出したが、ロースクールを目指して法学部に入った新入生ジョシュ・ウィ―トン(シェイン・ハーパー)だけは、自分がクリスチャンであることを理由に、署名を拒否。そこでラディソン教授は「次の3回の授業の後半に20分ずつあげるから神の存在を全生徒の前で証明しろ」という挑戦行為に出たから、ジョシュは「GOD’S NOT DEAD」を証明しなければならない羽目に。
しかし、「GOD’S DEAD」と「GOD’S NOT DEAD」のどちらが正しいのかをテーマにした映画なんて、成立するの?誰でもそう思うはずだが、本作はアメリカで大ヒットしたため、日本でも公開されることに。しかし、その邦題は『神は死んだのか』と、いかにも日本的なあいまいさ。しかし、それでもそのタイトルは挑発的だ。本作は、全米の大学で実際に起こった数々の同じような論争から起こった訴訟事件をベースにしたライス・ブルークスの同名の小説を映画化したものらしい。日本では、去る12月14日の衆議院議員総選挙で大勝した自民党の安倍晋三が第97代内閣総理大臣に選出されることは確実だが、アメリカでは大統領に就任する時には神への宣誓の儀式が行われる。それほど、アメリカではキリスト教が浸透しているわけだ。したがって、本作のスクリーン上で展開される、文字どおりの「神学論争」に、宗教心が薄く、キリスト教や聖書の知識に疎い日本人はどこまでついていけるの?そんな視点からもアメリカでは大ヒットしても、日本でのヒットは多分ムリ・・・。
<ニーチェ以下、哲学者はなぜ無神論者ばかり・・・?>
マルクスやエンゲルスなど、共産主義を説いた経済学者兼哲学者は宗教を否定し、神を否定した。ラディソン教授の講義によると、それと同じように、19世紀最大の哲学者ニーチェは、『悦ばしき知識』(1882年)で「GOD IS DEAD」と宣言し、カミュ、フロイト、チョムスキー等の有名な哲学者もおしなべて無神論者だったらしい。
しかし、ストーリーが展開していくにつれて、すなわち、多くの学生が見守る前でのジョシュとラディソン教授の議論のぶつかりが深まるにつれて、ラディソン教授が無神論者になったのは母の死をそれまで信じていた神が救ってくれなかったため、ということがわかってくる。さらに、日本の授業では考えられないような、ジョシュとのまるでケンカのような熱い議論の中で、「あなたは無神論者ではなく、神を憎んでいるのでは?」とジョシュから追及され、ラディソン教授が「YES」と答えると、すかさずジョシュは「存在しないものを憎むことができるのか?と二の矢を放ったからすごい。ここまで精緻に「GOD’S NOT DEAD」という立場の資料を積み上げたうえ、現場でのリアルな議論でも相手(しかも、それが教授)をここまで追い詰めることができれば、目指すロースクールの合格はもちろん、司法試験の合格だってまちがいなしだ。
私はキリスト教信者ではないが、基本的に神の存在は信じている。しかし、ニーチェはなぜ「GOD IS DEAD」と宣言したの?ラディソン教授の無神論者の化けの皮(?)は最後の最後にあっと驚くハプニング(ネタバレ防止のため、ここでは書けない)で剥がれてしまうが、なぜ多くの有名な哲学者たちは、無神論者を貫いたの・・・?
<本作は意外にも、神を媒介とした青春群像劇!>
本作は大学生ジョシュとラディソン教授との、「GOD’S DEAD」それとも「GOD’S NOT DEAD」をめぐる「神学論争」がメインストーリー。しかし、それだけでは映画として成立しないと考えたためか、意外にも、神を媒介とした青春群像劇になっている。本作冒頭、大学構内に集まってくる学生たち、そしてラディソン教授の講義に集まってくる学生たちが映し出されるが、ジョシュを含めて彼らにはそれぞれ恋人や親がいるのは当然。ジョシュには、ジョシュと共にロースクール進学を目指す恋人がいたし、中国人の男子学生には祖国に息子の成長を見守る実業家の父親がいた。また、ある女子学生が登下校時に厳格に顔にヴェールを巻くのは、厳格なイスラム教徒の父親からそれを厳命されているためだ。しかし、この年頃になれば、それに不満があるのは当たり前。また、意外にもラディソン教授が結婚しているのは教え子だった若い女子学生らしい。しかし、当然ラディソン教授は亭主関白だし、学校では自分をあくまで「教授」と呼ぶようにしつけていたから、彼女は何かと息苦しそうだ。
本作は「GOD’S DEAD」それとも「GOD’S NOT DEAD」をめぐって、この大学生たちと、彼ら彼女らが最も親しい人との関係に大きな影響を与えていく姿を描いていく。たとえば、ジョシュの場合は、恋人から「そんなに頑なに教授に反論しようと努力して何の意味があるの?」「自分たちの将来にマイナスになるだけじゃないの?」と批判され、さらに「私をとるの?それとも論争をとるの?」と迫られる中、ジョシュは結局この恋人との交際をやめてしまうことに。イスラム教徒の女子学生も、家の中でスマホを使って聖書を聞いていたことを弟から父親に告げ口されたため、勘当されてしまうという悲劇に。さらに、家に友人たちを招いたパーティで、女子学生の妻を家政婦のように扱うラディソン教授にキレてしまった彼女は家を出て行く決断を下したうえ、さらに離婚の決断も。本作が描くこれらのストーリーは、すべて「GOD’S DEAD」それとも「GOD’S NOT DEAD」をめぐる、青春群像劇だ。
<本作は意外にも、神を媒介とした中年男女の群像劇!>
青春群像劇という言葉には少しムリがあるのが、美人女性記者と、大成功を収めている中年実業家との恋人関係。ここでは、彼女が末期ガンにかかっていることがわかると、2人の恋人関係は簡単に切れてしまうから、アレレ・・・。その結果、彼女が神も仏もないものかと絶望したのは当然だ。しかし、ラストに見る、神を称える歌を歌うクリスチャンバンドであるニュースボーイズのコンサートに突撃取材を敢行する中で得られた、「GOD’S DEAD」それとも「GOD’S NOT DEAD」についての彼女の結論は?
また本作には、サブストーリーとしてデイヴ牧師(デヴィッド・A・R・ホワイト)とジュード牧師(ベンジャミン・オチェン)の、車での旅をめぐる価値観の衝突の物語が登場する。そりゃ、車のエンジンがかからなければイライラするのは当然。そこで、仕方なく頼んだレンタカーのエンジンがまたかからなければ、怒り狂うのも当然だ。しかし、そんなデイヴ牧師に対して、ジュード牧師が見せる価値観とは?旅先に早く着くことがそんなに大切?また、エンジンがかからないのは誰のせい?1台目のレンタカーも、2台目のレンタカーもダメでも、3台目にエンジンがかかれば、それは神のご加護では・・・?本作では、そんな中年の男女たちの群像劇にも注目!
<本作は「GOD’S NOT DEAD」に導くための映画?>
ストーリーが進行するについて、本作では本筋のラディソン教授とジョシュの論争で、明らかにジョシュが優位に立っていくのがわかる。また、若者たちの青春群像劇でも、中年の男女たちの群像劇でも、その人生模様が展開する中、次第に「GOD’S NOT DEAD」一色になっていくことがよくわかる。中でも印象的なのは、国全体として神の存在が否定されている中国人ながら、ジョシュの「GOD’S NOT DEAD」という主張を聞いていく中で次第にそれに同調していく中国人男子学生が、電話で中国の父親に対して「GOD’S NOT DEAD」の話をするシーン。これに対して父親が厳しい顔をしたのは当然だが、ひょっとして、この中国人学生はこれからクリスチャンになっていくの?
本作ラストのクライマックスは、ニュースボーイズの1万人のコンサートになるが、そこでのボーカル、マイケル・タイトの歌声は力強く神を称えるものばかりだ。そして、今それを聞いているイスラム人女子学生も、ラディソン教授との離婚を決意した女子学生も、中国人男子学生も、そしてガンを宣告された女性記者も、心の底から楽しそうだ。なるほど、これが神の加護の下に生きている、ということなの・・・?しかし、こんなまとめ方を見ていると、アレレ、本作は「GOD’S NOT DEAD」に導くための映画?そう思ってしまったが、さて・・・?
さらに、このコンサート会場に足早に向かっていたラディソン教授に起きたある「事件」と、偶然その現場に立ち会ったデイヴ牧師、ジュード牧師の対応を見ていると、その感を強くする。なるほど、やっぱり「GOD’S NOT DEAD」だ。すると、やはり『神は死んだのか』という邦題はあいまいすぎるのでは・・・?
2014(平成26)年12月18日記