雪の轍(トルコ、フランス、ドイツ・2014年) |
<シネ・リーブル梅田>
2015年7月20日鑑賞
2015年7月27日記
第67回カンヌ国際映画祭のパルム・ドール賞は、トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督による3時間16分の大作に。奇岩で有名なカッパドキアや洞窟ホテルを舞台とした、登場人物たちの1対1による複数の会話劇はクソ難しいテーマばかり。しかし、一生懸命聞いているとその論点がよくわかってくるから、ぐったり疲れるものの、見応えも十分で、星5つ。
そう思いつつ、一方ではフーテンの寅さんのような自然流、風の向くまま、気の向くままでもいいのでは?そんな気分にも・・・。
本文はネタバレを含みます!!
それでも読む方は下の「More」をクリック!!
↓↓↓
ここからはネタバレを含みます!!ご注意ください!!
↓↓↓
監督:ヌリ・ビルゲ・ジェイラン
アイドゥン(洞窟ホテルのオーナー。元舞台俳優)/ハルク・ビルギネル
ニハル(アイドゥンの若く美しい妻)/メリサ・ソゼン
ネジラ(離婚して出戻ってきたアイドゥンの妹)/デメット・アクバァ
ヒダーエット(アイドゥンの使用人)/アイベルク・ペクジャン
イスマイル(アイドゥンと対峙する家賃を滞納した借家人)/ネジャット・イシレル
ハムディ(イスマイルの弟。イスラム教の導師)/セルハット・クルッチ
イリヤス(イスマイルの息子)/エミルハンド・ドルックトゥタン
スアーヴィ/タメル・レヴェント
レヴェント(ニハルの慈善事業の協力者の男)/ナディル・サルバジャック
ティムール/メフメット・アリ・ヌルオウル
2014年・トルコ、フランス、ドイツ映画・196分
配給/ビターズ・エンド
<パルム・ドール賞を受賞した本作の3つの特徴とは?>
第67回カンヌ国際映画祭の審査員賞は『Mommy』(14年)(『シネマルーム36』)のグザヴィエ・ドランと『さらば、愛の言葉よ』(14年)(『シネマルーム35』未掲載)のジャン=リュック・ゴダール、男優賞は『ターナー、光に愛を込めて』(14年)(『シネマルーム36』)のティモシー・スポール、女優賞は『マップ・トゥ・ザ・スターズ』(14年)(『シネマルーム35』237頁参照)のジュリアン・ムーアだったが、最高のパルム・ドール賞はヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督のトルコ映画たる本作が受賞した。ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は過去のカンヌ国際映画祭で既に2回のグランプリと作品賞を受賞しているそうだが、ほとんどの日本人は知らないはず。しかし、本作によって一躍有名に。
そんな本作の特徴の第1は、3時間16分という長尺になっていること。第2は、その舞台が世界遺産カッパドキアの壮大な風景とされていること。第3は、少ない登場人物たちが交わす会話(議論)がチェーホフやドストエフスキーというロシア文学の作品に根ざした長くかつ深遠なものになっていることだ。以下その特徴を中心に、私なりに評論したい。
<東の桂林VS西のカッパドキア>
中国人観光客による「爆買い」は今年の日本の名物になった。それはそれで嬉しいことだが、それは「円安」が生んだ効果の1つだから、そんな現象がずっと続くわけではないだろう。したがって、中国人観光客をいかに恒久的に受け入れ、経済的メリットだけではない日中友好をいかに深めていくかは真剣に考える必要がある。京都や奈良、鎌倉等の「古都」は日本最大の観光の売りだし、高野山の神秘な姿もその1つ。そんな日本の観光資源をいかに認識し、いかに売り込んでいくかが今後の観光立国ニッポンを考えるうえで重要だ。
他方、日本人の私は万里の長城や長安(今の西安)の都等に代表される中国の観光地に昔から興味があった。2004年6月11日に観光した桂林の街や漓江下りもその1つだ。桂林は広東省の西隣の広西チワン族自治区にある都市。広西チワン族自治区の西隣りは雲南省だし、西南はベトナムに接している。桂林はこの広西チワン族自治区の東北部に位置しており、四方を山で囲まれ、中心部を漓江が流れている中国でも有数の観光地。漓江沿いに広がるカルスト地形の絶景は天下有数のものだ。その桂林が水墨画のような奇岩で有名なカルスト地形となったのは、この地が昔、海だった時代に石灰岩が多かったためとのこと。とがった形の桂林特有の山があちこちにできたのは、それなりの理由があるというわけだ。また、桂林は観光都市。漓江下りの観光だけで市民が飯を食っていると言っても過言ではないほど、観光におんぶに抱っこの観光都市らしいが、そこで見た奇岩の数々は強く印象に残っている。
そんな桂林が奇岩で有名な東の代表とすれば、西の代表が本作の舞台となったトルコ共和国のほぼ中央にある世界遺産のカッパドキアだ。カッパドキアはキノコ状の岩に代表される奇岩の不思議な景観、奇岩の中に遺された膨大なキリスト教壁画、地下何十メートルにも掘り下げられた地下都市とさまざまな顔を持つ、トルコ観光の最大地で、世界遺産に指定されているそうだが、本作を観ればそれがよくわかる。さらに、「洞窟ホテル」とは聞き慣れない言葉だが、否も応もなく3時間16分もスクリーンを観続けていると、その実態もよくわかる。
<3時間16分は複数の「対話劇」の連続!>
7月12日に観た『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』(15年)や『ターミネーター 新起動/ジェニシス』(15年)は次から次へと続くド派手なアクションが売りモノだから、多くの観客を飽きさせることはない。しかし、本作は3時間16分という長尺であるうえ、そのストーリーは基本的にアイドゥン(ハルク・ビルギネル)を中心とした1対1の会話(議論)で進むから、その会話に興味のない人は退屈に感じるかもしれない。橋下徹大阪市長の会話(対話)のやり方がディスカッションかそれともディベートかについては各説があるが、それは本作も同じ。日本人は元来このような議論に弱いから、延々と続くクソ難しい会話(議論)を聞かされるのはウンザリという人もいるはずだ。現に、ほぼ満席だった劇場では、私のすぐ前に座っていたおっさんが途中でイラだたしそうに舌打ちをしながら出ていったから、きっとウンザリしたのだろう。
本作最初の会話はアイドゥンの車に石を投げつけたイスマイル(ネジャット・イシレル)の息子イリヤス(エミルハンド・ドルックトゥタン)を連れて謝罪にきた導師ハムディ(セルハット・クルッチ)とアイドゥンの会話だが、これはすれ違いの連続でまともな会話になっていない。しかし、離婚して出戻っているアイドゥンの妹ネジラ(デメット・アクバァ)とアイドゥンとの「悪に抗うこと」をテーマとする対話(議論)は、クソ難しくかつ深淵、そして何といってもネジラの言い方が辛辣極まりないところがすごい。ネジラが登場するのは、このアイドゥンとの議論とアイドゥンの妻ニハル(メリサ・ソゼン)との議論の2つのシーンだが、こんな出戻りの妹が身近にいたのでは、アイドゥン、ニハル夫妻は大変だ。
<慈善事業を巡る夫と妻の議論は、どちらが正論?>
本作では初老の男アイドゥンが洞窟ホテルを経営するリッチマンであり、かつ地元の新聞にエッセイの連載を持つ文化人であること、さらに元俳優だった彼は現在「トルコ演劇史」をまとめるべく執筆中であることがわかる。しかし、なぜニハルのような美しい妻と結婚して過ごしているのかは一切説明されない。こんな場合、ニハルはおカネの面では何不自由ない暮らしができても、セックス面や精神面で夫に満足できるかどうかはわからないから、そんな点で夫に不満を持っているであろうことは弁護士を40年間もやっているとよくわかる。そんなニハルが、慈善事業に生き甲斐を求めるのもよくあるパターンだ。
アイドゥンはそんなニハルの活動に無関心だったが、ある日ニハルが自宅にレヴェント(ナディル・サルバジャック)らを招いて会合を開いているのを見ると、俄然「口出し」を始めたから、ニハルはおかんむり。なぜアイドゥンが急に口出しを始めたのかは、ニハルが親しげに話していたレヴェントが「いい男」だったことを考えれば明らかだったが、そこで交わされるアイドゥンとニハルとの慈善事業への寄附や活動をめぐる議論は全く噛み合っていない。その結果飛び出してきた、ニハルの「私たちの道は分かれてしまった。自分の道を行くべきよ」や、アイドゥンの「私が一度でも引き留めたか?いつでも出ていけ。最低賃金で働き余力があれば世界も救えばいい」というセリフは、いわば売り言葉に買い言葉で、本心でないことは明らかだが、「フーテンの寅さん」が言うように「そこまで言っちゃあ、おしまいよ」ということに・・・。さて、慈善事業を巡る夫と妻の議論はどちらが正論?
<アイドゥンの家出は本気?それとも・・・?>
どこにでも、口だけは達者だが、言葉と行動が一致しない男はいる。リッチな階層に属し、財産の管理や家賃の取り立て等の「雑務」は弁護士や使用人にまかせているからという理由で、車に石を投げた少年イリヤスと共に、父親イスマイルの代わりにアイドゥンのところに謝罪にやってきた導師ハムディへのアイドゥンの対応を見ていると、アイドゥンのいい加減さがよく分かる。また、ネジラとの議論の中で、自分の才能について「吐き気がするほど感傷的」とこき下ろされ、さらに「モスクに行って祈ったこともないのに、俳優だから多くの人間を演じられても、自分がないのよ」とボロクソに言われても、アイドゥンはなお冷静に対応していたが、どう見てもアイドゥンの反論は弱い。
ところが、年の若い妻ニハルに向かって、人間について、人生について、おカネについてアイドゥンが説教をたれるシーンは自信満々だが、その一人よがりのサマは呆れるほどだ。私は先日、TVで再放送されていたドラマ『熟年離婚』を観たが、そこでは無事定年退職して自宅に戻ってきた渡哲也演じる夫が、松坂慶子演じる妻や子供たちの前で退職後の夫婦2人の人生設計を語る一人よがりの姿が印象的だったが、それと全く同じだ。もっとも、そんなアイドゥンが、「あわや離婚か?」という直前に妻の活動に多額の資金を渡したうえで、自分が家を出てイスタンブールに行くと宣言したのは立派。一人でイスタンブールへ行き、「トルコ演劇史」を執筆する作業に没頭して一定の時間を空ければ、夫婦関係も良好に戻るかも・・・?そんな期待もあったが、アレレ・・・。その後の展開を観ていると、大雪で列車が動かないというハプニングがあったものの、アイドゥンが赴いたのは、全く別の友人たちの世界。そこで友人たちと酒を飲み、酩酊していく中で、さてアイドゥンのとった行動とは・・・?
<『白痴』を知らなくても、このシーンにはビックリ!>
本作は、チェーホフやドストエフスキーのロシア文学を色濃く反映しているらしい。というより、チェーホフとドストエフスキーのロシア文学の数々に「依拠」しているらしい。それはパンフレットにあるロシア文学者の沼野充義氏の「チェーホフとドストエフスキー 『雪の轍』とロシア文学」を読めば明らかだし、たくさん書かれている新聞紙評でもほとんどがそれに触れている。私は、大学1~2回生の時にトルストイとドストエフスキーについてはかなり集中して読んだが、チェーホフはあまり熱を入れて読んでいなかった。したがって、「本作のストーリーの原形をなしているのは、チェーホフの『妻』(1892年)という短編だ」と言われても、それ自体がよくわからない。
しかし、本作の中で次々と展開されるクソ難しい「議論」を聞いていると、私にはドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』の風景が次々と思い出されてくる。お金にはキレイなカネと汚いカネがあるのは間違いないが、他方で、所詮おカネはおカネ。したがって、不注意ならともかく、汚いカネだからという理由(?)で意識的に札束を暖炉の中に放り込んで燃やしてしまう行為はいかがなもの・・・?したがって、ニハルが突然ハムディのもとを訪れ、唐突にアイドゥンから渡された巨額のカネをハムディに与えようとするシーンで、アイドゥンと対峙するハムディの兄のイスマイルがニハルの持ってきたおカネを暖炉の中に放り投げるシーンには誰もがビックリさせられるはずだ。もっとも、これはドストエフスキーの『白痴』の有名なシーンをモチーフとして取り入れたものだが、さて、おカネをめぐるそんなやりとりを、あなたはどう見る?
<評論に惑わされることなく、自分の感性を大切に!>
本作には、7月10日に死亡したことが伝えられたエジプト人の名優オマー・シャリフと一緒に写ったアイドゥンの写真があることによって、彼がアイドゥンの「洞窟ホテル」を訪れたことが、あるシーンで語られる。しかし、こんなシーンを観ても、『アラビアのロレンス』(62年)に出演したオマー・シャリフや、『ドクトル・ジバゴ』(65年)での名演を知っている人なら、「なるほどアイドゥンはすごい男だ!」と理解できるが、オマー・シャリフを知らない人にはそんなシーンはほとんどわからないはずだ。クソ難しい会話劇の連続の中で、人生とは?人間とは?を突き詰めていく本作は、『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』や『ターミネーター 新起動/ジェニシス』とは正反対に、かなり身構えなければその鑑賞は容易ではない。しかし、そうだからといって、しんどいだけでもなく、いい映画を観ることができた、と満足できる人も多いはずだ。
他方、本件のパンフレットに書いてあるように、本作がチェーホフやドストエフスキーのロシア文学に依拠していることを知っていなければ本作の良さを理解できないかと言えば、決してそんなことはない。本作のようなクソ難しい映画の評論が、映画そのものより更に一層難しくなるのは必然。また、いかにも素人は知らないような難しいことを難しく書くからこそ、その映画評論には価値があると思われるフシもあるが、決してそんなことはないはずだ。芸人の又吉直樹が書いた『火花』が去る7月16日に芥川賞を受賞したことによって一躍脚光を浴びているが、必ずしも賞を受賞したから素晴らしい作品、賞を受賞できなかったからくだらない作品と決まっているわけではない。映画も小説も、あなたが面白いと思うものが面白く、好きと思うものを好きになればいいわけだ。そう考えると、私は弁護士として本作のようなクソ難しい議論の展開に慣れていることもあって、3時間16分の本作も長いと感じなかったが、このような議論に慣れていない多くの日本人は、本作を面白かったとなかなか言えないかもしれない。しかし、それはそれで仕方ない。あくまで映画鑑賞については、評論に惑わされることなく、自分の感性を大切に!
2015(平成27)年7月27日記