オーバー・フェンス(日本・2016年) |
<テアトル梅田>
2016年9月20日鑑賞
2016年9月27日記
41歳で自殺した函館出身の小説家・佐藤泰志の小説が、熊切和嘉監督の『海炭市叙景』(10年)、呉美保監督の『そこのみにて光輝く』(14年)(『シネマルーム32』166頁参照)に続く山下敦弘監督の本作の「3部作」として完結!今の時代になぜ、彼の小説がそこまでもてはやされるの?
彼の小説は人間観察力が鋭く、登場人物たちのキャラクターは複雑で奥深いから映画化は難しいうえ、映画化してもその表現は難しい。だからこそ、監督や俳優たちもやりがいがあるし、観客も鑑賞のしがいがあるというものだ。
その分、現在の邦画の主流派のようなわかりやすさと楽しさ、明るさには欠けるが、だからこそそれぞれの人物像を深く考察しながら、作品の言いたいことを読み解かなければ・・・。
本文はネタバレを含みます!!
それでも読む方は下の「More」をクリック!!
↓↓↓
ここからはネタバレを含みます!!
読まれる方はご注意ください!!
↓↓↓
監督:山下敦弘
原作:佐藤泰志『オーバー・フェンス』(『黄金の服』所収)(小学館刊)
白岩義男/オダギリジョー
田村聡/蒼井優
代島和之/松田翔太
原浩一郎/北村有起哉
森由人/満島真之介
島田晃/松澤匠
勝間田憲一/鈴木常吉
尾形洋子/優香
2016年・日本映画・112分
配給/東京テアトル
<佐藤泰志の小説が、なぜ三部作として映画に?>
私は熊切和嘉監督の『海炭市叙景』(10年)を観ていないが、呉美保監督の『そこのみにて光輝く』(14年)(『シネマルーム32』166頁参照)を観てはじめて、函館出身の小説家・佐藤泰志の名前を知った。『そこのみにて光輝く』はすばらしい映画で、私は断然その年の邦画のベスト1に挙げたが、私の予想通り、2014年第88回キネマ旬報ベスト・テンで呉美保監督が日本映画監督賞を受賞するとともに、日本映画ベスト・テン第1位に輝いた。私は『そこのみにて光輝く』の評論を書く中で、前作の『海炭市叙景』と山下敦弘監督による本作が、佐藤泰志の小説の「3部作」として映画化が完了することを知ったが、なぜ今の時代に、少なくとも私には無名だった函館出身の小説家・佐藤泰志の小説が脚光を浴びたの?
『そこのみにて光輝く』の大ヒットを受けて新聞紙上でも小説家・佐藤泰志が頻繁に取り上げられたが、彼の小説の本質は人間観察の鋭さとその弱者への温かい(?)まなざしにある。小説家は誰でも人間観察力に優れているのが当然だが、佐藤泰志の場合はそれが特に鋭いことが、パンフレットの中にある福間健二氏の『人間佐藤泰志』を読めばよくわかる。
<人間佐藤泰志とは!>
『そこのみにて光輝く』の評論を書く中ではじめて知ったのは、佐藤泰志が私と同じ1949年生まれだということ。福間氏も佐藤泰志と同じ歳で、24歳の時、1973年にはじめて佐藤と出会い、その後「同志のような交際」と「絶交」が交差したらしい。私は1971年に司法試験に合格し、72年から74年の2年間の司法修習を経て、1974年に大阪弁護士会に弁護士登録したことによってその後の一本道の人生が始まった。しかし、彼らは1960年代後半からの「あらしの季節」が過ぎた73年からも、なお「怒れる若者」としての生き方を模索したらしいことが、この『人間佐藤泰志』のコラムを読めばよくわかる。
佐藤泰志は5度も芥川賞にノミネートされながら、1度も受賞できなかった上、1990年に41歳で自殺してしまったこともあって、それほど有名ではない。しかし、地元函館を舞台とした小説は、いずれも人間の本質に鋭く斬り込んだ作品として評価が高いらしい。『そこのみにて光輝く』しか観ていない私としてはそれ以上言えないが、『そこのみにて光輝く』を観た時には、2013年9月に息子と共に訪れたことのある函館の街を思い出しながら、少しでも小説家・佐藤泰志の感覚を理解したいと思ったものだが、今回も、私はそんな思いで函館を舞台とした本作をじっくりと鑑賞!
<舞台は職業訓練校!そんなのが今ドキあるの?>
本作冒頭、喫煙室らしき部屋で同じ作業着と同じ帽子姿の十数人の男たちが煙草を吸いながら雑談している風景が映し出されるが、男同士のボソボソした会話は聞き取りにくい。続いて、彼らが教官(?)の厳しい「指導」の下で大工仕事に励んでいる風景やグラウンドに出てピッチングの練習をしている風景が映し出されるが、ここは一体どこ?ここで登場する俳優が高倉健なら、それは刑務所で決まり!しかし、十数人の男たちが、教官の厳しい指導付きながらも割と自由に動いている姿を見ると、ここが刑務所でないことは明らかだ。
その後、ここは「職業訓練校」だということが明らかになるが、職安(職業安定所)がハローワークに変わったうえ、「一億総活躍社会」が標榜され、「働き方改革」が進められている昨今、「職業訓練校」なんてものが今もあるの?それはともかく、本作が函館の職業訓練校を舞台にしていることからも、これは佐藤泰志自身が1981年、30歳の時に一時函館に戻り、職業訓練校に通って大工の技術を学んだ時の体験を題材にしたものだということがわかる。しかし、2016年の今となっては、職業訓練校そのものが、既に歴史的な遺物になっているのでは・・・?
何はともあれ、本作導入部では、この職業訓練校の実態に注目!
<この2人の男を中心に物語が展開>
本作の主人公は妻子と別れ、一人孤独なアパート住まいをしている40代の男、白岩義男(オダギリジョー)。当然彼が佐藤泰志本人を反映させた人物だが、小説と映画とでは、この主人公の年齢等は大きく作りかえられているらしい。白岩は一癖も二癖もある職業訓練校の同僚たちと表面上はうまく付き合っているようだが、なかなか「本音」を見せないのでその「本性」はわかりにくい。
他方、白岩に対して「今夜飲みに行きましょうよ」と誘う、カッコいい若者・代島和之(松田翔太)の方は、白岩を誘って行ったキャバクラ店で「自分がこの店の経営をやるので、副店長みたいな形で一緒にやりませんか」とあっけらかんと誘ってくるので、ビックリ!オフィス機器や事務機のレンタルの営業をしていたと自己紹介し、現在は職業訓練校で大工(建築)の実習を受けている代島のような男が、いきなりキャバクラ店の経営なんてホントにできるの?白岩がそう考え、返事を濁したのも当然だ。
本作では、職業訓練校に通う白岩と代島を中心に物語が展開していくので、この2人の男に注目!
<「はみ出し者の群像劇」にみる男たちの姿は?>
読売新聞の映画評では、田中誠氏が本作について「『はみ出し者』の群像劇」と題して、「山下監督の近作の特色ともいえる、はみ出し者に注がれるまなざしが温かい」と書いていた。なるほどなるほど。本作はたしかに職業訓練校に通う年齢も素性もバラバラな男たちの群像劇だ。そして、「一歩間違えた後の人生とどう折り合いを付けるのか。」それが、訓練生たちすべての共通テーマになっている。もちろん映画ではその答えは出ないし、小説でもそれは出ていないはずだ。
本作はそんなはみ出し者の群像劇の中で、白岩と後述するヒロイン田村聡(蒼井優)との純愛(?)を中心に描いているが、その舞台となっている職業訓練校におけるそれ以外のはみ出し者たちの姿もチラリチラリと描いているので、そこにも注目!その男たちのキャラはここでは詳しく述べないが、①中卒の若者・島田晃(松澤匠)と、いつもいがみ合っている大学中退の若者森由人(満島真之介)、②元ヤクザだが今は意外にも「こちら側」の人間として妻子と共にまともに生きようとしている原浩一郎(北村有起哉)、③一人だけ60代だが、全然若者や中年男たちの中で浮いておらず、かっこいい長老役(?)になっている勝間田憲一(鈴木常吉)たちだ。代島は本作のヒロイン聡を白岩に紹介する役割を演じるので、そのはみ出しぶりがとりわけ目立つが、その他の男たちのはみ出しぶりもそれぞれ相当なものだから、それに注目!
<白岩と聡の出会いは?>
岩井俊二監督の『リリイ・シュシュのすべて』(01年)でデビューした時の蒼井優を私は観ていないが、『花とアリス』(04年)(『シネマルーム4』326頁参照)を観た時から私はすっかり蒼井優ファンになった。『フラガール』(06年)(『シネマルーム12』52頁参照)と『百万円と苦虫女』(08年)(『シネマルーム20』324頁参照)は特に好きで、近々公開予定の『アズミ・ハルコは行方不明』(16年)も大いに期待している。そんな蒼井優が本作では、初登場のシーンからいきなり路上で「ダチョウの愛情表現」だと言いながら、前屈みになり、両手を広げて尻を突き出し、左右に身体を振りながら「ポロッポー」と鳴き真似し、身体を低くしていく演技を見せるからビックリ。このシーンだけで観客はこの女性に興味を持つはずだ。そして、それはたまたまそのダンス(?)を自転車を停めて見ていた白岩も同じだったらしい。
この女性の名前が聡(さとし)という男のような名前だということがわかるのは、白岩が代島に連れられていったキャバクラの中。つまり、聡はそこでキャバクラ嬢として働いていたわけだが、聡は店内でも堂々とその鳥の求愛ダンスをやっていたから、ひょっとしてこれは聡の営業用の隠し芸・・・?一瞬そう思ったが、聡が昼間動物園で働き、鳥の世話をしている中でそんな鳥の姿に憧れていることを知ると白岩は、次第に彼女の奥深くにひそんでいる本性に近づいていくことに・・・。
<ヒロインの超異質性と超異質な展開に注目!>
それはそれで想定内のストーリー展開だが、本作のヒロイン(?)聡が超異質なのは、動物園でのデートを経て、夜遅く聡の部屋(そこは実家の離れらしい)に二人で入り、結ばれた後のシーンだ。二人がはじめて結ばれるまでのシチュエーションはどんな小説や映画でも最大の注目点だが、本作のそれはかなり異質だから、まずはそれに注目!しかし、それ以上に異質なのは、ふと目覚めた後に発生する、白岩が指に付けていた結婚指輪をめぐる2人の言い争い(痴話ゲンカ?)だ。白岩にしてみれば、それは難癖以外の何者でもない言いがかりだが、聡は真剣で、目をつりあげ、挙げ句の果ては近くにあった鉢植えを白岩に向かって投げつけたから、それが窓ガラスに当たってガシャリ!そして、最後のセリフは「帰ってや!」だから、白岩は災難だ。
キャバクラの帰り、「あの女はヤれるよ」と言われてついていき、うまくコトに成功したものの、その後さまざまな災難が・・・。そんな話はバブル時代の1980年代のあらゆるキャバクラ店であったが、休日に動物園でデートした帰りにキャバ嬢が自宅に誘い込み、自分から裸になっておきながら、コトが終わった後に結婚指輪を見てこんなケンカに・・・。もちろん、本作をそういう俗っぽい見方で鑑賞してはダメだが、表面上のストーリーをわかりやすく解説すればそういうものだ。
しかし、実はこんな異質なシチュエーションと異質な会話とケンカ、そしてその結末の中に、なんとも異質な人間の本性に迫っていくヒントがあるからそれに注目!それを若い名女優蒼井優が体当たりで演じ、名俳優オダギリジョーが身体ごと受けとめているので、本作ではそんなヒロインの超異質性と超異質な展開に注目!
<離婚の原因は?この父親の言い分はきつい!>
本作のプロダクションノートによると、本作はもともと映画化しにくい佐藤泰志の原作『オーバー・フェンス』を元にしたうえ、さらに佐藤泰志の別の短編小説『黄金の服』の女性をヒロインにして話を盛り上げようとしたから、よけい難しい映画化になったらしい。それをうまくまとめた(?)のはさすが山下敦弘監督の力量だが、聡がこだわるように、白岩はなぜ離婚したのに今なお結婚指輪をしているの?そしてまた、白岩がバツイチになった離婚原因は?そこらあたりが本作は複雑だし、何せ当の本人がまともに説明していないからわかりにくい。
スクリーン上では、別れた妻の父親から送られてきた手紙に「これしきのことで娘を実家に帰して寄こす君の無責任で冷たい仕打ちには腹も立ち、娘ももうそちらに帰す気はまったくありません」「娘はまだ若く、失敗は失敗として再出発の方法を捜してやりたく思っておりますので今後のことは、一切口出し無用に願います。子供については、一応、君は父親だが、会わせる気はなく、もし異論があるならば、法的に異議を申し立てるよう願います」「今後、いかなる音信も不要で、直接連絡を取るようなことはしないでいただきたい」と書かれているのを黙って一人で読む白岩の姿が映し出される。
アパートの中は殺風景で、自転車で通う職業訓練所からの帰りにコンビニ弁当とビール2缶を買って帰るのが白岩の習慣らしいが、ホントにこんな生活でいいの?団塊世代の人間でも、私のような前向きな人間(?)はそう考えてしまうが、佐藤泰志のような後ろ向き(?)の屈折した人間は、こんな生活の中で常に自分と向き合っているわけだ。
<妻との再会シーンにアレレ・・・?さて真相は?>
前述した聡との痴話ゲンカ(?)の中で、少しだけ離婚と子供についての白岩の心境が吐露されるが、それはほんの一部だけだ。本作にはその後白岩の別れた妻・尾形洋子(優香)が登場し、喫茶店の中で親しく語り合った上、「今後も連絡を取り合いましょう」と話しているシーンまで登場するからアレレ・・・。これでは、妻の父親の言い分とは大違いでは・・・?さらに、スクリーン上で見る洋子はいかにも元気そうだから、その姿を見ている限り、前述した父親の手紙とは実態が大きく違っているようだが、さて真相は?
もっとも、今はここまで元気になっている白岩の元妻洋子が、離婚当時は精神錯乱状態にも似たひどい落ち込みようだったとすれば、洋子をそうさせた原因はすべて白岩にあったのかも・・・?しかし、白岩は聡に放った言葉(弁解?)は、「殴ってもないし、家にもちゃんと帰ってたろッ あれ以上なにやればよかったんだよ!俺がどんだけ我慢してたか知ってんのかよ?なんにも知らないくせに言いたい事だけ言ってんな!」というものだから、弁護士の私には白岩の言い分にも妥当性があると考えられる。もちろん、真相は誰にもわからないだろうが、なるほど小説家・佐藤泰志の分析は鋭く、かつ深いものがあると感心!
<タイトルの意味は?この映画は前向き?>
2016年5月14日に観た『オマールの壁』(13年)は、イスラエルとパレスチナを隔てる壁を乗り越えて、主人公のオマールが恋をする物語と思っていたが、実はそれ以上の深みがあった。私は『オーバー・フェンス』というタイトルを見て、本作もそれと同じように、白岩がとじこめられた世界から別の世界へ飛び出していく物語だと勝手に想像していた。しかし、本作のクライマックスがソフトボールに設定されていることが見えてくると、そうではないことが少しずつわかってくる。つまり、オーバー・フェンスとは、計756本のホームランを打って「世界のホームラン王」になった王貞治のホームランのように、文字通り、白岩がソフトボール大会で放ったホームラン(=オーバー・フェンス)のことなのだ。
白岩はさまざまな紆余曲折を経て恋人になった(?)聡に対して、「月末にソフトの大会があるんだけど来ない?」と誘い、「・・・行く」と返事をもらっていた。また、函館公園のこどもの国でデートした時は、「ソフトの大会、今度の日曜だから」「聡のためにホームラン打つからさ」と語っていた。さらに、アパートの前の庭でビニール傘をバットに見立ててバッティング練習をしていたから、「ホームランを打つ」という約束が本気だったことがわかる。しかして、ソフトボール大会の日、白岩が属する建築科Bコースチームは整備科Aコースチームに大負けしていたが、聡はなかなか会場に現れなかった。しかし、試合が終わりに近づく中、チャンスで打順が回ってきた白岩の目の先に、赤い車に乗った聡の姿が・・・。そして、その姿を見た後、2ストライクと追い込まれていた白岩が放った打球とは・・・?
41歳で自殺してしまった佐藤泰志の小説は暗く、息苦しいものが多い。『そこのみにて光輝く』もそうだった。しかし、本作は例外的に前向きな映画かも?このラストを見るとそう思ってしまう。また、「オーバー・フェンス」というタイトルは、フェンスを超えてホームランになった打球だけではなく、この時既に結婚指輪を外していた白岩も、それまでの閉ざされた世界からフェンスを越えて新たな世界に飛躍したように思えたが、さて・・・。もちろん、そこには聡も同行しているはずだが、それってあまりにも前向きな私流の解釈になりすぎ・・・?
<嫌煙権運動の目からみれば本作は・・・?>
本作は冒頭のシーンをはじめとして、職業訓練校の休憩室で男たちが煙草を吸うシーンがやたら多い。もちろん、キャバクラ店でも、店に入るとすぐに煙草に火を付けている。それは、本作の時代が1980年代だということを考えれば仕方ないが、長年嫌煙権運動を続け、『禁煙ジャーナル』を発行している私の友人の渡辺文学氏らの目から見れば、それは大問題らしい。タバコ問題首都圏協議会の代表でもある彼は、『「タバコやめてネ」コンテスト』を行っているが、そこでは、「無煙映画大賞作品賞」等以外に、「汚れた灰皿賞(モクモク賞)」も選んでいる。そんな視点で本作を見れば、本作が少なくとも「汚れた灰皿賞」候補に選ばれることは確実だ。
しかし、私がいつも思うのは、煙草を吸うシーンが多いか少ないかは、作品の良し悪しとは全く関係がないということ。本作が描く「はみ出し者の群像劇」には、煙草は必需品。なぜなら、不健康な男たちには、不健康な煙草がよく似合うからだ。もちろん、私自身は健康のため30年以上前に煙草を止めているが、主人公の白岩をはじめとした本作の登場人物たちが煙草を吸うのを制限する権利は、嫌煙運動のリーダーたる渡辺文学氏たちにもないはずだ。
2016(平成28)年9月27日記