我愛你(ウォ・アイ・ニー)(中国映画・2003年) |
<東映試写室>
2006年6月7日鑑賞
2006年6月8日記
中国第六世代監督の旗手、張元(チャン・ユアン)が描く「ドキュドラマ」のテーマは、犬も喰わないはずの夫婦ゲンカ。中国四大美女の1人徐静蕾(シュー・ジンレイ)が夫に対してヒステリックにわめく姿はあまり観たくないが、彼女がそうなったのにはある深い理由が・・・?わが身、わが夫婦を省みながら、スクリーン上でくり広げられる「夫婦ゲンカ」の根の深さ、そして「我愛你」という言葉にトコトンこだわるオンナ心をじっくりと研究してみたいもの・・・?
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監督・共同脚本・製作:張元(チャン・ユアン)
原作・共同脚本:王朔(ワン・ショー)
主題歌:王菲(フェイ・ウォン)
シャオジュー/徐静蕾(シュー・ジンレイ)
ワン・イー/佟大為(トン・ダウェイ)
ムービーアイ、レントラック配給・2003年・中国映画・98分
<「ドキュドラマ」は張元監督の創設・・・?>
『キネマ旬報』3月下旬号は、「キネ旬チョイス」で『我愛你(ウォ・アイ・ニー)』を取りあげている(64頁参照)。それによると、『緑茶』(02年)の評論でも少し紹介したとおり、中国第六世代監督の旗手の1人である張元(チャン・ユアン)は、ドキュメンタリー作品で高く評価されてきたが、「『我愛你(ウォ・アイ・ニー)』はドキュメンタリーでも、ドラマでもない”ドキュドラマ”の進化形として、チャン・ユアン監督が創作したひとつのジャンルと言える」とのこと。
もっとも、ドキュメンタリー色が強いというのは、主人公のシャオジュー(徐静蕾/シュー・ジンレイ)とワン・イー(佟大為/トン・ダウェイ)による口論(夫婦ゲンカ)を脚本や監督の指示どおりにやるのではなく、監督はその場の状況設定だけをして、俳優たちの感情が高まるのを待ち、口論をすべて2人の俳優のアドリブにまかせているため。しかし、私に言わせれば有名な俳優が出演して「演技」をしている以上、それが脚本どおりなのか、それともアドリブなのかは観客にはわかるはずがないもの。したがって、ドキュメンタリー色があるといっても、それはホンのわずかで、基本的には普通のドラマと言ってもいいのでは・・・?
<「I love you」をめぐるアメリカ人VS日本人、そして中国人は?>
アメリカ人は、いつでも、どこでも気楽に「I love you」と口に出すことができる民族(?)だが、これは「I love you」が「おはよう」「ご機嫌よう」「バイバイ」などのあいさつと同じように位置づけられているため・・・?そしてそれは、いつでも、どこでも、平気でハグしたり、キスしたりするのと同じ・・・?
ところが、はにかみやで見栄っ張りの日本民族、特に日本男児は「愛してるよ」という言葉を吐くのが苦手。とりわけ、結婚してしまった後は、「釣った魚にはエサをやらない」を実践するかのように、一切そのような甘い言葉を口にしないパターンが多いもの・・・?
これに対して中国では、昔は日本と同じ、あるいは日本以上に「我愛你」という言葉が日常茶飯事のように飛び交うことはありえなかったし、恋人同士や夫婦同士でもほとんど使わなかったもの。しかし、1980年代の改革開放政策以降(?)、とりわけ、新たに生まれた富裕層や欧米化した若者たちの間では、あいさつのように「我愛你」と言うことに抵抗感がなくなった・・・?この映画でシャオジューが見せる「男との結婚への方程式(?)」を観ていると、つくづくそう思ってしまうが・・・?
<シャオジューはなぜ結婚願望・・・?>
男でも女でも「結婚願望」はあるはずだが、特にそれが強い一部の女性がいるもの・・・?この映画の主人公シャオジューは看護婦をしているが、どうもその一部の女性に属するよう・・・?映画の冒頭、シャオジューが恋人と2人だけの甘い語らいの中で、「よし、結婚しよう!」と宣言するシーンが登場するが、そこで女が男に迫るいくつかの「愛についての確認事項」は面白く、大いに参考になるもの。もっとも、これはあくまで中国流で、日本流とはかなり違うだろうが・・・。
そして、張元監督の才能がキラリと輝くのは、この2人がそのままスンナリ結婚するのではなく、シャオジューが結婚する相手が、その男の友人であるワン・イーになること。その事情は映画を観て確認してもらいたいが、何とシャオジューがこのワン・イーに対して迫る「愛についての確認事項」は、前の恋人に対するものと全く同じ。こんなにまでして、なぜシャオジューは結婚したいのだろうか・・・?また、前の男に語ったことと全く同じことを次の男に語りかけることに、シャオジューは何の抵抗感もないだろうか・・・?男の私にはその辺がサッパリ・・・?
<テーマは「夫婦ゲンカ」>
数々の優れたドキュメンタリー映画をつくり、外国で数々の賞を受賞しながら、中国では長い間、反体制監督と見なされて上映禁止処分を受けていた張元監督が、この映画でテーマとしたのは、若い新婚カップルの夫婦ゲンカ。夫婦ゲンカを描くだけなら、「体制」も「反体制」もないだろうということか・・・?
夫婦ゲンカはどこにでもあるが、普通それは「犬も喰わない」もので、第三者としてそれを見たり聞いたりしても全く意味のないもの。下手に介入すれば、かえって恨まれたりするだけで、要するに勝手にやらせておけばいいものの代表が夫婦ゲンカ・・・。
他方、火事とケンカは派手なほど面白いという面もあり、無責任な立場で夫婦ゲンカを覗き見ることには一種の快感も・・・。さて、いかにも幸せそうだった新婚生活の中、一体どんな夫婦ゲンカが始まり、どのようにエスカレートしていくのだろうか・・・?大いに楽しみ・・・?
<こんな女、ホンマにかなわんなあ・・・>
小泉総理総裁の9月退陣が決定的となっている今、靖国参拝問題をめぐる日中関係は最悪状態。靖国問題やガス田問題に象徴されるように、日中の外交交渉(?)を見ていると、まるで大人と子供。つまり、中国の「したたか外交」に対する日本の「幼児対応」の構図がくっきりと・・・。
このことは、政治上のテーマに限らず、あらゆる分野で同じ。つまり、日本人が中国人と「交渉」する場合、「約束は守るべき」「ウソをついてはダメ」などと当然のことを当然のように考え、ワンパターンの話し方しかできないのに対し、中国人は「約束が守れなかったのはあなたのせい」「ウソも方便で時には有効」と考え、手持ちカードをたくさん持っているため、とても太刀打ちできないということ。このことは、私もさまざまな領域で、さまざまな体験をする中でしっかりと理解させられてきたもの・・・?
そもそもケンカには、当事者双方ともに何らかの言い分があるもの。しかして、ワン・イーとシャオジューの新婚カップルの夫婦ゲンカにおける「主張」を聞いていると、ワン・イーの言うことは一応理解できても、シャオジューの言うことは・・・?そして、かなわないのがそのヒステリック性。泣いたり、わめいたり、飛び出していったり、そして映画の後半には、何と寝ているワン・イーを縛りつけたり、喉元に包丁を突きつけたり・・・。こんな女、ホンマにかなわんなあ・・・。
<徐静蕾の熱演に注目!>
この映画の注目点は、張元監督が「俳優として一番興味がある」「一緒に仕事をして改めてすばらしい女優さんであることを確信しました」と「キネ旬チョイス」(65頁参照)で語っている、中国四大女優の1人、徐静蕾の熱演。『最後の恋、初めての恋』(03年)で、私はその美しさに目を見張った(『シネマルーム5』325頁参照)が、それはこの映画でも同じ。もっとキレイな格好をすればもっとキレイなのだが、この映画ではごく普通の庶民的な服装ばかりだったのは少し残念・・・。
もっとも、この映画はシャオジューの美しさが「売り」ではなく、シャオジューのエキセントリックさと激しさが「売り」。ちなみに、エキセントリックという形容詞を私が知ったのは、吉行淳之介の『砂の上の植物群』という小説と、それを中平康監督が、稲野和子と西尾三枝子を姉妹役で起用した同名の映画(64年)によるもの。美しい顔にもかかわらず、夫婦ゲンカがエスカレートしていく中、少しずつ露呈してくるシャオジューの本性はまさにエキセントリックそのもの。
このシャオジューとワン・イーとの夫婦ゲンカの迫力がこの映画のポイントだが、それを脚本にもとづいてやるのではなく、すべてアドリブでやらせたというのが、ドキュメンタリー監督としての張元の面目躍如たるもの・・・。いずれにしても、こんな美女が、こんなにわめき散らす熱演に要注目!
<張元監督が『我愛你』で描きたかったものは・・・?>
中国の第五世代監督として、1980年代に中国映画をはじめて全世界に紹介し、チャイニーズ・ニューウェーブと称された、張藝謀(チャン・イーモウ)監督と陳凱歌(チェン・カイコー)監督は、今や世界的巨匠になってしまった感が強いため、今後の創作活動には一定の限界も・・・?
それに対比して、私が今、韓国映画で最も注目している監督は、『サマリア』(04年)などのキム・ギドク監督と『親切なクムジャさん』(05年)などのパク・チャヌク監督。そして中国の第六世代監督では、この『我愛你』と『緑茶』の張元監督と、『ココシリ』(04年)の陸川(ルー・チューアン)監督。
ちなみに、『キネマ旬報』5月上旬号の塩田時敏氏の『緑茶』評では、「チャン・ユアン監督は上映禁止処分が解け中国政府に認められるようになって以降、何やらつまらなくなったように思われる」と酷評していたが、私にはそうは思えず、面白かった。
『緑茶』はともかく、この『我愛你』で張元監督が描きたかったのは、やはり結婚願望を持った1人の女性の人間性とその生きザマ。彼女はなぜこのように執拗に愛の確認を求めるのか?それは何か心の奥に秘められた不安の裏返しではないのか・・・?映画はラスト近くになって、少しずつそんな張元監督なりの「答え」を観客に提示していく。しかし、必ずしもそれが正解かどうかはわからないもの・・・。観客は1人1人、シャオジューの気持に自分を同化させながら考えていけばいいものだ、と私は思う。弁護士として常日頃、人間の言葉を聞きながら人間描写・人物評価をしていかなければならない私としては、こんな映画はすごく参考になるうえ、久しぶりに徐静蕾に出会えて(?)最高・・・。
2006(平成18)年6月8日記