たかが世界の終わり(カナダ、フランス合作・2016年) |
<テアトル梅田>
2017年2月16日鑑賞
2017年2月17日記
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監督・製作・脚本・編集:グザヴィエ・ドラン
ルイ(人気作家)/ギャスパー・ウリエル
シュザンヌ(ルイの妹)/レア・セドゥ
カトリーヌ(アントワーヌの妻)/マリオン・コティヤール
アントワーヌ(ルイの兄)/ヴァンサン・カッセル
マルティーヌ(ルイの母親)/ナタリー・バイ
2016年・カナダ、フランス合作映画・99分
配給/ギャガ
◆前作『Mommy/マミー』(14年)(『シネマルーム36』256頁参照)で2014年カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞し、本作で2016年カンヌ国際映画祭グランプリを受賞した、カナダの若き天才グザヴィエ・ドラン監督の下に、『エディット・ピアフ 愛の讃歌』(07年)のマリオン・コティヤール(『シネマルーム16』88頁参照)と『アデル、ブルーは熱い色』(13年)のレア・セドゥ(『シネマルーム32』96頁参照)という2人のフランスの名花が、さらに近時『ジェイソン・ボーン』(16年)でマット・デイモンと共演したフランスの演技派ヴァンサン・カッセル等が集結!
もっとも、本作の主人公である自らの死を告げるため12年ぶりに家族の下に帰郷した34歳の作家・ルイを演じるのは、私が今回はじめて見るフランスの新星ギャスパー・ウリエルだ。
◆本作はグザヴィエ・ドランが製作・監督・脚本・編集をしているが、パンフレットやネット情報によると撮影にもかなり口を出しているらしく、クローズアップの多用と焦点を一点に集中する撮影手法が目立っている。その結果、本作はもともとジャン=リュック・ラガルスの原作(舞台劇)『まさに世界の終わり』を映画化した家族の「会話劇」だから、そのリアリティが真に迫ってくる。
もっとも、99分間ずっと手を変え品を変えて(場所を変え、登場人物を変えて)深刻な会話劇が続いていくので、鑑賞中はもちろん鑑賞後にどっと疲れが出てくるが、すごい映画であることはまちがいない。たしかにグザヴィエ・ドラン監督は「映画界に新しい息吹を吹き込む27歳」だと思うが、私はこんなクソ難しい映画の評論を書くのはちょっと苦手・・・。
◆『肝っ玉かあさん』(68~72年)、『時間ですよ』(70年、71年、73年)、『寺内貫太郎一家』(74年)、『渡る世間は鬼ばかり』(90~11年)等々の日本のホームドラマは「お茶の間」を舞台とした家族の会話劇がメインで、そこには常にほんわかとした家族の温かみがある。また『男はつらいよ』シリーズも葛飾柴又にある「とらや」の「お茶の間」は毎回家族の団欒と憩いの場だ。ところが、本作に見る食卓は母親のマルティーヌ(ナタリー・バイ)が心をこめてたくさんの料理を準備したにもかかわらず、全然家族の団欒、憩いの場にならないから悲しい限り。それは一体なぜ?
◆本作は一人でタクシーに乗り込んだルイが自宅に向かうシークエンスから始まるが、その撮影手法を見ても、それがグザヴィエ・ドラン監督独特のものであることがよくわかる。その中で、ルイが今帰郷しているのは自分の死を告げるためであることが明確に示されるが、さて彼はどんなタイミングでその話を家族に切り出すの?
ルイの帰りを待つのは、母親のマルティーヌ、兄のアントワーヌ(ヴァンサン・カッセル)、兄嫁のカトリーヌ(マリオン・コティヤール)、妹のシュザンヌ(レア・セドゥ)だが、カトリーヌがルイと会うのは今回がはじめて。また、シュザンヌも幼い時にルイが出ていったので事実上ルイに会うのは今回がはじめて。そのため、普段はしない化粧をしてルイの帰りを待っていたらしい。
こんな場合、普通は事前の電話で「何時に空港(駅)に着くから迎えに来て」となるものだが、ルイは事前にそんな連絡をせず、いきなり(勝手に)高価な料金のかかるタクシーで自宅に乗りつけてきたから、まずは再会のあいさつもそこそこに、そこから兄弟姉妹の口ゲンカが始まることに・・・。
◆1月29日に観た『TOMORROW パーマネントライフを探して』(15年)は地球温暖化を心配したフランスの美人女優メラニー・ロランが一念発起してその「傾向と対策」をドキュメンタリー映画にした面白いものだった。同作は「世界の終わり」は大変なことだという問題意識に基づいていたが、本作のタイトルを見ると、ルイがまもなく死ぬこととそれを家族にどう伝えるかということの方が「世界の終わり」より重要な問題らしい。そう考えているからこそ、「世界の終わり」に「たかが」という形容詞をつけたわけだ。
ブレンダ・リーがカバーした「The End of the World」は1964年のアルバムに収録したものだから私は高校時代にその曲を覚えたが、恐いタイトルとは裏腹に美しい曲で、私が英語で歌うカラオケバージョンのNo.1曲になっている。同曲でも「世界の終わり」を「たかが」とは捉えていないはずだが、カンヌ国際映画祭がグランプリを与えた本作は、なぜ「世界の終わり」に「たかが」という形容詞をつけているの?
そのココロはきっと、家族や兄弟姉妹の愛の方がより大きいということだろうが・・・。
◆グザヴィエ・ドラン監督の下に結集した一流俳優たちは本作で、とにかくよくしゃべる「陽型」と、口数は少なく表情で演技をする「陰型」に分かれるのでそれに注目!作家のルイは書くのが商売だからあまりしゃべらないのは仕方ないが、そもそもそれが本作に見る家族の口論といがみ合いの原因になっていることを、どこまで自覚しているの?また、3人の兄弟妹でも男同士は本音で話し合うことが多いから、ルイとアントワーヌが車の中で2人だけで話し合うシーン(といってもほとんどはアントワーヌ一人がルイに怒っている)は圧巻!さらに、一番上の兄と一番下の妹はよほど仲が良いか悪いかが極端に分かれることが多いが、本作に見るアントワーヌとシュザンヌのバトルはすごいのでそれに注目!
それに対して、アントワーヌの嫁のカトリーヌが一歩引いているのは当然だし、ある意味仕方ないが、これだけ実の兄弟妹間でモメている場合は、もう少し「口先介入」してもいいのでは・・・?他方、母親のマルティーヌが子供たちの激しい口ゲンカを平然と見守っているのは意外だが、折に触れてマルティーヌが下す決断(?)はそれなりに効き目があるようだからそれが面白い。家族なんだから何でもハラを割って話しをすることができる。もちろんそれが理想だが、さて現実は・・・?
若き天才グザヴィエ・ドランが一日だけ集まった家族に焦点をあてて描いた本作の問題提起と会話劇のすばらしさはよくわかるが、あえてくり返せば、とにかく疲れた・・・。
2017(平成29)年2月17日記