揺れる大地 デジタル修復版(イタリア映画・1948年) |
<シネ・リーブル梅田>
2017年2月18日鑑賞
2017年2月24日記
第二次世界大戦後の1948年に、ルキーノ・ヴィスコンティ監督がイタリア共産党の資金を受けて完成させた160分の「階級闘争映画」を鑑賞!「ネオリアリズモ」の徹底ぶりに驚くとともに、仲買人への抵抗=銀行融資による独立=階級闘争の視点をしっかり勉強することに。
もっとも、「赤い侯爵」と呼ばれたヴィスコンティ監督だから、階級闘争の視点は小林多喜二の『蟹工船』ほど徹底せず、やはり人間性や家族そして恋模様を描くことに興味があるようだ。そして、それが私には好印象。貴族趣味丸出しの大作『山猫』(63年)と全く違う壮大な叙事詩に感激!拍手!
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監督・原案・脚本:ルキーノ・ヴィスコンティ
ウントーニ(長男)/アントニオ・アルチディアコノ
コーラ(次男)/ジュゼッペ・アルチディアコノ
ヴァンニ(三男)/アントニーノ・ミカーレ
アルフィオ(四男)/サルヴァトーレ・ヴィカーリ
祖父/ジョヴァンニ・グレコ
マーラ(長女)/ネッルッチャ・ジャンモーナ
ルチア(次女)/アニェーゼ・ジャンモーナ
母親/マリア・ミカーレ
リーア(三女)/コンチェッティーナ・ミラベッラ
女の子の赤ん坊/ジュゼッピーナ・ヴィカーリ
ロレンツォ/ロレンツォ・ヴァラストロ
ドン・サルヴァトーレ(巡査部長)/ロザリオ・ガルバーニョ
ニコラ(左官、マーラの恋人)/ニコラ・カストリーナ
ネッダ(ウントーニの恋人)/ローザ・コンスタンツォ
ナレーター/マリオ・ピス
ローザ(少女)/ローザ・カタラーノ
1948年・イタリア映画・160分
配給/アーク・フィルムズ=スターキャット
<イタリア共産党の資金で、壮大な「3部作」構想を!>
イタリアの巨匠ルキーノ・ヴィスコンティ監督の「ネオレアリズモの頂点を極めた」と言われている1948年の160分の大作を鑑賞!ヴィスコンティ監督は貴族出身だが、第二次世界大戦末期にはイタリア国内でのレジスタンス活動のために投獄され、辛くも一命をとりとめた体験を持つらしい。そして、1942年の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』に続いて「ネオリアリズモ」を追及した彼は、イタリア共産党から多額(300万リラ)の出資を受けて本作の撮影に入ったが、まだ4分の1も撮り終えない時点で資金は底を尽き、以降は資金調達に苦労しながら本作を完成させたそうだ。
「赤い侯爵」と呼ばれた、そんなヴィスコンティ監督のテーマは、何と「シチリアのプロレタリアよ、団結せよ」ということにあり、彼の構想は①漁民たちの状態、②農地問題、③鉱夫の失業というシチリア経済の3つの問題を「3部作」として描くものだったらしい。しかし、結局資金難のため(?)、漁民たちの話しを扱った第1部(つまり本作)だけで挫折し、「3部作」の構想は実現しなかったそうだ。
<「ネオリアリズモ」をここまで徹底!>
ヴィスコンティ監督の処女作となった1942年の『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は「ネオリアリズモ」の出発点と位置付けられているが、同作は不倫関係に堕ちた男女のむせかえるような愛欲の行方をテーマにしたものだったから、今日でも同じようなテーマの映画が次々と製作されている。しかし、本作はより「ネオリアリズモ」を徹底させた結果、出演者に俳優を一切使わず、すべてシチリアのカターニャ近郊の漁村アート・トレッツァの漁民たちを起用し、しかも標準語のイタリア語ではなくシチリアの方言をそのまましゃべらせるというリアリズム手法を使っている。そのため、ヴィスコンティ監督が本作で採用したような「ネオリアリズモ」の手法は本作一本だけに限定されるもので、後に生まれてくるはずがない。
ちなみに、王兵(ワン・ビン)監督の中国映画『鉄西区』(03年)(『シネマルーム5』369頁参照)は没落する鉄鋼業をテーマにしたものだが、それはあくまでドキュメンタリー映画だった。それに対して、本作はドキュメンタリー映画かと錯覚するようなリアリズム的手法をとっているが、ドキュメンタリー映画ではなく、その前半は魚の仲買人に対する主人公ウントーニ(アントニオ・アルチディアコノ)たちの抵抗(階級闘争)を、後半は兄弟が10人もいるウントーニたち家族の崩壊を描いていく劇映画だ。
<階級闘争の視点の強さは?小林多喜二と比べると?>
漁民や漁をテーマにした「階級闘争」と言えば、日本では小林多喜二のプロレタリア小説として有名な『蟹工船』を思い出す。これは近年SABU監督が映画化したが、その出来はイマイチだった(『シネマルーム23』未掲載)。もっとも、『蟹工船』は集団的、組織的な漁民(労働者)の抵抗だったのに対し、本作でウントーニが見せる仲買人への抵抗はあくまで個人レベルで、階級闘争には至っていない。イタリア共産党からの出資を受けたのなら、本来ウントーニ個人の問題意識だけではなく、階級闘争のレベルに問題点をアップして描くのが筋だ。ところが、『蟹工船』を書いた小林多喜二は作家とはいえ、警察の拷問で死亡してしまうほどの筋金入りの日本共産党員だったのに比べ、ヴィスコンティ監督は筋金入りのイタリア共産党員ではなく、レジスタンスの闘士レベル、そしてまた所詮「赤い侯爵」レベルだったためそんな描き方になったのかも・・・?
また、視点を変えて考えればいくらネオリアリズモを追及するとはいえ、映画監督としては階級闘争よりも、その中で人間がいかに生きていくのか?という点に興味を持っていたはずだ。「シチリアを舞台とした壮大な叙事詩」という意味では、本作は後の『山猫』(63年)(『シネマルーム38』未掲載)と相通ずるものがあるが、『山猫』はヴィスコンティ監督の貴族趣味がモロに出た映画。それに対して、本作は「赤い侯爵」と言われたヴィスコンティ監督が、戦後すぐに自分の社会的使命を自覚しながら、「漁民の抵抗」の姿をウントーニという主人公を通じて描いたものと理解すべきだろう。
<横暴な仲買人への抵抗は独立!銀行融資は?>
安倍政権の「三本の矢」の第一矢は、金融緩和だった。また、日銀が現在実行している異例の「ゼロ金利政策」は金融緩和の極限のもの・・・。しかして、仲買人の横暴に抵抗するウントーニが独立した漁師として生きていくためには元手(資本)が必要だが、ウントーニはそれをどうやって工面するの?
それが本作前半のテーマになるが、イタリアではこの時代から銀行に自宅を担保に入れて融資してもらう制度があったようだからすごい。日本の住宅ローンは戦後の高度経済成長政策の中で国土の総合開発と、マイホームの夢が広がったことによって誕生したが、ウントーニの場合は今で言う「事業資金」の融資だから、その査定が厳格だったのは仕方ない。苦労の末に銀行融資を受けることに成功し、自分の漁船と漁具を持って漁に出るようになったウントーニは鰯の大漁に恵まれ、塩漬けの鰯を大量に蓄えることに成功したから、万々歳。ウントーニの独自路線は村人たちの羨望の的になった。
ところがある日、嵐の中を無理して漁に出たため、命だけは助かったものの漁船は壊れ、漁具も失い、一家はたちまち失業者と化することに。そのため塩漬けにした鰯の樽は二束三文で仲買人に買い叩かれ、自宅は銀行に差し押さえられてしまったから、万事休す。さあ、ウントーニたち一家はこれからどうやって生きていくの?
<恋模様は?兄弟姉妹は?家族は?>
本作はシチリア島の小さな漁村を舞台とし、漁に焦点をあてて、ウントーニという漁師が漁場を独占的に支配する仲買人に対して抵抗する姿(=階級闘争)を描くもの。したがって、主たるストーリーと焦点がその展開になるのは当然だが、ネオリアリズモを徹底させる以上、若者たちの恋模様も描かなければならないのも当然だ。
ウントーニを長男としたヴァラストロ家の家族は、漁で死亡した父親に代わってヴァラストロ家を率いてきた祖父(ジョヴァンニ・グレコ)と母親(マリア・ミカーレ)の他、次男のコーラ(ジュゼッペ・アルチディアコノ)、三男のヴァンニ(アントニーノ・ミカーレ)、四男のアルフィオ(サルヴァトーレ・ヴィカーリ)、長女のマーラ(ネッルッチャ・ジャンモーナ)、次女のルチア(アニェーゼ・ジャンモーナ)、三女のリーア(コンチェッティーナ・ミラベッラ)等の大家族だ。昔からの村の漁師の生き方や漁のやり方に何の疑問も持たず、仲買人に甘い汁を吸われても仕方ないと割り切っている祖父は、長男のウントーニの仲買人への抵抗を心配したが、ウントーニが銀行融資を受けて独立する決断を示すと、それに任せたのは立派。さらに、次男のコーラをはじめとする弟や妹たちもウントーニの決断に従い、一家が長男のウントーニを中心として団結したのも立派だ。その努力の甲斐あって、ヴァラストロ家は周りもうらやむ「金持ち」になったわけだが、そうするとウントーニをはじめとする、弟や妹たちそれぞれの恋模様は?
ウントーニには恋人のネッダ(ローザ・コンスタンツォ)がおり、長女のマーラには思いを寄せてくれている貧乏な左官のニコラ(ニコラ・カストリーナ)がいたが、貧乏だったヴァラストロ家が急に金持ちになると、それらの恋模様にはどんな変化が?さらに、あの日の嵐によってヴァラストロ家が急速に没落していくと、ウントーニにはネッダが去ってしまうという悲劇が待ち受けていたうえ、次女のルチアは巡査部長のドン・サルヴァトーレ(ロザリオ・ガルバーニョ)の愛人にならざるをえなくなったから悲惨だ。さらに、失意のウントーニが酒に溺れるばかりで何の立て直し策も見いだせない状況になると、それまでウントーニの片腕として働いていた次男のコーラは何やら怪しげな密輸商人として生きていく途を選ぶことに。
このように、仲買人への抵抗から出発したウントーニの「銀行融資+独立路線」が崩壊すると、ヴァラストロ家の男女たちの恋模様にそれぞれ異変が起きるとともに家族はバラバラとなり、事実上崩壊してしまうことに・・・。
<でも、命さえあれば!労働力さえあれば!>
『蟹工船』を書いた小林多喜二は、小説を書きながら日本共産党員として活動する中で「治安維持法違反」によって逮捕され、拷問の末に死亡した。しかし、ウントーニはイタリア共産党員として非合法的な党の活動に従事したわけではなく、一介の漁師として仲買人に抵抗しただけ。したがって、警察に逮捕されるという問題が発生しなかったのは当然だ。しかし、今やウントーニは家も仕事も失い家族もバラバラになってしまったが、それでも生きていかなければならないはず。それまでずっとウントーニの片腕として働いていた次男のコーラは密輸商人となってシチリアを出ていったが、ウントーニの下にはまだ幼い三男のヴァンニと四男のアルフィオがいたから、命さえあれば、労働力さえあれば、何とかなるのでは?
というわけで、全編で160の長尺になっている本作のラストでは、仲買人の新しい船の進水式の日に仲買人たちからさんざんバカにされながら、人手に渡ったヴァラストロ家の船を見に行ったウントーニが、少女のローザ(ローザ・カタラーノ)に励まされる風景が描かれる。もちろん、この少女にウントーニの窮状を救い出せる能力があるわけではないが、仲買人はもとよりすべての村人から総スカンを食ってしまっているウントーニにとっては、この少女の励ましの言葉が何よりの生きる力になったらしい。もちろん、仲買人への抵抗から独立した漁師を目指したウントーニが、再び仲買人のシステムの中で働くというのはこれ以上ない屈辱。しかし、ローザの励ましを受けたウントーニにとってはもはやそれは屈辱ではなく、ヴァラストロ家のみんなが生きていくための必然の途だと考えることができるようになったらしい。
その結果、ウントーニはふっきれた表情で将来への決意を秘めて、三男ヴァンニ、四男アルフィオを連れて仲買人の下を訪れ、彼らの漁船に乗り込む契約を結ぶことに。そこでは、ヴァンニの賃金は2分の1、アルフィオの賃金は4分の1という不当な仕打ちを受けたがそれもやむなし。そして、本作ラストでは昔と同じように仲買人の漁船に乗り込み、みんなと一緒に力強く櫓を漕ぐウントーニの姿が描かれて映画が終わることになる。
ウントーニの仲買人への抵抗(階級闘争)は失敗に終わったが、命さえあれば!労働力さえあれば!本作がそんな力強いラストになったのは、きっとヴィスコンティ監督の第2部、第3部への意欲があったためだろうから、それが完成しなかったのは残念だ。それはあたかも、五味川純平の『戦争と人間』全18巻の長編小説を映画化した山本薩夫監督が、『戦争と人間 第一部 運命の序曲』(70年)、『戦争と人間 第二部 愛と悲しみの山河』(71年)、『戦争と人間 完結篇』(73年)の3作で挫折してしまったのと同じだ。資金難と言われればやむをえないが、『戦争と人間』の続編や、ヴィスコンティ監督が構想した「3部作」の第2部、第3部を鑑賞することができないのは実に残念。でも、山本薩夫監督とヴィスコンティ監督のそこまでの頑張りには拍手!
2017(平成29)年2月24日記