素晴らしきかな、人生(アメリカ映画・2016年) |
<TOHOシネマズ西宮OS>
2017年2月26日鑑賞
2017年3月2日記
『メン・イン・ブラック』シリーズでの喜劇俳優のイメージが強いウィル・スミスが、大スターたちとの夢の共演の中で超シリアスな演技を!
人生は愛と時間と死。主人公のモットーは前向きだったが、彼は6歳の娘の死亡をきっかけに人生観を180度転換!そこから展開していく難解なストーリーを、あなたはどう理解?
原題と邦題の意味を対比させながら、本作の難解なテーマにしっかり切り込みたい。
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監督:デヴィッド・フランケル
ハワード(広告代理店の共同経営者)/ウィル・スミス
ホイット(広告代理店の共同経営者)/エドワード・ノートン
クレア(広告代理店の顧客担当重役)/ケイト・ウィンスレット
サイモン(広告代理店の顧問)/マイケル・ペーニャ
ブリジット(死を演じるベテラン劇団員)/ヘレン・ミレン
マデリン(グリーフ・カウンセラー)/ナオミ・ハリス
エイミー(愛を演じる劇団女優)/キーラ・ナイトレイ
ラフィ(時間を演じる若手劇団員)/ジェイコブ・ラティモア
2016年・アメリカ映画・97分
配給/ワーナー・ブラザース映画
<どこかで見たような邦題だが・・・?原題は?>
『素晴らしきかな、人生』という邦題を見て、『素晴らしき哉、人生!』(46年)というジェームズ・ステュアートが主演した昔の映画を思い出した人はかなりの映画通。私はテレビ放映で見ただけでそれほど強い印象はないが、同作は1946年の第19回アカデミー賞で作品賞を含めた5部門にノミネートされた名作で、黒澤明監督が雑誌『文芸春秋』で選んだ「黒澤明が選んだ100本の映画」のうちの一本にも入っているそうだ。他方、本作の原題は『Collateral Beauty』だが、これを見て思い出したのがアーノルド・シュワルツェネッガー主演の『コラテラル・ダメージ』(01年)(『シネマルーム2』110頁参照)。しかして、そもそもコラテラルって一体何?
これは担保、付随的な、二次的な、傍系の、という意味で、そこから派生的に「代償」「見返りの」という意味にも使われるそうだから、原題の「Collateral Beaty」とは「何かの代償として得られる美しさ」という意味だろうが、それでも、それって一体何?ちなみに、パンフレットには「不幸な出来事に付随して思いがけず生まれる素晴らしいこと、幸せなことという意。」と解説されているが、一体なぜそうなるの?
<人生は愛、時間、死!そのココロは?>
本作冒頭は、今年も立派な業績をあげたニューヨークにある広告代理店のパーティーで、経営者のハワード(ウィル・スミス)が共同経営者のホイット(エドワード・ノートン)に促されてスピーチするシーンから始まる。日本ではこんな場合形式的でわかりきったあいさつが多いが、ハワードのスピーチは「人は常に愛を渇望し、時間を惜しみ、死を恐れる。」「それを踏まえてアイデアを練る。」のが自分の公告づくりのモットーだという、自己の信念を披歴する力強くかつオリジナリティあふれるものだったから、社員から拍手喝采を受けたのは当然として、それを聞いた私もビックリ!いかに短く、いかにインパクトのあるスピーチをするかを、いつも心がけている私としては、このハワードのスピーチはちゃんと見習わなくちゃ・・・。
しかし、そんな力強いシーンから始まる本作の原題がなぜ『Collateral Beaty』で、邦題がなぜ『素晴らしきかな、人生』なの・・・?
<会社は天国から地獄へ!原因は?ハワードの対応は?>
ハワードとホイットが共同経営する広告代理店は、今年も立派な業績を挙げたとはいえ、顧問のサイモン(マイケル・ペーニャ)、顧客担当重役のクレア(ケイト・ウィンスレット)ら優秀な仲間たちと共に立ち上げた新興の零細企業にすぎないもの。日本でもかつてホリエモンこと堀江貴文に代表される新興IT企業が急成長を遂げたが、広告代理店では急成長、好業績と言ってもタカが知れているはずだ。
そんな私の予想どおり、それから3年後、ハワードの顔からは笑顔が消え、生気もなく、オフィスに現れても黙々とドミノを並べるだけの姿に変わり果てていた。仕事への情熱も枯れ果てていたために次々とクライアントが離れ、会社も倒産寸前に追い込まれていたから、アレレ・・・。ハワードは一体どうしたの?
その原因は、2年前に6歳の娘を病気で亡くしたこと。心配したホイットたちは様々なカウンセリングからあやしげな祈祷まで何でも受けさせて回復に手を尽くしたが、ハワードは今なお娘の死亡という現実を受け入れることができないままだった。私は、そんな軟弱な精神でよく起業できたものだと思ってしまうが、彼は今、自分が信条としていた「愛」「時間」「死」という3つの概念からひどい仕打ちを受けたと怒っているらしい。私にはなぜハワードがかつて熱く語っていた「愛、時間、死」という3つのキーワードに怒っているのかがイマイチよく理解できないが、彼が「愛」と「時間」と「死」に宛てた手紙を書き、届かないとわかっていながらそれを投函したところから本作の意外な物語が始まっていくことに・・・。
<会社の「買収話し」に役員らはどう対応?>
私はハワードのそんな行動も「そんな軟弱な!」と思ってしまうが、それ以上に大変なのはホイットやクレア、サイモンたち。折りしも、そんな時に会社の「買収話し」が転がりこんだため「売るなら今!」だが、それには筆頭株主たるハワードの同意とサインが不可欠だ。しかし、今やハワードはそんな重要な議題すら取締役会に取り上げないほど会社は機能不全状態だから、さあ、ホイットたちはどうするの?
そこで、ハワードの心情を理解したホイットはクレアとサイモンに、俳優を雇って「愛」と「時間」と「死」を名乗らせ、手紙の返答としてハワードに会いに行かせることを提案。その狙いは、うまくいけば彼をドン底から救うことができるし、もしそれができない場合でも、ハワードは心を病んでいるため、筆頭株主の資格がないことを証明することになり、それによってハワードの同意なしに会社の買収話しを進めることができるというものだ。たしかにホイットの狙いはわからないでもないが、そんな奇妙な計画を現実に実行に移すことができるの・・・?弁護士の目でみれば、これは明らかな会社の経営をめぐる主導権争い、権力争いだから、仮に順調に「証拠」がそろったとしても、ハワードはスンナリ取締役会での「「社長解任動議」に応じるの?
<愛、時間、死を演じる劇団員たちは?>
ホイットがクレアやサイモンの同意を得てそんな奇妙なミッションを依頼したのは、CMのオーディションで知り合った女優のエイミー(キーラ・ナイトレイ)と彼女が所属する劇団のベテラン劇団員のブリジット(ヘレン・ミレン)、そして若手劇団員のラフィ(ジェイコブ・ラティモア)の3人。しかして、本作中盤は、①「愛」を演じるエイミー、②「時間」を演じるラフィ、③「死」を演じるブリジットの3人が次々とハワードに接触し、ハワードの「反応」をビデオに収めていくシークエンスが展開していくので、それに注目!
さらに、アメリカには「身近な人との死別で悲嘆に暮れる人をグループワークなどを通じて支援する」グリーフ・カウンセラーという職業があるそうだが、本作でそのグリーフ・カウンセラー役として登場するのがマデリン(ナオミ・ハリス)。グループカウンセリングの会場で死亡した娘の名前を聞かれても言葉に詰まってしまうハワードを、マデリンは優しくいたわったが、さてハワードの「反応」は?
<大スターたちの夢の共演だが、それぞれ苦悩が・・・>
本作の主演はウィル・スミスだが、会社の幹部となる ホイット、クレア、サイモンを演じるエドワード・ノートン、ケイト・ウィンスレット、マイケル・ペーニャが大スターなら、「愛」「時間」「死」を演じる劇団員エイミー、ラフィ、ブリジットを演じるキーラ・ナイトレイ、ジェイコブ・ラティモア、ヘレン・ミレンの3人も大スター。したがって、これら多くの大スターのアンサンブルをいかに練り上げていくかが本作の焦点だが、タイトルが抽象的で難解なこともあり、大スター同士の「激突ぶり」も小難しい会話が多いから、本作の好き嫌いは人によってはっきり分かれるところだ。
また、本作全体のストーリーが展開していく過程では、一見成功者に見える会社の幹部3人も、①浮気の末に妻と離婚したホイットは、多額の慰謝料を払った上に娘からは嫌われてしまっていること、②息子が生まれたばかりのサイモンは重い病気が再発し、余命わずかの宣告を受けていること、③これまでは仕事命できたけれども、子供だけは欲しいと密かに願っているクレアは、人工授精のために病院に通う「妊活」を行っていること、が明らかにされ、三者三様それぞれの深い苦悩が浮かびあがってくる。一見順調に見えてもその実、人に言えない苦悩を抱えているのは、ハワードだけではないわけだ。かく言う私だって、一昨年の直腸がん手術と昨年の胃がん手術という大きな試練を経て、今でも自分にしかわからない苦しみと日々付き合いながら生きている。
そう考えると、ハワードが6歳の娘を多形性膠芽腫(通称「GBM」)で失ったのはたしかに悲痛な出来事だが、そうだからといって5年間も今のような体たらくとは!そりゃあまりに情けないのでは・・・?
<本作結末にみる、ハワードの「希望」と「再生」は?>
本作で主役のハワード役を演じたウイル・スミスは、『メン・イン・ブラック』シリーズ(97、02、12年)や『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(99年)での喜劇俳優的なイメージが強い。しかし、『最後の恋のはじめ方』(05年)では、デートコンサルタントという職業の主人公役で、コメディタッチながらも2組の男女の真実の恋愛を求めていく役を鮮やかに演じていた(『シネマルーム7』97頁参照)し、『幸せのちから』(06年)では、「ホームレスから億万長者へ!!」「父と子の愛と希望に満ちた真実の物語」というストーリーの主人公を鮮やかに演じていた(『シネマルーム13』257頁参照)。
しかし本作では、最初のシーンだけ伸び盛りの広告代理店の若き経営者としてカッコいいスピーチシーンを見せるものの、その後はずっと暗く落ち込んだ演技が続くので、陽気な役が似合うウイル・スミス(?)にはあまり似つかわしくない役柄?また、「愛」「時間」「死」に扮した3人の劇団員たちとの「哲学論争」じみた会話も、あまりウイル・スミスには似つかわしくないもの?私にはどうしてもそう思えてしまうのだが、さて、あなたは?
本作には、娘の死後ハワードが黙々と作ってはただ壊す「ドミノ倒し」に熱中するシーンが登場するが、なぜハワードはそんなものに熱中するの?また、ハワードの娘が6才で死亡したのは「多形性膠芽腫(通称「GBM」)という難しい病気のせいだが、なぜハワードはそれを口に出すことすらできないの?そこらあたりのハワードの心の中のアヤを、『ALI アリ』(01年)と『幸せのちから』で2度もアカデミー主演男優賞にノミネートされたウイル・スミスの演技でいかに表現するのか、が本作のポイントになる。しかして、それについてのあなたの意見は?また、本作の原題は『Collateral Beauty』とされたのも、邦題が『素晴らしきかな、人生』とされたのも、本作ラストにみるハワードの「希望」と「再生」のためだが、本作のこの結末自体を、あなたはどうみる?
2017(平成29)年3月2日記