裁き(インド映画・2014年) |
<シネ・リーブル梅田>
2017(平成29)年9月5日鑑賞
2017(平成29)年9月13日記
インドの若き才能が、長編第1作として「法廷モノ」に挑戦!65歳の歌手の起訴事実は、ある下水清掃人の自殺幇助罪。扇動的な歌が彼を自殺に追い込んだということだが、そりゃちょっと無理筋では・・・?
法廷シーンはハリウッドや日本の「法廷モノ」と同じように興味深いが、本作では同時に描かれる「法曹三者」の私生活も興味深い。
別のポイントは、被告人も下水清掃人も被差別カースト出身、もしくは不可触民(ダリト)とされているため、カースト制度への興味と理解が不可欠なことだ。しっかり勉強が必要だが、歌と踊りばかりではないボリウッドの「法廷モノ」の傑作として、本作には星5つを!
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監督・脚本:チャイタニヤ・タームハネー
プロデューサー:ヴィヴェーク・ゴーンバル
ナーラーヤン・カンブレ(民謡歌手)/ヴィーラー・サーティダル
ヴィナイ・ヴォーラー(弁護士)/ヴィヴェーク・ゴーンバル
ヌータン(検察官)/ギーターンジャリ・クルカルニー
サダーヴァルテー(裁判官)/プラディープ・ジョーシー
シャルミラー・パワル(死亡した下水清掃人の妻)/ウシャー・バーネー
スポード/シリーシュ・パワル
2014年・インド映画・116分
配給/トレノバ
■□■はじめてボリウッドの「法廷モノ」を!■□■
ハリウッドの「法廷モノ」は多いし、日本の「法廷モノ」も多い。そして、中国でも近時『再生の朝に ―ある裁判官の選択―(透析Judge)』(09年)(『シネマルーム27』196頁参照、『シネマルーム34』345頁参照)、『我らが愛にゆれる時(左右/IN LOVE WE TRUST)』(08年)(『シネマルーム27』33頁参照、『シネマルーム34』350頁参照)、『ビースト・ストーカー/証人』(08年)(『シネマルーム28』81頁参照、『シネマルーム34』453頁参照)等の「法廷モノ」が登場している。歌と踊りをメインとしたボリウッドでも、近時は『チェイス!』(13年)(『シネマルーム35』120頁参照)、『女神は二度微笑む』(12年)(『シネマルーム35』127頁参照)等の「ミステリーもの」や、『マダム・イン・ニューヨーク』(12年)(『シネマルーム33』38頁参照)、『めぐり逢わせのお弁当』(13年)(『シネマルーム33』45頁参照)等の女の生き方をテーマとした「社会モノ」が登場しているが、「法廷モノ」はこれまでゼロだった。
日本では9月9日から『三度目の殺人』(17年)が公開されるが、これはタイトル通り殺人罪をテーマとしたもの。本作の主な舞台はインドのムンバイにある地方裁判所の1つの法廷。そして、物語は期日ごとの法廷の姿を追いながら進行していく。本作のそんな構成は日本の「法廷モノ」の傑作である『事件』(78年)(『名作映画から学ぶ裁判員制度』92頁参照、『シネマルーム10』52頁参照)や『ゆれる』(06年)(『名作映画から学ぶ裁判員制度』82頁参照、『シネマルーム14』88頁参照)と同じだが、本作の罪名はこれらの映画の殺人罪とは異なり「自殺幇助罪」だから、かなり異質だ。
本作冒頭には、屋外の舞台上で65歳の民謡歌手カンブレ(ヴィーラー・サーティダル)が観衆に向かって激しく歌う姿が登場する。アメリカでは黒人解放を求める「プロテスタントソング」やベトナム戦争反対をテーマとした反戦フォークソングが有名だが、本作に見るカンブレの反戦・反政府ソングの歌詞はすごい!そして、本作の法廷で被告人とされるのがこのカンブレだが、なぜ彼は「自殺幇助罪」で起訴されたの?
■□■この起訴はかなり無理筋では?■□■
日本では地方裁判所はそれぞれ官庁らしい外観を持ち、それなりの威厳があるが、簡易裁判所になると2階建ての小さいものもあり、あまり威厳がない。本作の舞台になるのはムンバイにある下級裁判所だが、その建物は街の風景の中に溶け込んでいるから、これが裁判所だという威厳はない。それはともかく、日本やアメリカと同じように、インドの裁判官のサダーヴァルテー(プラディープ・ジョーシー)が担当する刑事法廷もかなり忙しそうで、傍聴人が詰めかけている中、次々と「一丁上がり方式」で事件が進行していく。
女性検事ヌータン(ギータンジャリ・クルカルニー)が読みあげるカンブレの自殺幇助罪の内容は、ムンバイのマンホール中で発見された下水清掃人の死亡は、カンブレが集会で歌った扇動的な歌、とりわけその中の下級労働者の自殺を駆り立てるような歌詞が原因。したがって、そんな扇動的な歌を舞台で歌ったカンブレは、下水清掃人の自殺幇助罪に該当するというものだ。たしかに、下水清掃人はカンブレが舞台で歌った2日後に死亡しているらしい。しかし、弁護人のヴィナイ・ヴォーラー(ヴィヴェーク・ゴーンバル)が主張するように、そうだからといって、下水清掃人の死亡は自殺とは限らず、劣悪な環境下、不良な体調下で仕事をしていたことによる事故死の可能性が高い。したがって、誰がどう考えても、カンブレが扇動的な歌を舞台で歌ったことが下水清掃人の自殺幇助罪に該当するというのは、かなり無理筋だ。これは多分、「法曹一元」の理念の下、同じ司法研修所で学んだ日本の司法修習生仲間なら誰もが共通して思うことだろう。したがって、日本の検察官ならそもそもカンブレの自殺幇助罪での起訴に反対するだろうし、そんな事件を担当した検事もヌータン検事のように自信たっぷりに本件の起訴内容を語れないだろう。
ヌータン検事の主張に対して、インドの若手人権派弁護士らしいヴィナイ・ヴォーラーは堂々と反論を加えていくから、邦画の『事件』(78年)や『疑惑』(82年)(『シネマルーム10』33頁参照)そして、『それでもボクはやってない』(06年)(『シネマルーム14』74頁参照)等々、さらにはハリウッド映画の『コネクション マフィアたちの法廷』(06年)(『シネマルーム29』172頁参照)や『リンカーン弁護士』(11年)(『シネマルーム29』178頁参照)等々と同じように、本作でもそんな本格的な法廷ドラマの展開に注目したい。
■□■裁判官の能力は?その訴訟指揮は?■□■
日本では「法曹一元」の理念の下、司法研修所を卒業すれば、裁判官、検察官、弁護士への道は基本的に本人が自由に選択できる。また、それぞれ仕事に就いた後も弁護士から裁判官任官の道もある。しかし、日本では依然として戦前からの「裁判官優位」の考え方が強い。それはアメリカでも同じだが、同僚たちとヌータン検事が語っている会話を聞いてると、インドでもそれは同じらしい。しかして、本作にみるサダーヴァルテー裁判官の能力は?その訴訟指揮は?
中国の法廷モノである『再生の朝に ―ある裁判官の選択―(透析Judge)』(09年)では、「死刑のような重い判決が出る重大な案件については、基本的に裁判委員会という裁判所内の機関で討議され、判決が下される」ことにビックリさせられたが、本作にみるサダーヴァルテー裁判官の訴訟指揮は、アメリカの裁判官に近く、訴訟の進行や証人尋問における訴訟指揮は即断即決ぶりが目立つ。第1回期日で下水清掃人の保釈を求めるヴォーラー弁護士に対して、それを却下する決定を下すサダーヴァルテー裁判官の姿を見てると、かなり権力的で独善的なキャラかなと思ったが、審理が進むにつれて、そんなことはないことがよくわかる。もちろん、多少権力的なところもあるが、意外に検察官と弁護人の主張をきちんと聞いた上で明確な判断を下す優秀で有能な裁判官のようだ。
ちなみに、日本の現在の刑事裁判は、かつての「五月雨方式」から「集中審議方式」に変わったが、インドでは昔の日本と同じような「五月雨方式」だ。また、日本では裁判員裁判が始まっているが、インドではまだそれはないようだ。
■□■1987年生まれの新星監督の問題意識は?■□■
本作のパンフレットのINTRODUCTIONには、次の通り書かれている。
また、チャイタニヤ・タームハネー監督については、次の通り紹介されている。
世界中から注目されているチャイタニヤ・タームハネー監督が最初の長編として本作のような「法廷モノ」を選んだのは、「裁判を実際に傍聴する機会があった」ことがきっかけらしい。パンフレットにはチャイタニヤ・タームハネー監督のインタビューがあり、そこでは、①本作を作ろうとしたきっかけ、②インドの司法制度を描く上での苦労、③ムンバイの街自体の意味、③カースト制度の問題点、④劇中でカンブレが歌う音楽、そして、⑥本作の俳優たちについて等が、縦横無尽に語られているので、こりゃ必読!
本来法廷とは無縁のチャイタニヤ・タームハネー監督にとって、「他の映画や小説よりも、ムンバイの下級裁判所で見聞きした事実の方がはるかに着想の参考になった」そうだが、本作で描かれる法廷シーンは、日本の弁護士である私にとっても興味深いものばかりだ。法科大学院制度の失敗、弁護士増員の思惑の失敗、そして司法制度改革そのものの失敗の中、新たな司法教育制度のあり方に苦悩している今の日本では、法科大学院のくだらない授業に固執せず、本作のような映画から、遅れてるとはいえインドのこんな裁判制度もしっかり勉強することが不可欠だ。
■□■法曹三者の私生活にも注目!■□■
ハリウッドでも日本でも、本格的な「法廷モノ」はとことん法廷の論点を追求していく面白さがポイントだが、本作はそうではない。つまり、カンブレを被告人とする自殺幇助事件の進行はは五月雨方式で順次伝えていくのだが、本作ではなぜかその合間に、ヌータン検察官、ヴォーラー弁護士、サダーヴァルテー裁判官の「私生活」が紹介される。日本では弁護士はともかく、裁判官と検察官の私生活はベールに包まれていることが多いから、本作のそんなシーンは新鮮だ。ヴォーラー弁護士は人権派だが、実はかなり裕福な家庭の出身。そして、息子の結婚にやきもきしている両親を尻目に、独身生活を謳歌(?)しているらしい。それに対して、家では夫や2人の子供ために料理を作り、休日には家族そろって演劇に出かけたりしているヌータン検事の私生活はもちろん安定しているが、そんな私生活から垣間見える彼女の価値観や思想性とは・・・?
他方、裁判所が夏休みに入った後にスクリーン上に登場する裁判官や裁判所職員たちの私生活では、サダーヴァルテー裁判官の意外な素顔が浮き彫りになるので、それに注目!折りしも日本では、民進党の代表に選出された前原誠司氏の下で、幹事長就任が「内定」していたはずの山尾志桜里氏が能力不足や私生活の混乱ぶりから見送られてしまった。さらに、その見送りが決まるや否や、「“肉食のジャンヌダルク”山尾志桜里」と9歳年下の「イケメン弁護士」との「お泊り禁断愛」が『週刊文春』で報じられている。インドでは『週刊文春』のようなスキャンダル探しにチョー強い報道はないのかもしれないが、私の目には本作に見るサダーヴァルテー裁判官の私生活は少し心配だ。
29歳の若さで、法曹三者のそんな私生活まで踏み込む本作の演出をしたチャイタニヤ・タームハネー監督に拍手!
■□■有罪?無罪?決め手は目撃者と妻の証言!■□■
証人尋問は法廷の花。ハリウッドの「法廷モノ」では丁々発止のやりとりがよく見られるが、日本の「法廷モノ」でそれが少ないのが残念。本作の原題は『COURT』で、チャイタニヤ・タームハネー監督は法廷そのものに大きな焦点を当てている。そんなこともあって、弁護士の私には本作に見る検察官、弁護人と証人席の配置が興味深い。インドの法廷(コート)では、検察官と弁護士が立ったままで書記官、事務官らを挟んで裁判官と向かい合い、証人席はその左右に配置されている。また、一段高い位置にある裁判官席の隣には裁判官の指示を記録する速記官がいるが、これはアメリカや日本にはないもの。本作の法廷シーンではサダーヴァルテー裁判官の的確な(?)訴訟指揮も興味深いが、何と言っても被告人の有罪無罪をめぐる決め手になるのは目撃者と下水清掃人の妻の証言だから、それに注目!
どんな事件でも事件や被告人と無関係な第三者の目撃者がいれば、その証言は貴重。ハリウッドの法廷モノの古典ともいえる『十二人の怒れる男』(57年)でも、それが大きなウエイトを占めていたが、さて本作では・・・?また、事故死?それとも自殺か?自殺なら、その原因(動機)がカンブレの扇動的な歌を聴いたことか否か、については、下水清掃人の日常生活と仕事ぶりをよく知っている妻の証言が大きなウエイトを持つことになる。下水清掃人の死亡後、弁護士がその家を訪れ、妻の証言を求める努力をしたのは立派だが、その時既に妻は家を出てしまっていた。それは一体なぜ?その説明を含めて、法廷に証人として出頭してきた妻は、①下水清掃人は過酷な作業の過程で片方の目を失明していたこと、②下水清掃人は作業ができるか否かの基準となる有毒ガスの有無をゴキブリの有無で調べていたこと、③下水清掃人は防護服やマスクなど一切なしで作業していたこと、④下水清掃人は悪臭に耐えるため、酒を飲み酩酊状態で作業していたこと、等を証言したから、これは弁護人にとって大いに有利な証言だ。こんな証言が出る頃には、裁判官の訴訟指揮もかなりカンブレに好意的になっていたし、10万ルピー(日本円で約17万円)という高額な保釈保証金ながらもカンブレの保釈が認められることになっていた。そんな状況下、私はヴォーラー弁護士とともにカンブレの無罪判決を期待したが、さて判決は有罪?それとも無罪?
■□■カースト制度への興味と理解が不可欠!■□■
日本の徳川時代には「士農工商」という明確な身分(差別)制度があったし、明治時代になってからもいわゆる「部落差別」があったことは、島崎藤村の『夜明け前』や住井すゑの『橋のない川』を読めば明らかだ。また、唯物史観、階級闘争史観に立った白土三平の『カムイ伝』や『カムイ外伝』などの原作を映画化した『カムイ外伝』(09年)をみれば、下忍と抜け忍との関係に焦点を当てた旧態然とした身分制度、階級制度の不合理性がよくわかる(『シネマルーム23』187頁参照)。それと同じように、いやそれ以上にインドには「カースト制度」という旧態然とした身分制度の大問題があり、本作はとりわけ「カースト制度の堅忍さ」を表現している。
本作のパンフレットには、COLUMNとして、①インド映画研究家の高倉嘉男氏の「インド映画の今と『裁き』」、②大東文化大学教授の石田英明氏の「『裁き』の背景」、③映画ライターの済藤鉄腸氏の「新感覚インド映画、その最先端」の3本があり、②はカースト制度について詳しく論じている。そこでは、「被告も清掃作業員も被差別カースト出身であるが、裁判の過程でカースト制への言及はない」と解説されているが、ネット批評では、彼らは「ダリト」と呼ばれる「不可触民」だとも書かれている。しかして、カースト制度とは?不可触民(ダリト)とは?
それをここで詳しく述べることができないが、カンブレのような民衆詩人ともいえる職業の人物は、低い階層や被差別カースト出身者が多いそうだから、カンブレが何年も前から警察や検察に付け狙われていたことを考え合わせると、カンブレの自殺幇助罪での起訴はある意味でっちあげ的な冤罪・・・?そんな見方も可能だ。事実上無罪の見通しで保釈されたカンブレが直ちに次の舞台に出演したり、自分の活動記を出版しているとさらにそこに捜査の手が入り、改正テロ防止法違反の容疑でカンブレが連行されていく姿を見ると、警察や検察がいかにカンブレを危険人物とみなしているかがよくわかる。日本でも冤罪事件であることが判明したいくつかの事件では、その被告人が被差別部落出身であったことを考えると、カースト制度の問題は奥深い。もちろん、本作でそれがすべてわかるわけではないが、本作の鑑賞についてはカースト制度への興味と理解が不可欠だ。
2017(平成29)年9月13日記