ゲド戦記(日本映画・2006年) |
<東宝試写室>
2006年7月7日鑑賞
2006年7月8日記
宮崎駿の長男、宮崎吾朗の第一回監督作品は、彼が高校生の頃に出会ったというアーシュラ・K.ル=グウィン原作の「ゲド戦記」。そこに描かれるのは、人間の「生と死」そして内なる「光と影」の物語・・・。「影があるから光がある」「死があるから生がある」という当たり前のことをこれ程深く追及しなければならないのは、永遠の生を求める傲慢な人間や、魔法使いが登場したため・・・?アニメの世界、ファンタジーの世界ながら、そこで交わされる会話やその奥に潜む思想はえらく難しく、息子の作る映画は父親以上に難解かも・・・?正直、ちょっと疲れたなあ・・・。
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監督・脚本:宮崎吾朗
原作:アーシュラ・K.ル=グウィン原作『ゲド戦記』シリーズ
声の出演:
アレン(レバンネン)(エンラッドの王子)/岡田准一
ハイタカ(ゲド)(偉大な魔法使いで大賢人)/菅原文太
テルー(謎の少女)/手嶌葵
テナー(ゲドの幼なじみ)/風吹ジュン
クモ(ゲドに恨みを持つ魔法使い)/田中裕子
国王(アレンの父)/小林薫
王妃(アレンの母)/夏川結衣
ウサギ(クモの手下のリーダー)/香川照之
東宝配給・2006年・日本映画・115分
<原作は『指輪物語』『ナルニア国物語』と並ぶ『ゲド戦記』・・・>
この映画の原作は、アメリカの女性作家アーシュラ・K.ル=グウィンが書いた『ゲド戦記』。これは『指輪物語』『ナルニア国物語』と並んで、世界三大ファンタジーの一つと言われるもの。そして、その全体構成は次のとおり。すなわち、
第1巻 「影との戦い」(原作1968年・邦訳1976年)
第2巻 「こわれた腕輪」(原作1971年・邦訳1976年)
第3巻 「さいはての島へ」(原作1972年・邦訳1977年)
第4巻 「帰還ーゲド戦記最後の書」(原作1990年・邦訳1993年)
第5巻 「アースシーの風」(原作2001年・邦訳2003年)
そして、「ゲド戦記外伝」(原作2001年・邦訳2004年)
私は、今回はじめてパンフレットとネット情報を元に、この原作について「にわか勉強」したが、そこで描かれているのは、ファンタジーでもなければ「戦記」でもなく、かなり難解な哲学・思想の世界・・・?
第1巻では、少年だった魔法使いのゲド(ハイタカ)が登場する。彼は第3巻では「大賢人」となるが、第4巻ではゲドはすべての力を失って、大賢人の地位を降りてしまうことに・・・。また第2巻は、ゲドと同世代の神殿の巫女アルハ(テナー)を中心とした物語で、第5巻ではこのテナーがゲドの妻となる。
他方、アースシー王国の若き王子レバンネン(アレン)は第3巻で登場し、ゲドとともに世界の果てまで旅をする中でさまざまな体験をし成長していくことに・・・。そして、少女テルーの登場は第4巻からだが、第5巻ではゲドとラナーの養女となったテルーが物語の核となっていく。
<宮崎吾朗が映画に使った部分は?>
パンフレットによれば、この映画が初の監督作品となった宮崎駿の長男である宮崎吾朗は、今から20年以上前の高校生の頃に『ゲド戦記』シリーズに出会ったとのこと。そして、その当時は第2巻に心惹かれたが、今回映画化するについては、第3巻、第4巻そして外伝に心惹かれたとのこと。その理由を彼は、「私自身が年齢を重ねて変わったこともあるでしょうが、私たちを取り巻く状況が大きく変わったことがその最も大きな理由だと思います」と述べている。したがって彼は、この映画の脚本を書くに当たって、第3巻を今回の映画の中心にしようと考えたとのことだ。
また、第5巻と外伝は2001年の9・11テロの影響を受けて、混沌となったアメリカの世界観が如実に表れている。そして、この映画もそういう感じが非常に強い。そこで、彼が言っているのは「世界の均衡が崩れつつある原因が人間の内にあること、その根源を辿れば生と死の問題に行き着くこと、そこに、私たちにいま最も必要なテーマがあると思うのです」ということ。そしてこの映画は、まさにこのテーマどおりの「つくり」となっていることはまちがいないが・・・。さて、その成否は?
この映画ではかなり難解で哲学的なセリフが飛び交うが、しかしそれによって「今まっとうに生きるとはどういうことか」の答えが簡単に導き出せるとは限らないのでは・・・?
<うまく2時間弱にまとめているが・・・>
このように膨大なアーシュラ・K.ル=グウィンの原作の中から、宮崎吾朗はその第3巻を中心として、2時間弱の映画になるよう脚本をまとめたから、たしかに映画はそれとして完結する内容となっている。しかし、そもそも『ゲド戦記』の第1巻も第2巻も読んでいない私を含む多くの観客は、次のようにいっぱい「なぜ・・・?」と思うはず。すなわち、
①なぜ、突然2匹の竜が人間の世界に現れ、共食いするのか?
②なぜ、アレンは父親を殺害したのか?
③なぜ、ゲドはホート・タウンへ旅をしているのか?
④なぜ、ゲドはアレンを同行させたのか?
⑤なぜ、ゲドはテナーの家に入り、そこで何をしようとしたのか?
⑥クモとはどんな魔法使いで、なぜゲドに恨みをもっているのか?
⑦突然アレンが「僕の本当の名はレバンネンだ」と言いはじめるが、それは一体誰なのか?
等々・・・
映画を観ている間に、「なるほど、そういうことなのか」とわからないわけでもないが、どこか不自然・・・。そう思ったのは、果たして私だけだろうか・・・?
<クモの狙いは・・・?クモは女それとも男・・・?>
この映画でクモが登場するのは後半から。このクモがワルだということはわかるものの、一体何をやらかそうとしているワルなのか、実はサッパリわからない。アレンとゲドが入ったまち「ホート・タウン」は多くの人たちでごった返していたが、このまちでは奴隷の売買が行われ、商品はまがい物ばかり、そして路地裏ではハジア(麻薬)患者がゴロゴロという、いわば世紀末的な状況。これはつまり、9・11テロ以降、混沌とした状況にあるアメリカと同じようなもの・・・?あるいはおカネがすべてという拝金主義と子供による親殺しがまかり通っている現在のニッポン社会と同じようなもの・・・?そして、それは世界の均衡が崩れつつあるため・・・?アーシュラ・K.ル=グウィン女史の考え方やその映画化に踏み切った宮崎吾朗氏の考え方によれば、そんな風に世界の均衡が崩れつつある原因は、クモという魔法使いが生死両界の扉を開けたため・・・?しかしそれってホントかな・・・?
たしかに私も地球的規模の環境破壊や地球温暖化などを含めて世界の均衡が崩れつつあるとは思うものの、それは所詮「人間の営み」の結果であり、人間がすべて責任を取らなければならないもの。決して、クモの責任ではないと思うのだが・・・?
また私は、クモの姿形や声(田中裕子)からクモは当然女だと思っていたが、途中で実は男だったことに気づかされた。なぜ、クモは男のクセにあんな格好を、そしてなぜそんなに優しそうな声を・・・?
<父親殺しの結末は・・・?>
この映画には早い段階でエンラッドの国王(小林薫)と王妃(夏川結衣)が登場するが、その出番はごくわずか。しかも国王は、国民のために忙しく国務に専念している賢君のようだし、2匹の竜が人間社会に現れたという世界の均衡が崩れつつある現状にも動揺することなく、冷静に適切な指示を出していたが、その直後突然、何者かによって暗殺されることに・・・。そしてその暗殺者こそ何と息子のアレンなのだ・・・。
これによってアレンはエンラッド国を飛び出し、1人旅に出たところで、同じく1人旅をするゲドに出会ったというわけだ。しかして、このアレンはこの映画が描くとおり、さらにテルーやテナーと知り合ったうえ、最終的にクモとの闘いに勝利したわけだが、さてこれからアレンはどのようにして父親殺しの結末をつけるのだろうか・・・?
<セリフに頼りすぎでは・・・?>
最近私は、セリフが全くないキム・ギドク監督の韓国映画『うつせみ(空き家/Bin-Jip)』(04年)や、セリフが極端に少ない石川寛監督、瑛太と宮﨑あおい主演の『好きだ、』(05年)などに凝って(?)いる・・・。そこまで極端でなくとも、監督の主張やその映画で表現したいことを登場人物たちのセリフでそのまましゃべらせる映画の出来はもうひとつと思っている。
この映画『ゲド戦記』のテーマは、世界の均衡が崩れつつある現状の中での、人間の「生と死」そして内なる「光と影」というきわめて難しいものだが、この映画が言いたいことは、要するに「影があるから光がある」そして「死があるから生がある」ということに尽きている。
この映画の主人公アレンは自分の影に苦しみ、それと闘いながら重い悩みをずっと引きずっていたが、ある日テルーから「死があるから生があるのよ」と教わることによって、立ち直ることに・・・。そして、死を恐れて永遠の生を得ようとしている魔法使いクモの姿がかつての自分の姿だったということを理解することに・・・。これによって、アレンはテルーとともに、新たに力強く出発することができることになるわけだ。この映画が言いたいのはなるほどそういうことか、とわかるものの、それを全部セリフでしゃべらせるというのはいかがなものか・・・?
<『テルーの唄』ももうひとつ・・・?>
宮崎駿監督の『もののけ姫』(97年)と『千と千尋の神隠し』(01年)は、映画も大ヒットしたし主題歌も大ヒットしたことはまだ記憶に新しいところ。しかし、オヤジがそうだから、息子も同じようになるとは限らない・・・?テルーの声優をつとめるのは手嶌葵という新人歌手で、彼女が挿入歌『テルーの唄』と主題歌『時の歌』を歌っている。この『テルーの唄』は、この映画のプロデューサーである鈴木敏夫が手嶌葵のデモテープを聴きながら、学生の頃覚えた萩原朔太郎の『こころ』という詩を思い浮かべたため、すぐさま宮崎吾朗を呼び、手嶌葵の曲を聴かせながら『こころ』を暗唱してみせたうえで、『ゲド戦記』のテーマ曲の作詞を依頼したとのこと。するとその翌日、宮崎吾朗は『テルーの唄』の歌詞を完成させ、10日後には谷山浩子が曲を完成させたとのこと。しかしてその曲の出来は・・・?
パンフレットには「テルーのキャラクター像、さらには物語全体に大きな影響を及ぼすことになりました」と自画自賛的に書かれているが、映画の上映前および劇中でこの歌を聴いた限りでは、はっきり言ってそれほど大したものではなく、私はもうひとつと思ってしまったが・・・。
2006(平成18)年7月8日記