アジアンタムブルー(日本映画・2006年) |
<ヘラルド試写室>
2006年11月10日鑑賞
2006年11月11日記
純真無垢でちょっと天然ボケ(?)のヒロインには、竹内結子に続く美人女優松下奈緒を起用!一方、ふしだら(?)で半分世捨て人のようなキャラを『トリック』の阿部寛が真剣に(?)好演・・・。今や、涙のストーリー構成上定番となった「重病モノ」だが、美しい音楽と美しいニースのまちがマンネリ化防止に大きく寄与・・・?末期ガンの場合、ガンとどう闘い死をどう迎えるかは現実的でナマナマしい大問題だが、この映画のような死に方ができれば理想的・・・?大崎善生のデビュー作『聖の青春』を読んで泣かされた私は、再び映画化された『アジアンタムブルー』を観て泣かされることに・・・。
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監督:藤田明二
原作:大崎善生『アジアンタムブルー』(角川文庫刊)
山崎隆二(雑誌編集者)/阿部寛
続木葉子(新進カメラマン)/松下奈緒
ユーカ(SM女王)/小島聖
川上音彦(隆二の友人)/佐々木蔵之介
川上由希子(音彦の妻)/高島礼子
五十嵐(隆二の同僚)/村田雄浩
沢井速雄(編集長)/小日向文世
角川ヘラルド映画配給・2006年・日本映画・110分
<アジアンタムブルーとは・・・?>
私がこの映画を必ず観たいと思ったのは、この映画の原作者が大崎善生であると知ったから。つまり、将棋の大好きな私は、泣きながら読んだ『聖の青春』が彼のデビュー作であることをよく覚えていたわけだ。これは、早稲田大学を卒業後、日本将棋連盟に就職して『将棋世界』の編集長をしていた彼が、29歳で亡くなった天才棋士村山聖の生涯を追った感動ノンフィクション作。彼は第2作目の『将棋の子』までは将棋ネタでノンフィクションを書いていたが、2002年以降小説の世界に進出し、『パイロットフィッシュ』で吉川英治文学新人賞を受賞する等、華々しい活躍をくり広げている。
そんな大崎善生の原作『アジアンタムブルー』の「アジアンタム」とは、涼しげにハート型の葉を揺らすシダ科の観葉植物のこと。しかし、枯れ始めると手の施しようがなくなるため、それを「アジアンタム」の憂鬱、すなわち、「アジアンタムブルー」と呼ぶらしい。さて、そんなタイトルをつけたこの映画のテーマは・・・?
<阿部寛の演技力に感心!>
テレビドラマの『トリック』シリーズや『トリック劇場版』(02年)、『トリック劇場版2』(06年)でのコミカルな演技や三井住友VISAカードでのコミカルなコマーシャルの印象が強い俳優が、この映画に主演した阿部寛だが、その演技力は幅広いもので、『バルトの楽園』(06年)でもいい味を出していた。そんな彼が演ずる山崎隆二は、妻と離婚したのは仕方ないとしても、親友川上音彦(佐々木蔵之介)の妻、由希子(高島礼子)と不倫関係がズルズルと続いているという、かなりどうしようもない男・・・?
エロ雑誌(?)『月刊エレクト』で編集長の沢井速雄(小日向文世)の指揮の下、同僚の五十嵐(村田雄浩)らと共に編集の仕事をしているが、所詮これはエロ写真を撮って編集するだけのくだらないもの・・・。しかし、世の中を半分捨ててしまったような山崎にはそんな仕事がかえって居心地がいいのか、意外に淡々とその仕事を処理。そんな、ちょっと陰のある世捨て人のような山崎の役柄を、この映画で阿部寛が好演。ちなみに、エロ雑誌に不可欠な分野がSM部門だが、そこでSMの女王として再三グラビアに登場するのがストーリー上かなり大きな役割を果たすユーカ(小島聖)。その結果、実は山崎が女流カメラマンの続木葉子(松下奈緒)と知り合うことになったきっかけは・・・?
<竹内結子に続く美女がやっと主演!>
『TANNKA 短歌』(06年)では、私が以前から注目していたモデル出身の美女黒谷友香が、同じモデル出身で今やトップ女優となった伊東美咲に続いて遅ればせながら初主演し、今やそのヌード姿(?)が週刊誌などで大注目!
それと同じように、私が以前からグラビアなどで注目していたのが松下奈緒。彼女の女優デビュー作となった『仔犬のワルツ』も観ていないし、彼女が出演している数々のTVドラマも観たことがないので、スクリーン上でお目にかかるのは本作がはじめてだが、私は勝手にグラビアを見て、竹内結子によく似た美女だと理解していた。すると、そんな私の理解どおりの美女が女流カメラマン役でスクリーン上に・・・。
<水に映った世界の方がキレイ・・・?>
葉子はプレスシートやネット記事によれば「新進カメラマン」と書かれているが、それはちょっと誉めすぎで、実態はせいぜいセミプロ程度。だって、はじめてユーカからの紹介でエロ写真を撮るカメラマンとして指定された葉子は、山崎に対して「まだ1度も写真でお金をもらったことはありません」と正直に説明していたのだから。ユーカはエロ写真の専門家でない親友の葉子に撮らせてみたいという思いから『月刊エレクト』に葉子を紹介したのだが、沢井編集長の「エロ雑誌に芸術は必要ない!」との哲学の下では、そんなユーカの思いも、わざわざ葉子に撮影させた山崎の苦労も水の泡・・・。あっさり『月刊エレクト』でのカメラマンの仕事はお払い箱となったが、私が思うに、葉子にとってもその方がよかっただろう。
葉子が大好きなのは、水溜まりに映る被写体を撮ること。「なぜそんな写真ばかりを」と山崎が聞くと、その答えは「ほんとの世の中よりも、水に映った世界のほうがきれいでしょう?」というもの。なるほど、なるほど、その答えを聞くだけで葉子の人柄や生きザマがわかろうというもの・・・。
<NICEはナイスorニース・・・?>
天然ボケというキャラは大体誰からも愛されるものだから、それだけでおトク・・・?この映画のヒロイン葉子は、ある意味で天然ボケの典型で、撮影のために一緒にニースに行ったユーカに対して、山崎が「あいつ、土踏まずみたいだったな。裸足で歩いても、そこだけは汚れない、みたいな」と言ったセリフが実にピッタリ・・・。そんな葉子の純真無垢なところをユーカが気に入っていたのだが、由希子とのドロドロした不倫関係に疲れ、エロ雑誌の編集の仕事にもいい加減嫌気がさしてきた山崎にとっても、次第にその「土踏まず」が大切な存在に・・・。
そんな葉子の天然ボケぶりを最初に披露したのが、山崎やユーカたちの撮影旅行の話に同席していた葉子が、地図上に表示されたNICEを見て「ナイスですか?」と言った時。一瞬みんなポカンとしたのは当然。NICEはナイスではなく、ニースだから・・・。
そうニースは、フランスの最南部にある地中海に面した美しいまちなのだ。山崎と葉子の純愛(?)の始まりは、意外にこの一発目の天然ボケの時だったのかも・・・。
<ジャン・コクトーやレイモン・ラディゲを知ってる・・・?>
この映画の売りの1つが美しいニースのまちだが、プレスシートによれば、スクリーン上に登場するのは、ニースから車で40分ぐらい離れたヴィルフランシュ・シュル・メールの町。そしてここは、ジャン・コクトーが長期間滞在したかわいい町とのことで、スクリーン上には隆二と葉子が訪れるジャン・コクトーゆかりのサン・ピエール礼拝堂が登場する。私は全く知らなかったが、この礼拝堂は1957年にジャン・コクトーによって内装が一新されたため、ここを訪れる人が後を絶たないとのこと。
ところで、あなたはジャン・コクトーを知ってる・・・?さらに、すぐにやってくる死と今向かい合っている葉子の「この壁画を描いたコクトーね。二十歳の恋人を亡くしたんだって。ラディゲって知ってる?・・・詩人でも芸術家でもなくて、何もしなかった人間のことなんか、みんな忘れちゃうよね。」というセリフに出てくるレイモン・ラディゲを知ってる・・・?そういう「教養」を持っていることが、この映画や会話を理解する前提だが、果たして原作者大崎善生ほどの教養を読者やこの映画の観客が持っているのだろうか・・・?
レイモン・ラディゲは、私が大学1年生の時に読んだ小説『肉体の悪魔』で衝撃的にデビューし、次作『ドルジュル伯の舞踏会』の出版を待たずに20歳の生涯を終えた天才作家・詩人。そして、1920年代にその早熟の天才ラディゲと共に仕事をしていたのがジャン・コクトー。彼は『恐るべき子供たち』で有名な作家・詩人だが、ラディゲの早すぎる死によってショックを受けた彼は一時阿片に溺れてしまうことに。しかし何とか復活した彼は、その後小説・詩だけではなく演劇や映画にまで進出し、1945年には代表作『美女と野獣』を監督しているほど。そんな多才なジャン・コクトーだったから、サン・ピエール礼拝堂の内装もできたのだろう・・・。とにかく何でも勉強してさまざまな教養を身につけなければ・・・。
<今はやりの(?)純愛モノだが・・・>
『セカチュー』こと『世界の中心で、愛をさけぶ』(04年)以降、純愛モノが大人気となったが、それと同時に観客の涙を誘うための1つの定番となったのが「重病モノ」・・・。『いま、会いにゆきます』(04年)もそうだし、韓国映画の『私の頭の中の消しゴム』(04年)や『連理の枝』(06年)もそう。そして、この『アジアンタムブルー』も・・・。
葉子が末期ガンの宣告をされた後の物語で、この映画が面白い(?)のは、ニースでの静かな生活を選んだ2人の距離感・・・。当初、「死ぬのは恐い」と訴えていた葉子は、山崎から「俺も一緒に行ってやるよ」と言われたことによって安心していたが、後半になると、葉子の方から「私1人でいい」と言い始めることに。それはなぜかというと、「2人で行ってしまうと私のことを覚えていてくれる人がいなくなるから・・・」という葉子らしい理屈。
さらに終盤になると、「私のことを1年ごとに、1カ月ごとに少しずつ忘れて下さい。しかし、最後までちっぽけな水溜まりのようなものだけは残しておいて下さい」と言うことに・・・。こりゃ何とも泣かせるセリフ。あの『聖の青春』で泣かされたのと同じように、私は大崎善生の泣かせのテクニックにすっかりはまってしまったよう・・・?
もう1つ、重病モノながら、この映画がありきたりのものになっていないのは、バックに流れる美しい音楽と美しいニースのまちの威力。死ぬ直前の葉子がニースのまちを歩き回るシーンには多少違和感があるものの、こんな美しいニースのまちだからこそ、そしてずっと山崎と2人でいられるからこそ、葉子の心の平穏が保たれたことはまちがいなし。やはり同じ重病モノでも、作品ごとに変化を持たせることが大切・・・。
<こんな死に方ができたら・・・>
あなたの1番大切な人が末期ガンを宣告され、余命1カ月と言われた場合、本人はもとよりあなたはどんなことを考えるだろうか?それは誰にとっても身近な問題であり、他人ゴトではないはず・・・。さらに、私は今ある医療過誤訴訟において、「ガンの告知」をどうすべきだったかという争点をめぐって争っているため、末期ガン治療はどうあるべきか、どのように死を迎えたらいいのかについて大いに悩み考えている真っ最中。
そんな視点でいうと、この映画における葉子の死の迎え方は理想的・・・?末期ガンの宣告を受けた葉子に対して、隆二が言ったのは「どこかに行ってしまおうか。・・・脱出するんだよ」ということ。そして葉子が選んだのは、「隆ちゃん、ニースに行ったんだよね。水溜まりみたいに可愛い海・・・」。
映画の終盤は、ニースにおけるそんな2人の姿がタップリと描かれる。もちろん、葉子は日一日と弱っていき、ラスト近くでは車椅子で移動しているが、スクリーン上で観る限り、葉子はずっと隆二と一緒で幸せそのもの。もちろん、これは映画だからこそできる虚構の世界。食べることができなければ女性の場合体重が30kgを切ることもあるらしいし、抗ガン剤治療をすれば髪の毛も抜けるだろうから、死亡直前まで美しい姿のままでいることは現実には不可能。ましてや、あと1カ月の命と宣告された女性が、「昨年と同じクリスマスにしたい」と言って、隆二と愛を交わすなどということは絶対不可能。それはわかっていても、この映画を観た人はすべて、できればこんな形での死を迎えたいと思ったのでは・・・?
もっとも、同じようにガンで妻を亡くした沢井編集長が、ニースで葉子と暮らすために退職を申し出た山崎に対して言った、「どうして闘おうとしないんだ」との言葉にも一理はあるが・・・。
2006(平成18)年11月11日記