あしたの私のつくり方(日本映画・2007年) |
<角川映画関西支社試写室>
2007年4月4日鑑賞
2007年4月5日記
30歳の新進女流作家の原作を基に、15歳前後の女子中・高生の微妙な心理を、団塊世代の市川準監督が実にうまく表現。友人のために、両親のためにフツーの女の子を演じているという主人公を演ずるのは、14歳の注目女優成海璃子。『ヒナとコトリの物語』と名づけたケイタイメール小説で語るのは「偽物の自分」だとしたら、「本物の自分」は一体どこに・・・?あなたは、この映画から人間の生き方についてどんなメッセージを受け止めるだろうか・・・?同じく2人の女子高生を主人公にした韓国のキム・ギドク監督の『サマリア』(04年)と対比させて、じっくりと考えてみたいものだ。
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監督:市川準
原作:真戸香『あしたの私のつくり方』(講談社刊)
大島寿梨(じゅり)/成海璃子
花田日南子(かなこ)(寿梨の小学生時代の同級生)/前田敦子
杉谷正(寿梨の父)/石原良純
大島さつき(寿梨の母)/石原真理子
田村博之(文芸部顧問)/高岡蒼甫
上島浩二(さつきの同僚)/田口トモロヲ
古垣賢一(小学校担任)/近藤芳正
日南子の母/奥貫薫
日活配給・2007年・日本映画・97分
<大竹しのぶの再来・・・?>
テレビドラマ『瑠璃の島』と『1リットルの涙』に出演している成海璃子(なるみりこ)という、14歳のすごい新人女優がいるというニュースは新聞で読んで知っていたが、最近彼女の名前や顔を見る機会が多い。最近予告編で何度も観ている『神童』にも、見馴れた彼女の顔が・・・。
もっとも、プレスシートを読んでみると、私は既に彼女を2度も映画で観ていたと知ってビックリ・・・。その1は『妖怪大戦争』(05年)だが、この映画があまり印象に残っていないのは仕方なし(『シネマルーム9』316頁参照)。その2は、『雨の町』(06年)で、子供の「あまんじゃく」を演じて強い印象を残したあの少女(『シネマルーム11』364頁参照)が成海璃子だった。
彼女は1992年8月18日生まれだから、2007年4月現在まだ14歳だが、その演技力は大人並み、いや大人以上・・・。まさに恐るべきローティーン女優が生まれたもので、こりゃかつて17歳の時に『青春の門』(74年)で映画デビューし、天才少女と呼ばれた大竹しのぶの再来・・・?そんな成海璃子が演ずるこの映画の主人公大島寿梨は、一見父親の正(石原良純)、母親のさつき(石原真理子)そして兄と共に幸せに暮しているフツーの女の子に見えたが・・・?
<こちらにも注目!>
そんな天才少女と対等に渡り合うのは、寿梨の小・中学校の同級生花田日南子を演ずる前田敦子。彼女は、私が観る限り、成海璃子より彼女の方がベッピン・・・。というよりも、成海璃子はかなり個性的な顔立ちだから好き嫌いが激しいだろうが、前田敦子は誰が見ても、とりわけどんなおじさんが見てもかわいいと思える美少女・・・?
そんな前田敦子はこれが映画初出演だが、秋元康完全プロデュースで2005年に誕生したアイドルグループ“AKB48”のメンバーとして目下人気急上昇中とのこと。1956年生まれの秋元康は私より7歳年下だが、放送作家、作詞家、作家、漫画原作者、プロデューサー、京都造形芸術大学教授として大活躍している、これも天才!そんな秋元康がプロデュースするグループ48名の中で頭角を現しているとすれば、前田敦子もかなりの有望株・・・?
ちなみに、彼女はNTTドコモのCMなどにも出演しているとのことだから、今日からは注意してテレビでその顔を拝まなければ・・・。
<なぜ、60歳+30歳+15歳のコラボが・・・?>
この映画の主役はほぼ15歳の女子高生2人だが、その原作を書いたのは30歳の新進女流作家の真戸香。彼女がはじめて書いた小説『あしたの私のつくり方』が何の賞も受けない時点で、市川準監督の目に留まって映画化されたのだから、彼女にとっては超ラッキー!
私がビックリしたのは、小学校6年生から高校生に至る思春期の女の子の微妙な気持をテーマにしたこの原作に注目し、それを映画化したのが、1948年生まれで、ほぼ60歳の市川準監督だということ。大学卒業後はCM演出家として大活躍し、1987年に『BU・SU』で映画監督デビューしたという彼の作品を私は全然観ていないが、この映画を観ると、団塊世代のおじさんのクセによくもまあこんな微妙な女の子の心理を表現できたものだと感心・・・。その意味で、この映画は60歳+30歳+15歳というちょっと珍しいコラボレーション・・・?
<ホントの主役はケイタイメール>
この映画は、まさに今ドキの女子中・高生の一大社会問題であるいじめ、友達、異性、家庭などの生態(?)を真正面から描いたもので、実に興味深いもの。そんな女子中・高生たちの今ドキの必需品はもちろんケイタイであり、中でも最も活用するのはケイタイメール。私はつい先日、ある事情で約5年間使っていたカメラ機能のないケイタイを買い替え、それによってやっとカメラ機能やテレビ電話機能のついたケイタイになった。しかし、ケイタイメールだって受信にしか使っていない私にとっては、本来カメラやテレビ電話などの機能はなくてもよいもの・・・?
ところで、この映画を観ていると、寿梨や日南子たちがケイタイメールに費やしている時間と労力そして費用はHOW MUCH?とつい思ってしまうほど・・・。したがって、この映画の本来のテーマは寿梨と日南子を主人公とした自分探しの旅だが、実はホントの主人公はケイタイメール。
<小学校6年生に太宰治は・・・?>
小学校6年生の卒業式の日、図書館の中で2人きりとなった寿梨と日南子が交わした会話は、「本物の自分」と「偽物の自分」という深遠で哲学的なテーマ・・・?そんな早熟性にも驚いたが、そこで日南子が「太宰治を知ってる・・・?」と寿梨に問いかけたことにもビックリ・・・。こりゃまるで、私がやっと大学の受験勉強から解放されて、大学に入学した時に友人たちと交わした会話・・・?今ドキの女の子って、小学校6年生の時に太宰治を読んでいるの・・・?それは、ちょっと信用できないけど・・・?
<ケイタイ小説の出来は・・・?>
今は文庫本の小説でも少し「重い」ため、名作のエッセンスをまとめた安易な本がヒットしているらしいが、近時それ以上に注目されているのがメールで配信される軽いノリの小説らしい。したがって、今は難しい顔をしながら原稿用紙とにらめっこをしている小説家像などというものは全く存在せず、軽いノリでケイタイメールに打ち込んでいく小説が主流・・・?
すると、今は高校生となり文芸部に属している寿梨が、自分の体験を基に書き下ろしているケイタイ小説(?)『ヒナとコトリの物語』の出来は・・・?文芸部顧問、田村博之先生(高岡蒼甫)はこれを誉めていたから、かなりのもの・・・?
他方、高校生となった日南子の机の前には、立派な太宰治全集(の1冊)が置かれていたから、日南子はホントに太宰治を読んでいたのかも・・・?
<「本物の自分」VS「偽物の自分」・・・>
この映画の冒頭に流れてくる寿梨のナレーションによると、小学校6年生のクラスの中、とりわけ女の子の中では、どこでも「いじめられっ子」と「クラスの人気者」そして「フツーの子」に分類され、それぞれその役割を担わされることになるそうだ。それは、私にもわからないではないが、ちょっとしたきっかけで、ある日女の子の怒りを買い、突如クラスの人気者からいじめられっ子に転落してしまうケースもあるというから難しい。
この映画の主人公寿梨はフツーの子だが、人気者からいじめられっ子に転落したのが日南子。さらに寿梨のナレーションによると、フツーの子である寿梨がどんな生き方をしているのかというと、学校では友達に合わせ、家庭では両親に合わせ、とにかく自分をフツーの子の地位で安定させるべくいつも演じているのだそうだ・・・。したがって、寿梨はいつもそんなフツーの子を演じている自分に違和感をもっていたというのが、この映画の大きなテーマ・・・。
生物学的・肉体的に男より女の方が早熟だから、小学校6年生の時点では、その思考性も女の子の方が早熟なのは当然。しかし、こんなナレーションを真正面から聞かされると、やはり考えさせられることに・・・。さらに、卒業式の日、図書館の中で交わされたこの2人の、「本物の自分」と「偽物の自分」についての会話を聞いていると、ホントにビックリ・・・。
<両親の不和と離婚の影響は・・・?>
寿梨にとって中学受験は自分のためではなく、ハッキリ両親のためらしい・・・?私などは「そんなバカな・・・」と思ってしまうが、寿梨はホントにそう思い、両親の気に入ってもらうために日々頑張っているらしいから仕方なし・・・?父親の正が何の仕事をしているのかわからないが、両親と子供2人の一家4人がそれなりに立派な一戸建てに住んで生活しているから、寿梨の家庭は中の上のはず。もっとも、父親は母親さつきとよく言い争いをしているから、夫婦仲はあまりしっくりいっていない様子。その結果、寿梨が中学生の時ついに両親は離婚し、兄は父親と、寿梨は母親と共に生活することに・・・。
私が多少不満なのは、この映画では夫婦ゲンカも離婚成立も、そして離婚成立後の別々の生活も、あまり現実味が感じられないこと。例えば、現実問題としては、離婚後さつきと寿梨がこんな裕福な(?)生活をするのは無理なのではないかと思うのだが・・・?まあそれは、この映画ではどうでもいいことかもしれないが、もっと不思議なのは、両親の不和や離婚が寿梨の気持に何の影響も及ぼしていない(?)こと。これは、小学生の時から、自分は自分、両親は両親と割り切って生きてきたことの成果なのだろうが、ホントにそんなことが思春期の女の子にできるのか、私にはかなり不思議なところ・・・。
さらにそれは、さつきの新たな恋人上島浩二(田口トモロヲ)から再婚の話が出て、「お母さんだけではなく、寿梨ちゃんも僕が責任をもって世話するから」と言われたのに対して、「私には関係ないヨ」とサラリと受け流していることでも明らかだ。しかし、ここまで割り切れることになると、それはもはや悟りの境地・・・?
<『ヒナとコトリの物語』とは・・・?>
この映画のエッセンスは、何といっても寿梨が日南子にケイタイメールで送り始めた、名づけて『ヒナとコトリの物語』という小説。中学校でも「いじめられっ子」を続けている日南子に対して、寿梨は同じクラスにいながら全然声をかけられない状態が続いていた。そんな状態のまま高校生となり、寿梨は日南子と没交渉に・・・。
ところがある日、友人から聞いたうわさ話によると、日南子は山梨に引っ越したとのこと。そこで、寿梨が日南子のメールアドレスを聞き送り始めたのが、自分をコトリと偽ったうえでの日南子へのメールだが、一体なぜ寿梨はそんな行動を・・・?それがわからなきゃ、あなたは思春期の女の子の微妙な心の動きについていけないこと明らか・・・。そしてこの映画を観れば、それをしっかり学ぶことができるから、この映画は大いにお薦め・・・?
<制服あれこれ・・・>
この映画は、ホントに真面目な意味で、思春期の女の子の微妙な心の動きをうまく表現した映画としてお薦め作。他方、スケベおやじ的視点から言うと、女子中・高生の制服姿に興味をもつおじさんたちはたくさんいるはずだから、そんなおじさんたちの視覚を満足させてくれるという意味でもこの映画はお薦め・・・。すなわち、ブラウスにネクタイ、ベストにブレザーそしてV字セーター、さらにチェックや無地のプリーツスカート等々、ファッションショーのように2人の主人公がさまざまな制服姿を披露してくれるから、あなたにはそれが大いに楽しみ・・・?
さらに内緒で教えてあげると、寿梨と日南子の入浴シーンも少しはあるヨ・・・。
<「あしたの私」は・・・?>
この映画のタイトルは『あしたの私のつくり方』という前向きなものだから、市川準監督は寿梨と日南子の心の動きとケイタイメールによる対話をスクリーン上に描きながら、何らかの前向きのメッセージを観客に伝えようとしていることは明らか。しかして、それはナニ・・・?それが、この映画を観たあなたが下すべき大切な結論だが、さて・・・?
団塊世代の私がこの映画を観ていると、寿梨や日南子の心の動きはたしかに理解はできるものの、他方で、「じゃあ、なぜ○○しないの?」「なぜそんな行動をとるの?」と思うことが多く、ついイライラ・・・。したがって、この映画を観て下すべき結論は何ら特別なことではなく、ごく当たり前のこと。それは、本物の自分も偽物の自分もなく、この自分もホント、あの自分もホントだということ。したがって、そこから導かれる結論は、ありのままに生きるのが1番ということでは・・・?
高校1年生の終わりを迎えるとともに、寿梨と日南子が『ヒナとコトリの物語』を終わらせ、ナマの自分を見せ合ったのは、そんな当たり前の新たな生き方を見つけたせい・・・?そして、そんな当然の生き方は、寿梨と日南子の2人だけではなく、すべての大人に共通するはずでは・・・?
<『あしたの私のつくり方』VS『サマリア』>
この映画は思春期の女の子の心理を描いた映画としてよくできているが、やはりケイタイメールを媒介とした、いかにも今風日本の女子中・高生の姿が基本。これを観て私が思い出し、対比させたのはキム・ギドク監督の『サマリア』(04年)。これは、援助交際をしている2人の女子高生を主人公とした哲学的で味わい深い物語。したがって、「援助交際」行為の終了後、一方の少女の死、援交をした男への父親による報復、そして父と娘の別れというドラスティックな動きをたどっていく(『シネマルーム7』396頁参照)から、『あしたの私のつくり方』のような平和的な収まり方(?)とは大違い・・・。どちらがいいかは別として、日韓の違い、そして市川準監督とキム・ギドク監督の違いが、そういうところに・・・?
2007(平成19)年4月5日記