300 スリー・ハンドレッド(アメリカ映画・2007年) |
<OSシネマズミント神戸>
2007年6月13日鑑賞
2007年6月15日記
『シン・シティ』(05年)に続くフランク・ミラー原作のグラフィック・ノベルの映画化だから、まずはモノトーンで劇画タッチの斬新な映像に注目!次に「スパルタ教育」の原形を確認のうえ、「退却しない。降伏しない。ひたすら戦うのみ」という哲学(?)をしっかり味わってみよう。そしてテルモピュライの戦いが起きた紀元前5世紀のスパルタの国政や軍政さらに女性の地位等についても考察のうえ、なお余力があれば、「ペルシャ戦争」の歴史的な位置づけやその後の展開まで勉強してみては・・・?そうすれば、この映画は2倍、3倍においしくなるはず・・・。
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監督・脚本:ザック・スナイダー
製作総指揮:フランク・ミラー
原作:フランク・ミラー、リン・バーリー『300<スリー・ハンドレッド>』(小学館プロダクション刊)
レオニダス(スパルタ王)/ジェラルド・バトラー
ゴルゴ(スパルタ王妃)/レナ・ヘディー
クセルクセス(ペルシア王)/ロドリゴ・サントロ
隊長/ビンセント・リーガン
ディリオス(スパルタの戦士)/デイビッド・ウェナム
ステリオス(スパルタの若き兵)/マイケル・ファスベンダー
ダクソス(アルカディア人の民兵)/アンドルー・プレビン
エフィアルテス(障害をもつスパルタ人)/アンドルー・ティアナン
セロン(議員)/ドミニク・ウェスト
ワーナー・ブラザース映画配給・2007年・アメリカ映画・117分
<ペルシャ兵100万人は、白髪三千丈と同じ・・・?>
中国は広大な大陸だから、秦の始皇帝陵や長安の都など何でも規模がデカいのは当然。逆に言えば、日本は小さな島国だから平城京・平安京にしてもすべて中国のミニチュア版・・・?
そんな中国は、昔から表現や形容の仕方も誇張気味で、その代表が白髪三千丈・・・?本当に白髪が三千丈もあれば、そりゃえらいこと。もっとも、「万里の長城」は誇大表現ではなく、本当に万里あるのかも・・・?
なぜこんなことを書いたかというと、この映画のテーマは300人のスパルタ戦士が100万人のペルシア兵と戦ったことだが、さて、それをホンマかいな?と素朴に疑問に思ったため。パンフレットには、紀元前480年8月に実際に起こったテルモピュライの戦いについて、「南下を進めるペルシア遠征軍と、スパルタを中心とするギリシア連合軍との間で行われた戦闘」と解説され、さらに「ヘロドトスの歴史書によれば、ギリシア連合軍の軍勢は、スパルタの重装歩兵300人を中心に、総勢5000人余り。対するペルシア軍の総数は200万人以上であったとされる」と書かれている。しかしネット情報で調べたところ、このテルモピュライの戦いは、スパルタ戦士300人を中核とするギリシア連合軍5200人に対し、アケメネス朝ペルシア戦力は21万人とされている。また、「以上はヘロドトスの述べる数字である。ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、6万から21万までさまざまな推定がされている」とのこと。したがって、100万人というこの映画の設定や200万人というパンフレットの解説は、いわば白髪三千丈・・・?
<怪人ファントムから一転、スパルタ戦士へ!>
この映画のチラシや新聞の宣伝を見た人は、真っ黒なあごひげを蓄えたスパルタ王レオニダスの、短パン(?)とマントをつけ、剣と盾を持った異様な(?)戦士姿が印象に残るはず。その口は大きく開かれているが、これは何かを大声で叫んでいるためであることは明らか。
ところで、この俳優は一体誰・・・?一見しただけでは誰かわからないし、その俳優名がジェラルド・バトラーだと聞いても「さて、誰だっけ?」と思う人が多いはず・・・?そこでパンフレットを読んで驚いたのが、このジェラルド・バトラーは、感動的なミュージカル映画『オペラ座の怪人』(04年)で見事な美声を聴かせてくれた、あの怪人ファントムを演じた俳優(『シネマルーム7』156頁参照)!ジェラルド・バトラーはこの他にも、『サラマンダー』(02年)や『トゥームレイダー2』(03年)、『タイムライン』(03年)に出演していたから私はそのすべてを観ているわけだが、俳優の名前はなかなか覚えられないし、顔と一致させるのはさらに難しいもの。
それはともかく、怪人ファントムから一転、スパルタ戦士への変身ぶりとその落差の大きさ(?)にビックリ!
<原作のフランク・ミラーが製作総指揮を・・・>
この映画の原作は、フランク・ミラーが描いたアメリカのグラフィック・ノベルの『300<スリー・ハンドレッド>』。フランク・ミラーは、『デアデビル』や『バットマン:ダークナイト・リターンズ』『バットマン:イヤーワン』などの原作者として、アラン・ムーアと並び現代最高のライターと名高いアメリカのコミックライター兼アーティスト。ちなみに「グラフィック・ノベル」とは、ネット情報によれば「通常は長く複雑なストーリーを備えた、しばしば大人の読者が対象とされる、厚い形式のアメリカン・コミックを指す用語」とのこと。つまり、子供向けのコミックと区別する意味で使われる用語だ。
フランク・ミラーはまた、日本の漫画(劇画)、とりわけ小池一夫原作の『子連れ狼』の影響を強く受け、武士道の精神に強く惹かれていることは、『RONIN(浪人)』や『シン・シティ』シリーズの女刺客ミホなどを見れば明らか。
そんなフランク・ミラーの原作『300』を映画化するについて、フランク・ミラーは『俺は、君のためにこそ死ににいく』(06年)で石原慎太郎東京都知事が製作総指揮を執ったのと同じように、製作総指揮を・・・。
<『シン・シティ』VS『ルネッサンス』VS『300』>
フランク・ミラーが自分自身の原作をロバート・ロドリゲス監督と共同監督したのが、映画『シン・シティ』(05年)。これは白黒の美しい映像と俳優たちによる原作そっくりの劇画風ハードボイルドタッチの演技(?)を特徴とする面白い映画だった(『シネマルーム9』340頁参照)。
近時、映像ビジュアル技術の進歩はすさまじく、6月1日に観た『ルネッサンス』(07年)では、アニメと実写の融合が図られていたし、6月6日に観た『Genius Party』(07年)では、7人の若き才能が美しい映像づくりにチャレンジしていた。しかして、この『300』は基本的に『シン・シティ』の延長線上にある映像だが、『300』に特徴的なのは大スペクタクルシーン。紀元前1世紀のローマ帝国を舞台とした奴隷の反乱を描いた、スタンリー・キューブリック監督、カーク・ダグラス主演の『スパルタカス』(60年)は私が中学生の時に観た映画で、今でも強く印象に残っているもの。そして、これはあくまで実写だから、大勢のエキストラを集めて撮影したもの。しかし、『300』ではそれはすべてCG合成されたもの。
そんな『300』における新しい映像技術がこの映画の見どころの1つ。『シン・シティ』『ルネッサンス』そして『300』のそれを、よく見比べてもらいたいものだが・・・。
<密集陣は最強の戦法・・・>
映画『サハラに舞う羽根』(02年)では、反乱軍に取り囲まれたイギリス軍が必死の「角陣」を敷いて戦っていた(『シネマルーム3』244頁参照)が、この「角陣」の原型が、この映画で300人のスパルタ戦士が見せる密集陣・・・?これは、盾で自分たちの身体を完全に覆って弓矢を防ぐとともに、正面の敵との戦いにおいては、押し合いを含めた一糸乱れぬ集団行動をとる戦法。たしかに、常日頃鍛練を怠らず、また犠牲者が出た場合は直ちにその補充をしながら、あくまで集団として敵に立ち向かうこの戦法は合理的で、最強の戦法。そんな迫力ある戦闘シーンが、100万人のペルシア兵との間で展開されるから、それがこの映画最大の見モノ!
<スパルタ教育とは・・・?>
2007年6月13日付日経新聞夕刊の「駆ける魂」は、プロゴルファーの中島常幸を「父からスパルタ教育」という見出しで取りあげた。「「藍ちゃん」に「ハニカミ王子」。幼いころからクラブを握ったジュニア出身の選手が、ゴルフ界を席巻している。小学4年から「スポ根」を地でゆく猛練習で、父の巌からゴルフをたたき込まれた中島常幸は、そのはしりと言っていい」というわけだ。
スポーツ界に限らず、勉強の世界でも芸術の世界でも高度経済成長時代の中、「頑張れ、頑張れ!」を合言葉にひたすら前向きにスパルタ教育を仕掛けてきたケースは、日本では数多い。つまり高度経済成長時代の日本には、スパルタ教育という言葉とその効用がすんなり受け入れられ、定着したわけだ。しかし、戦後60数年を経た今は、スパルタ教育は大きく減少し、ヘタすると死語になる危険も・・・?
この映画では冒頭、ナレーションとともに、①戦士になれないと判断された子供は、生まれた時に谷底に捨てられる、②子供は7歳で母親から隔離され、12歳から本格的な軍事教育を受ける、③一人前の男として戻ってこられるのは、狼との1対1の戦いを制した者だけ、という本場のスパルタ教育の実態が示されるから、これに注目を!
これだけの軍事訓練を受けた一騎当千のスパルタ戦士300人の総合的な戦闘力はそりゃすごいもの。したがって、これを率いるレオニダスが「絶対に退却しない。絶対に降伏しない。ただひたすらに戦うのみ」と、隊長(ビンセント・リーガン)やスパルタの戦士ディリオス(デイビッド・ウェナム)そしてスパルタの若き兵ステリオス(マイケル・ファスベンダー)らに叫びまくっているのも、あながち虚勢ではなく、それなりの自信に裏づけられたもの・・・?
<王制と議会のバランスは・・・?>
ネット情報によると、スパルタの国政は、「2人の世襲の王が並立し、その権限は戦時における軍の指揮権などに限定されていた」とのこと。また、「長老会は民会の決定に対して拒否権を有し、事実上の最高決定機関であり」、さらに「民会によって毎年5人の監督官が選ばれて、王を含む全市民に対する監督権と司法権を有した」とのこと。その他スパルタにおける土地の均等配分、装飾品の禁止、共同食事制などは興味深い制度。
この映画では、レオニダス王と民会の議員セロン(ドミニク・ウェスト)との「対立」の中に、王制と議会とのバランスのあり方を見ることができる。セロンは、もともとレオニダス王が議会の意思を無視し、単独で300人の戦士を動員したことに対して批判的。そのうえかなり狡猾な人物だったようで、民会での軍隊出動の議決を得るべく王妃ゴルゴ(レナ・ヘディー)が民会で演説するについて、ある淫らな条件を・・・?そのうえ、議会において見事な演説を終えた王妃を陥れるため、「王妃が女の武器で私を誘惑してきた」と誹謗中傷したから大変・・・。
これはいわば、日本の自衛隊の一部が独断で先行出動した後、国会で自衛隊全体の出動を決議するようなものだから、その決議の重大性は言うまでもない。さて、スパルタ民会の決議はいかに・・・?
<東洋的神秘に包まれたペルシア軍・・・?>
西洋的合理主義の国家であるギリシアから見れば、その東にあるペルシア帝国は東洋的神秘に包まれた未知の国・・・?原作者フランク・ミラーはきっとそんなイメージの原画を描いているのだろうと思うが、スクリーン上にはそのイメージどおりのクセルクセス王(ロドリゴ・サントロ)やその親衛隊である不死部隊(アタナイト)の姿が登場する。また、正面からの正攻法ではスパルタ戦士に対抗できないと悟ったペルシア軍は、怪力男や巨大ゾウ、巨大サイなどの珍しい兵器を導入してくるから、これが面白い。
いくらCG合成といっても、一体どんな技術でこんな映像が実現できるのか私にはわからないが、これぞグラフィック・ノベルの世界のスクリーンへの投影という満足感でいっぱいに・・・。
<いつの時代にも、どの戦いにも、裏切りが・・・>
天下分け目の関ヶ原の合戦は、石田三成率いる西軍の一翼で布陣していた小早川秀秋が徳川側に寝返ったため、それまで一進一退であった状況が一挙に東軍優位に傾くことになったことは有名な事実。戦争が人間社会の中で生まれ、戦争を人間が指揮する以上、いつの時代にも、どの戦いにも裏切りが・・・。
この映画異色の存在は、第1にアルカディア人のダクソス(アンドルー・プレビン)。彼はスパルタ戦士300名を中核とする約5000名のギリシア連合軍に加わった民兵の1人だが、その役割は何とも微妙なところ・・・?
第2の異色な存在で、テルモピュライの戦いの帰趨を実質的に左右するほど重要な役割を果たすのが、身体に障害をもつスパルタ人のエフィアルテス(アンドルー・ティアナン)。身体に障害を抱えながらも全力で戦うことを誓い、レオニダスの戦士となることを切望したものの、レオニダスの判断はノー。なぜなら、スパルタの戦士として戦うには、槍や剣と共に盾を自由に使いこなせることが必須条件。ところが、身体に障害をもったエフィアルテスにはそれが無理だったからスパルタ戦士に加わることはできないという、冷酷(?)な判断が下ったわけだが、それはある意味当然。しかし、それを不満に思ったエフィアルテスは・・・?
明智光秀がなぜ織田信長への裏切りを決意したのかについては諸説があるが、酒の席で主君から罵倒されたのが1つの原因らしい・・・。したがって、レオニダスの判断に不満をもったエフィアルテスがペルシア側へ寝返ったとしても、それはやむをえないかも・・・?
<テルモピュライの戦いにおけるレオニダス王の狙いは・・・?>
この映画は、レオニダス率いる300名のスパルタ戦士たちの生きザマ(死にザマ?)とその勇猛果敢な戦いぶりを描くことをメインにしているため、ギリシア連合全体の中におけるスパルタの位置づけやペルシア戦争そのものの位置づけなど、歴史の勉強上大切な視点はあまり紹介されていない。ただ理解できるのは、レオニダスは自分たちのこの戦いを歴史に残るものとすることを狙ったということ。
たしかに、勇猛果敢なこのテルモピュライの戦いは、ネット情報ですぐに検索できるほど今日まで歴史上の事実として残っているから、レオニダスの狙いは達成できたのだが、私に言わせれば、それだけの狙いでは300名の玉砕の説明としては抽象的にすぎるのでは、ということ。つまり、何かもっと具体的な獲得目標をスパルタの戦士たちに与える必要があったのではということだ。
<スパルタ戦士300名の玉砕VS硫黄島の玉砕>
そこで思い出すのが、クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作で有名になった、栗林忠道中将率いる約2万の日本軍守備兵の硫黄島における玉砕。制海権・制空権を断たれ、武器・弾薬・食料の補給もできず、玉砕覚悟の日本兵に対して、栗林中将が与えた任務は、①ギリギリまで死ぬな、②1人でも多くのアメリカ兵を殺せ、そして③1日でも長く硫黄島で米軍をもちこたえろ、ということ。これは、それによって少しでも本土の防衛準備を整えさせようという具体的な獲得目標を示したものだから、この点がレオニダスが示した抽象的な目標とは大違い・・・?もっとも結果としては、スパルタ戦士はテルモピュライの戦いでペルシア軍の侵攻を3日間もちこたえたため、その間にアテネ海軍にペルシア軍を海上で迎え撃つ体制を整えることを可能にさせ、サラミス沖の海戦で勝利することになったから、300名のスパルタ戦士の玉砕は戦略的に大いに意義があったことはまちがいない。しかし残念なのは、その戦略的意義が事前に明確にレオニダスの口から示されなかったこと。
硫黄島の場合は、5日間で落とす予定が36日間もかかり、また戦死者がはじめて日本軍よりアメリカ軍が上回ったという形で、栗林中将が示した具体的な目標を達成することに。さらに副次的には、こんな日本軍と日本本土で戦ったら米軍の犠牲が大変だという恐怖心を植えつけ、それが多少なりともポツダム宣言において、天皇制の維持などアメリカが日本側の条件を受け入れたことになったという説もあるから、栗林中将に率いられた硫黄島の守備兵も少しは浮かばれるのでは・・・?
2007(平成19)年6月15日記