酔いどれ詩人になるまえに(アメリカ、ノルウェー合作映画・2005年) |
<テアトル梅田>
2007年9月30日鑑賞
2007年10月5日記
多くの日本人がその名前すら知らない、アメリカの無頼派作家チャールズ・ブコウスキーの酒、オンナ(セックス)遍歴を描いた映画がコレ。そんなものを観て何が面白いの?と思うのも当然だが、「作品の価値を最後に決めるのは作家自身だ」という信念で書き続ける姿がいい。と言っても、これはやはり結果が「成功」と出されたうえでの回顧録だから、若い人はあまり真似をしない方がいいかも・・・?そうでないと、とんでもないドツボに入る危険も・・・?
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監督・脚本・製作:ベント・ハーメル
ヘンリー・チナスキー(チャールズ・ブコウスキーの分身)/マット・ディロン
ジャン(チナスキーの恋人)/リリ・テイラー
ローラ(チナスキーの新しい女)/マリサ・トメイ
ピエール/ディディエ・フラマン
マニー/フィッシャー・スティーヴンス
ジェリー/エイドリアン・シェリー
グレース/カレン・ヤング
バップ、ロングライド配給・2005年・アメリカ、ノルウェー合作映画・94分
<これは、一体何の映画・・・?>
映画ファンを自認するあなたであっても、『酔いどれ詩人になるまえに』というタイトルを見ただけでは、またドイツ生まれのアメリカの詩人・小説家チャールズ・ブコウスキーの若き日の作家修行時代を描いた映画、と聞いても何の映画かサッパリわからないはず。だって、チャールズ・ブコウスキーという詩人・作家自体を多くの日本人は知らないだろうし、ましてや彼が20代の1940年代にアメリカで、どんなアウトサイダー的な生き方をしてきたのかについて興味をもつ人は少ないだろうから・・・。
チャールズ・ブコウスキーって一体誰・・・?そしてこれは、一体何の映画・・・?
<無頼派作家あれこれ・・・>
これに対して日本には無頼派作家は多い。「最後の無頼派」と言われたのが壇一雄だが、坂口安吾、太宰治、織田作之助、石川淳、伊藤整などあの時代の錚々たる作家には、今と違って(?)無頼派がゴロゴロ・・・?彼らが若い時どんな破天荒な生き方をしてきたのかについてなら、日本人はある程度知っているが、アメリカの詩人・作家チャールズ・ブコウスキーでは・・・?
緒形拳が壇一雄役で主演した『家宅の人』(86年)は面白かったが、『酔いどれ詩人になるまえに』のテーマも、まあそれと似たようなもの。といっても、この映画で描かれるチャールズ・ブコウスキーの分身であるヘンリー・チナスキー(マット・ディロン)はまだ20代だから、結婚や子供は関係なく、酒とセックスがメイン。
<子供の教育上は・・・?>
そういう意味では、この映画は子供の教育には何の役にも立たない、むしろ有害と思えるもの。ちなみに、久しぶりに両親の家に戻ったチナスキーを母親はやさしく迎えてくれたが、父親は仕事もしないで朝から酒の臭いをプンプンさせている息子にあきれ果て、おかんむりだったのは当然。したがって父子の会話のたびに対立が高まり、挙げ句の果ては、「酒は必要。またそれ以外にも女のケツが必要」とうそぶく息子に対して父親がブチ切れ、息子を叩き出したのは、ある意味当然・・・。
もっとも、別の観点からは、こんな映画を観ることによって無頼派に対する免疫力をつけておく必要もあるとは思うのだが・・・?
<酒も女もいいが、たまには仕事も・・・?>
私はたまたま大学を卒業した年に司法試験に合格できたからよかったものの、学生運動あがりの私が就職でハネられて、労働組合の専従にでもなっていたら、その後の人生は全く違うものになっていたはず・・・。
チナスキーには心の中から湧きあがってくる言葉があり、それを表現することが生きていることの証だったよう。そのうえ彼は、「作品の価値を最後に決めるのは作家自身だ」という妙なプライドを持っていたよう。そんな20代の若者が酒と女(セックス)に没頭していくのは当然だが、それはそこにしか本当の真実がないから・・・?つまり、世の中はすべて欺瞞に満ちており、インチキばかりが横行しているから。そんな欺瞞やインチキに対する拒絶反応が強いわけだ。
そんな考え方の男が、まともな会社に就職できるはずがないのは当然。また、たとえバイトであっても、勝手に仕事を抜け出してバーに入って酒を飲むような仕事ぶりでは1日でクビになるのは当然。しかし面白いのは、そんな男であっても(そんな男なればこそ?)、無頼派として奇妙な魅力があるもので、女には不自由しないらしい。今日もブラリと立ち寄ったバーのカウンターで一人で座る女ジャン(リリ・テイラー)の隣に座り、スコッチを1杯ごちそうしてやれば、それだけで2人の心が通じたと見えて、チナスキーはそのままジャンのアパートへころがり込むことに・・・。酒も女もいいが、たまには仕事も・・・?
<飲む、打つ、買うVS飲む、買う、書く・・・?>
ふつう男の三大道楽は「飲む、打つ、買う」だが、チナスキーは「飲む」と「買う」だけで「打つ」方には全然興味がなかったよう。それに代えて、「書く」という天職があったようで、飲む、買う以外の時間は専ら「書く」に費やしていたようだ。また彼の場合は、「飲む」にも2つのパターンがあり、外のバーで飲む時はきっと女絡みだっただろうが、自宅で飲むのは書くことに伴うもの。
それほど膨大な時間を費やしていた書くための時間は、毎週のように出版社に郵送する原稿となって形をあらわしていたが、残念ながらボツの連続。それでも彼は、「作品の価値を最後に決めるのは作家自身だ」という自負心をもって書き続けていたから偉い!
<一時は競馬にも・・・>
そんなチナスキーも一時だけ競馬に凝ったことがあったようだ。この映画の原作となっているのは、1975年にブコウスキーの長編小説の第2作目として出版された自伝的小説『勝手に生きろ!』とのことだから、チナスキーが一時競馬にのめりこんだという話はきっと真実。賭け事にはビギナーズ・ラックというやつがよくあるもので、チナスキーの場合もまさにそれ。たまたま就いた新しい職場には、その方面にえらく行動力のある同僚がおり、会社の終了と同時に会社を飛び出して競馬場に駆けつけたところ、ギリギリセーフで馬券を買うことができた。そして見事にそれが大当たり・・・。
こうなると「俺には競馬の才能がある」と思い込むのが人の常・・・?その同僚と共にチナスキーは、以降職場の人たちの小金を集めてはせっせと競馬場通いを続けたが、さてその結果は・・・?
若い時は、多少悪いことでも、道を踏みはずしたことでも何でもやればいいが、ダメなのはそれにのめり込んでしまうこと。酒とオンナの他、バクチにものめり込んでしまうと、チナスキーの将来は危ういが・・・?
<なぜ、続かないの・・・?>
チナスキーも変な男なら、ジャンも変な女。この2人が結びついたのは、見栄も外聞もなく自由気ままに生きたいという欲求とセックスの欲求がピタリと合致したため。そのため日に4回のセックスをこなしていたというからすごい。ところが、その欲求の度合いはやはりチナスキーとジャンとで微妙にくい違っていたよう。すなわち、チナスキーが競馬に凝って稼いでいる時、彼はそれに夢中になっていたから、ジャンとのセックスはしばらくごぶさただったらしい。すると、たちまちジャンはおかんむり・・・?
そのうえ、チナスキーが競馬で稼いだ金で高級スーツや靴を買ったりすると、そんな姿はジャンの目には俗物と映ったようで、とたんに拒絶反応・・・。やはり男と女が気ままに同棲生活を続けるのは難しいもの。こうなると、ジャンのアパートにころがり込んで一緒の生活を続けていたチナスキーが、ジャンの部屋を出ていく日は間近・・・?
<チナスキーには、女はいくらでも・・・?>
前述のように、この映画は無頼派作家ブコウスキーの自伝的小説を元にしたものだからウソやハッタリはないはずだが、チナスキーはもて過ぎ・・・?ジャンの家を出たチナスキーが行くところはバーしかないが、わずかのコインしか持たないチナスキーが気前よく(?)女に酒をおごってやると、またしても女の方からチナスキーに関心を示してくることに・・・。
この新しい女がチナスキーを連れていったところは、オペラ作家をしているパトロンのスケベじじいの家。そこには彼が面倒をみている女が数人おり、ここに奇妙なグループが成立することに。私にはこんなケッタイな出会いとケッタイなグループのあり方はサッパリ理解できないが、「事実は小説よりも奇なり」だから面白い・・・。もっとも、そんな奇妙な生活がいつまでも続くはずはなく、ある日パトロンのじじいは死亡し、それによって、チナスキーと新しい女との関係もジ・エンドとなってしまった。さあ、チナスキーはこれからどんな生き方を・・・?
<両親との決別、ジャンとの再会、しかし・・・?>
私の映画評論は映画のストーリーを詳しく紹介することが目的ではないが、ここまではかなり詳しくチナスキーと酒とオンナそしてバクチとの関わりを紹介してきた。それは、無頼派作家、酔いどれ詩人の20代の生きザマをよくあらわしていると思ったし、多少うらやましいナと思う感情も入っていたから・・・?しかし、彼の自由気ままな生き方については、ここまで紹介すれば、十分だろう。以降スクリーン上では、仕事を次々とクビになるチナスキーの様子や両親と決別するについてチナスキーが述べるひどいセリフのシーンなどが登場するが、それはあなた自身の目で・・・。
私が意外だったのは、八方ふさがりとなったチナスキーが再び求めたのはジャンだったということ。そしてそれ以上に意外だったのは、ジャンは今でもチナスキーを愛していると言ってスンナリ彼を受け入れたこと。ふつう、こういうパターンは少ないはず。つまり男は別れた女を頭のどこかで懐かしく思い、復縁できたらと願う動物だが、女は別れた男のことなどすっぱりと忘れてしまい、「ヨリを戻そう」と言ってきても迷惑なだけという動物のはずだ。さてジャンとの再会とその受け入れそしてその後の展開は・・・?
<職安のシーンと最後のシーンは・・・?>
この映画は94分とわりに短いものだが、映画の最初から最後まで、一方で酒とタバコそして女(セックス)に明け暮れながら、他方で原稿を書き続けポストに投函し続けるチナスキーの生活ぶりが描かれていく。そんな中、少し異質なシーンは、まず職安のシーン。ここでチナスキーは酒の匂いをプンプンさせた老人と出会い、この2人の間で興味深い哲学論(?)が展開されるが、これはやはり、チナスキーが同じ種類の人間だと親しみをもたせるため・・・?職安の事務所から追い出された2人の男が、路上に座ってウィスキーを回し飲みしている姿は一見みじめそのものだが、当の本人たちは全然そう思っていないところが面白い・・・?
そしてもう1つは最後のシーン。これは、1人ストリップバーに入ったチナスキーが、1枚ずつ脱いでいく踊り子の踊りをみながら何やら自分の人生を考えているシーン・・・。ここで彼の頭の中をめぐっている感情は後悔、失望、挫折、絶望・・・?いやきっとそうではないはず。それは希望であり、光であり、力であるはずだ。そんな風に思わせてくれるのは、何よりもチナスキーの書くことへの欲求であり、そんな風に思わせてくれるところがこの映画のすばらしさだと私は思うのだが・・・。
2007(平成19)年10月5日記