明日への遺言(日本映画・2008年) |
<角川映画試写室>
2007年12月26日鑑賞
2007年12月28日記
『プライド 運命の瞬間』(98年)に続いて、「あの戦争」とB級戦犯の「法戦」を描いた名作が登場!安易な企画が多い昨今、映画人の良心を結集したこんな良質な映画こそ大ヒットしてほしいが、東条英機と岡田資(たすく)では知名度が大違い。そのうえ、略式手続による米軍捕虜の斬首の是非や、無差別爆撃が国際法に違反するか否かという「争点」も難しいから、さて・・・?
裁判員制度の実施を控えた今、この映画は法廷ドラマとしても絶好の教材だから、その方面の関係者は必見!
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監督:小泉堯史
脚本:小泉堯史、ロジャー・パルバース
原作:大岡昇平『ながい旅』(角川文庫刊)
プロデュース:原正人
岡田資(たすく)中将(元東海軍司令官)/藤田まこと
岡田温子(はるこ)(岡田中将の妻)/富司純子
フェザーストン(主任弁護人)/ロバート・レッサー
バーネット(主任検察官)/フレッド・マックィーン
ラップ大佐(裁判委員長)/リチャード・ニール
町田秀実(元東海軍軍需監理局第一部長、弁護側証人)/西村雅彦
守部和子(鉄道局車掌、弁護側証人)/蒼井優
水谷愛子(真生塾孤児院院長、弁護側証人)/田中好子
杉田中将(元陸軍省法務局長、検察側証人)/児玉謙次
武藤少将(元法務官、検察側証人)/松井範雄
相原伍長(元東海軍経理部、検察側証人)/頭師佳孝
ナレーター/竹野内豊
2008年・日本映画・110分
配給/アスミック・エース エンタテインメント
<立派な企画、良質な映画づくりに拍手!>
この映画は、『雨あがる』(00年)、『阿弥陀堂だより』(02年)、『博士の愛した数式』(06年)という、「今、最も良質な日本映画を送り出す監督として、注目を浴びている」小泉堯史監督が自ら脚本を書いて完成させたもの。黒澤明監督に師事していた彼は、「黒澤さんには常々『脚本を書かなくては駄目だよ』と、強く諭されていました」とのこと。そこで、大岡昇平の原作『ながい旅』と岡田中将の『毒箭』を元に書きあげた渾身の脚本がこれ。
ヒットするなら内容は問わないという傾向が強まっている昨今の映画界で、今ドキの若者は誰も知らないであろう岡田資という人物がB級戦犯として裁かれる中、いかに日本人として模範となる生き方と死に方をしたのかを見せる、こんな映画をヒットさせるのは大変。そんな中、よくぞこんな立派な企画を立て、良質な映画づくりをしてくれたものと感心するとともに、そんな小泉堯史監督に拍手!
<冒頭のシーンとナレーションに注目!>
映画の冒頭、スクリーン上に登場するのはピカソのゲルニカの絵。これは一体何を意味するの・・・?そこでまず、観客の集中力は高められるはず。
映画にナレーションを多用するのは私はあまり好きではないが、この映画では竹野内豊がナレーションを担当している。そしてゲルニカの絵をバックに流れるナレーションは、「爆撃は軍事的目標に対しておこなわれた場合にかぎり適法とする」という、1923年オランダのハーグで開かれた戦時法規正委員会での宣言を紹介したうえ、1937年4月26日ナチス・ドイツがスペイン北部の小都市ゲルニカで行った、史上はじめての無差別爆撃を非難するもの。第1次世界大戦について、モンロー主義にもとづいて当初「光栄ある孤立」主義を守ってきたアメリカだったが、さすがにこのゲルニカへの無差別爆撃に対しては、フランクリン・ルーズベルト大統領も非難していたが・・・。
ところが、その後の戦争の実態は、ナチス・ドイツによるロンドンへの絨毯爆撃、その報復としてのイギリスによるドイツのドレスデンへの爆撃、また日本軍による南京、武漢、重慶への爆撃など、無差別爆撃は常態化することに。そして日米戦においては、1945年3月10日に東京大空襲が、そしてこの映画で問題となる5月14日には名古屋への焼夷弾による無差別爆撃が行われることに。
<起訴事実は・・・?争点は・・・?>
A級戦犯とされた東条英機の東京裁判を描いた映画が『プライド 運命の瞬間』(98年)だったが、A級戦犯は「平和に対する罪」の被告人。これに対して、B級戦犯は「通例の戦争犯罪」の被告人、C級戦犯は「人道に対する罪」の被告人。
B級戦犯としての岡田資(たすく)中将(藤田まこと)の起訴事実は、5月14日の名古屋への焼夷弾爆撃で捕虜となった38名の米軍搭乗員に対し、正式の審理を行わず略式手続によって斬首処刑を行ったというもの。そして、これに対する被告人とフェザーストン弁護人(ロバート・レッサー)側の主張は、①無差別爆撃そのものが違法であること、②略式手続での処刑は避けられなかったこと、の2点。このように裁判における争点をしっかりと理解したうえで、この映画の鑑賞を・・・。
<「法戦」とは・・・?>
この映画が法廷ドラマとして面白いのは、ラップ裁判委員長(リチャード・ニール)の横浜法廷における法廷闘争を、岡田中将が「法による戦い」すなわち「法戦」と位置づけ、あくまで自己の主張を貫こうとしたこと。それはちょうど戦時体制下、治安維持法によって弾圧された日本共産党の指導者であった市川正一が、「われわれは日本共産党員であるがゆえにこの法廷に立たされている」と述べて裁判そのものの反人民的性格を法廷で明らかにすべく、自らの主張を堂々と展開したこととよく似ている。「党の発展は必然である。党の勝利、すなわちプロレタリアートの勝利は必然である」という言葉で結ばれた市川正一のこの法廷闘争は、『日本共産党闘争小史』として歴史に残っている。
もっとも、横浜法廷における岡田中将の法律上の主張は前記2点に集約されており、その他は「責任の筋を辿って行けば、司令官たる私の方へ来る。司令官は、その部下が行ったすべてについて、唯一の責任者である」と証言したことにみられるように、すべての責任は自分にあることを前提として部下たちの減刑を狙っていることも明らかだった。
<法廷ドラマとしても一級品!>
この映画は、岡田資中将の生きザマと死にザマを通して彼の人間性を描くことがメインテーマだが、法廷ドラマとしても一級品で見どころがいっぱい。
今日本は裁判員制度の実施に向けて、各地で模擬裁判が実施されている。そんな小手先、あるいは目先の技術論の追求も悪くはないが、この映画にみるバーネット検事(フレッド・マックィーン)とフェザーストン弁護人の法廷におけるやりとりやラップ裁判委員長の訴訟指揮を観るだけでも、法曹界の人はもちろん一般国民も大いに勉強になるはず。
バーネット検事はあくまで攻撃的な性格のようだが、時々見せる人間性はさすがと思わせるもの。やはり検事も温かい人間性が大事・・・。また、フェザーストン弁護人がいかに被告人のためにベストを尽くしているか、法曹関係者はじっくり味わってもらいたいもの。また、そのために執拗に無差別爆撃の国際法違反を追及する姿勢も見習いたいものだ。ちなみに、弁護人と被告人との間の最後の信頼は技術ではなく人間性。長期にわたる「聖戦」の中で培われていく岡田中将とフェザーストン弁護人との信頼関係と絆のあり方もじっくりと味わいたいものだ。さらに、裁判官志望者や裁判員に指名されるかもしれないあなたは、ラップ裁判委員長の公正で適切な訴訟指揮に注目!
<主尋問と反対尋問のテクニックは・・・?>
また、被告人質問に入る前の武藤少将、相原伍長、杉田中将という検察側証人3名と 元東海軍軍需監理局第一部長の町田秀実(西村雅彦)、鉄道局車掌の守部和子(蒼井優)、真生塾孤児院院長の水谷愛子(田中好子)という弁護側証人3名の尋問風景も興味深い。それぞれの主尋問の目的は・・・?逆に反対尋問におけるあの質問、この質問の意図は・・・?
バーネット検事が検察側証人の尋問によって明らかにしようとしたのは、略式手続による捕虜たちの斬首は違法で、岡田中将の行為は殺人だということ。これに対して、フェザーストン弁護人は略式裁判は当時の客観的状況に照らせばやむをえなかったのだという反対尋問を行いつつ、そもそも米空軍による無差別爆撃自体が国際法違反であるという論陣を張ったが、これに対してはバーネット検事から「あなたは米軍全体を裁くつもりか!」との厳しい異議(オブジェクション)が・・・。こんな緊迫した法廷シーンは日本の法廷ではまず見ることができないもの。主尋問と反対尋問の意義を理解したうえ、この証人尋問のシーンを観れば、より興味がわくはずだが・・・。
<岡田資の人間性をどんな視点から・・・?>
2007年の世相を示す漢字は「偽」だったが、これには多くの日本人が納得するはず。そんな時代に「法戦」に挑むとともに自己の責任と真正面から向き合った岡田資の人間性を描くのが、この映画のメインテーマ。証人尋問の終了後、横浜法廷のメインは被告人質問に移ることになるが、その攻防戦の中で彼の人間性がくっきりと・・・。
そこで私が指摘したいのは、どんな視点から彼の人間性を検討すべきかということ。以下3つの視点の提示をしたいが・・・。
<3つの「検討の視点」>
第1は、第十三方面軍司令官兼東海軍司令官という重責にあった軍人としての視点。「船場吉兆」が偽装に取締役は関与しておらず、現場が勝手にやっていたなどと真っ赤なウソをついて言い逃れをしていたことと是非対比させてみたいものだ。
第2は家庭人としてのもの。この映画の後半はほとんどが岡田中将の被告人質問のシーンに費やされているから、毎日傍聴席に座る妻温子(はるこ)(富司純子)や長男陽(あきら)、娘達子たちと顔を合わせることはできるが、会話は禁止されている。したがって、お互いの表情で理解し合うしかないのだが、その中で彼の家庭人としての姿が見事に表現されていることに注目したい。
そして第3は、岡田中将の宗教人としてのもの。彼がいつから仏教に帰依していたのかは知らないが、法廷での「仏教の教えでは・・・」という陳述や、死刑を宣告された部下たちと共に仏を学ぶ姿勢を見ていると、その影響がかなり大きいことがわかる。宗教心の薄い私にはわかりにくいところだが、是非皆さんはそういう目で彼の人間性解明を・・・。
<「本望である」は、今味わいたい言葉No.1!>
あれも偽装、これも偽装という事件続きで日本社会は明け暮れているが、この映画を観ていて、また人間岡田資を観ていて、今最も失われていると感じるのは「武士道」。そんなことを言うと、すぐに「お前は右翼か!」と茶々を入れる輩がいるはずだが、そんな批判はナンセンス。もちろん、私が武士道精神を備えているなどと立派なことを言うつもりはないが、少なくとも何かのために一生懸命にやること、約束を守ることなど、私なりの武士道精神はもっているつもり。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉を私は大好きだが、私はこれを「人事を尽くせばいい天命が下ってくる」と前向き(楽観的?)に解釈している。それは、常に俺は最大限の努力を尽くしたんだと自分を納得させたいため。
今、B級戦犯としての審理を終えた岡田中将は、聖戦を全力で闘ったという自負心でいっぱいのはず。そんな岡田中将が判決の言渡しを聞いた後、法廷を退場していく際、妻温子へ告げた最後の言葉は、ただひとこと「本望である」というもの。武士道を具現した人間岡田中将のこの言葉を、私は今味わいたい言葉No.1として挙げたいが・・・。
<富司純子の存在感はさすが!>
この映画はとことん法廷シーンの中で人間岡田資の姿を描く姿勢を貫いている。そこで困る(?)のが、法廷で被告人は傍聴席の家族と口をきいてはダメだという規則があること。したがって、傍聴席に座る妻や子供たちを演ずる俳優にはセリフがないから、ある意味大変な制約の中で演技を余儀なくされることに・・・?
そんな中大きな存在感を示すのが、温子役の富司純子。ナレーションの他、巣鴨プリズンでの面会の場面では少しセリフがあるが、横浜法廷ではセリフなしの演技ばかり。しかし、顔の表情や動作、しぐさだけで気持は十分に伝わるから、人間の心の交流とは不思議なもの・・・?
テレビでは猛烈なしゃべりのアホバカバラエティ番組ばかりが目につくが、実はそれによって通じ合っているものはごくわずかしかない空虚なもの。それに対して、無言で見つめ合う岡田中将と家族たちの間で通じ合うものは・・・?そんなことも考えながら、富司純子の存在感をかみしめたいものだ。
<弁護士会の推薦は・・・?>
私は弁護士と映画評論家の二足のわらじをはいていることを誇りに思っているが、弁護士は仕事が忙しいと称して映画に割く時間がないのが一般的らしい・・・?弁護士会でも時々、「あの映画はおすすめ」ということでチケット販売の協力をしたりすることがあるが、それは例外で、弁護士会としての映画への関与はきわめて貧弱なのが実情。
しかし、それは私にとって残念なこと。せめて月1度くらいは、弁護士会で推薦映画の上映会とディスカッションくらいやればいいのにと常々思っているが、この映画を観てあらためてその思いを強くしたが、さて弁護士会の推薦は・・・?
2007(平成19)年12月28日記