ミスト(アメリカ映画・2007年) |
<角川映画試写室>
2008年3月12日鑑賞
2008年3月14日記
密室劇の傑作は多いが、『ミスト』は多くの人が集まった大きなスーパー内での密室劇の傑作!一寸先も見えない外界で異常生命体の恐怖が広がる中、スーパーの中ではこの世の終わりを告げる狂信的な一派が次第に増大!現実主義者、合理主義者は次第に劣勢に!このままでは、生贄要求さえも実現・・・?残留か?脱出か?ミストから逃げきれない絶望的状況の中、人間はどんな決断を・・・?そして、映画はどんな結末を・・・?
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監督・脚本・製作:フランク・ダラボン
原作:スティーヴン・キング『霧』
デヴィッド・ドレイトン(イラストレーター)/トーマス・ジェーン
ステファニー・ドレイトン(デヴィッドの妻)/ケリー・コリンズ・リンツ
ビリー・ドレイトン(デヴィッドの5歳の息子)/ネイサン・ギャンブル
ミセス・カーモディ(骨董品店の女主人、宗教家)/マーシャ・ゲイ・ハーデン
アマンダ・ダンフリー(若い教師)/ローリー・ホールデン
アイリーン・レプラー(60代の女性教師)/フランシス・スターンハーゲン
ブレント・ノートン(隣人の弁護士)/アンドレ・ブラウアー
バド・ブラウン(マーケットの店長)/ロバート・C・トレヴェイラー
オリー・ウィークス(マーケットの副店長)/トビー・ジョーンズ
ジム・グロンディン(マーケットの技術管理担当、倉庫係)/ウィリアム・サドラー
サリー(マーケットのレジ係)/アレクサ・ダヴァロス
ダン・ミラー(中年男)/ジェフリー・デマン
ノーム(若い従業員の男)/クリス・オーウェン
ウェイン・ジェサップ/サム・ウィットワー
マイロン/デヴィッド・ジェンセン
2007年・アメリカ映画・125分
配給/ブロードメディア・スタジオ
<物語のスタートは、「霧の中に何かいる!」>
この映画のタイトル『ミスト』(原題も『The Mist』)を見ても何の映画かサッパリわからないが、ミストという言葉には見えないという意味が含まれているため、神秘的というイメージがある。そのため、この映画は予備知識を持たず、あいまいなイメージだけで鑑賞するのがベスト・・・?
この映画の主人公は、田舎町に住み映画のポスターなどを描いているイラストレーターのデヴィッド・ドレイトン(トーマス・ジェーン)。ある夜、この田舎町一帯を大嵐が襲った。「台風一過」の翌朝庭に出てみると、大木が家に向けて倒れてきたため、2階のアトリエのガラスが破られ、完成間近の絵はボロボロに。また湖畔にあったボート小屋は、隣人の弁護士ブレント・ノートン(アンドレ・ブラウアー)の敷地にあった木が倒れてきたためペチャンコに。
このように踏んだり蹴ったり状態だが、とにかく修繕に必要な物資や食料品を買い出しに行くため、デヴィッドは妻ステファニー(ケリー・コリンズ・リンツ)を残し、一人息子のビリー(ネイサン・ギャンブル)と共に町のスーパーマーケットへ。当然スーパーはデヴィッドのような客でいっぱい。
そんな中、突然あたり一面に霧が広がっていき、まさに一寸先も見えないような状態になったと思うと、そこに中年男ダン・ミラー(ジェフリー・デマン)が鼻から血を流しながら駆け込んできたからビックリ。その男が言う言葉は「霧の中に何かいる!」。さあ、スティーヴン・キング原作の、予知不能、恐怖いっぱいのこの映画はこんな形でスタートするが、さて今後どんな展開が・・・?
<フォッグ>ミスト>ヘイズだが・・・>
英語の達者なあなたならよく知っているはず。フォッグ(fog)とミスト(mist)は両者とも「霧」だが、その違いは、フォッグの方がミストより濃いこと。つまりフォッグは「濃霧」で、「霧などが一面に立ちこめている状態」。これに対して、ミストは「霧、かすみ、もや」で、フォッグより薄いわけだ。
もう1つ似た英語にヘイズ(haze)があるが、これは「もや、かすみ」で、「ミストやフォッグより薄く湿気が少ない」もの。
そんな英語力を前提にこの映画をみると、この映画では一面霧が立ちこめて一寸先も見えない状態だから、当然ミストよりフォッグの方が適切。したがってそのタイトルはミストではなく、フォッグにすべきでは・・・?
誰もがそう考えるはずだが、そうしなかったのは残念ながら既に『ザ・フォッグ』という映画がつくられていたため・・・?オレゴン州の小さな港町を舞台とした『ザ・フォッグ』(05年)は、濃く深いフォッグの中で展開されるパイレーツたちの悲劇と復讐劇だった(『シネマルーム12』130頁参照)から、『ミスト』とは全く毛色の異なる映画だが、全編を貫くテーマは霧。この先輩映画がなければ、『ミスト』も当然『フォッグ』と名づけられていたのでは・・・?
<スーパーとは、珍しい舞台設定!>
密室劇や潜水艦モノが緊張感を生み、リアルな人間ドラマとなるのは、狭い空間の中で人間が織りなすドラマに観客は否応なく集中させられるから。その意味では、この映画もスーパーの中という密室劇だが、そこには店長のバド・ブラウン(ロバート・C・トレヴェイラー)、副店長のオリー・ウィークス(トビー・ジョーンズ)、技術管理担当兼倉庫係のジム・グロンディン(ウィリアム・サドラー)、レジ係のサリー(アレクサ・ダヴァロス)という店側の人間の他、大嵐の直後一斉に買い物に出かけてきたたくさんの客がいるから、人数的には密室劇とは到底言えないはず。
しかし、スティーヴン・キングの原作によるこの映画はその観客を何人かのリーダーに引率されるグループに分け、時々刻々変化していく店の外の状況に応じて、変化していく人間たちの心理ドラマを見事に描いていく。つまり、この映画が設定したスーパーというたくさんの人間が集まる密室(?)は、きわめて珍しいもの。
<リーダー その1ーデヴィッド>
この映画でデヴィッドは、いかにもアメリカ的な家族愛を大切にする現実主義者かつ合理主義者の典型として描かれている。デヴィッドの最初の「対決」が発生するのは、毛布を取りにいくため奥の倉庫に入ったデヴィッドが、シャッターの外で不気味な音を聞いたため。そんな報告を受けた倉庫係ジムの指示によって、若い男の従業員ノーム(クリス・オーウェン)が外に出て発電機の排気口を調べることにデヴィッドが危険だと反対したため。ジムにしてみれば、「一体何が危険なんだ!」と思ったのは当然だが、デヴィッドの警告を無視してシャッターを開け、外に出ていった若い男は、不気味な生命体の触手によって巻きつけられ悲惨な最後を遂げることに・・・。
以降、デヴィッドはとことん現実に則した、最も合理的と考えられる行動方針を示していくが、外部状況の変化によってそんなデヴィッドの意見の支持者は、息子のビリーと店長のブラウン、副店長のオリーの他、高校教師の若い女性アマンダ・ダンフリー(ローリー・ホールデン)、60代の女性教師アイリーン・レプラー(フランシス・スターンハーゲン)など、次第に少数勢力に・・・。
<リーダー その2ーノートン弁護士>
この映画に見る弁護士ノートンの人間像は実に興味深い。彼はニューヨークで有名なやり手弁護士らしいから、そもそもなぜ彼がこんな田舎に住んでいるのかが疑問。また、デヴィッドとは隣地境界をめぐって訴訟で争ってデヴィッドが勝訴したらしく、デヴィッドとノートンはもともと犬猿の仲。さらに、大嵐が去った朝、デヴィッドのボート小屋はノートンの敷地にあった木が倒れてきたことによってペシャンコになっていたから、デヴィッドの顔を見たノートンがデヴィッドから文句を言われると思ったのは当然。
しかし、隣地境界訴訟を経験したデヴィッドは、妻のステファニーのアドバイスもあって、争いはくり返すまいと自分に言い聞かせていたから、逆に大嵐によって潰れてしまったノートンのベンツを見て、「お気の毒に」とお見舞いの言葉をかけたのが良かったらしい。そこで、車を失ったノートンが、「もし買い物に行くのなら・・・」とデヴィッドの車への同乗をお願いしたことにデヴィッドが快く応じたことが、それまで対立状態にあったノートンの心を少しは和らげたようだ。「2人は友達になったの?」と質問するビリーに対して、「まだそこまではなってないが、これからそうなるかも」と答えるデヴィッドだったが、平常時であればそうなっていた可能性は大。しかし、今は・・・?
①シャッターの外で聞こえた不気味な音、②倉庫のシャッターでの攻防戦で見た謎の生命体の触手、③それによって失った若い従業員の命を、スーパーの買い物客たちに説明し信じてもらうには、何よりもまずあの優秀な弁護士ノートンに信じてもらうことが大切だと考えたデヴィッドの決断はどうも誤りだったようだ。なぜなら、自分は知的な思考に長けていると信じ込んでいるノートンは、デヴィッドや副店長のオリーがいくらその目で見たことを説明しても、それはありえない不合理な事態だとしてトコトン納得せず、反発したからだ。挙げ句の果てに、その後ノートンは数人のノートン説の支持者と共にスーパーの外に出ていったが、さて彼らの運命は・・・?
<リーダー その3ー宗教家ミセス・カーモディ>
この映画がスーパーにおける密室劇として最高に面白くかつスリリングなのは、当初は狂信的な宗教者と思えた骨董品店の女主人ミセス・カーモディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)が、危機的状況が深まっていく中、次第にカリスマ的な宗教者としてリーダーの地位を獲得していくこと。
スーパーの窓ガラスの外に不気味な霧が広がる中、ミセス・カーモディが「外は死、この世の終わりよ」と甲高い声で叫びまくることに、多くの客がいらだったのは当然。したがって、当初ミセス・カーモディの支持者がゼロだったのは、アメリカ社会の健全さを示すもの・・・?ところが、この世の終わりを強調し、明日の悲劇を具体的に提示するミセス・カーモディのあの予言、この予言が次々と的中していく中、不安と恐怖におびえる多くの客たちの支持を獲得していったのは皮肉だ。
そういえば、たしかに旧約聖書に書いてある神は残酷で、アブラハムは息子のイサクを生贄として差し出していた。また『ノアの方舟』に見られるように、傲慢になり神を冒涜した人間たちを神が罰した例はいくつもあるようだ。すると21世紀の今、スーパーの外で起きているこの異常事態はすべて神の怒りがなせる業・・・?すると、それを鎮めるためには神を冒涜し傲慢な行動をくり返した人間の誰かを生贄に差し出すのがベスト・・・?すると、それに最も適した人材は・・・?さあ、そんな恐るべき事態が時々刻々と迫ってきたようだが・・・。
<副店長のオリーの活躍に注目!>
「名ばかり管理職」をめぐって、原告として未払い残業代の請求を求めたマクドナルドの店長を全面的に勝訴させた東京地裁2008年1月28日判決は大きな反響を呼んだ。この映画を観る限り、スーパー店長のバドも、副店長オリーもこんな異常事態時において、冷静かつ的確な判断を下し行動をとっていることがよくわかる。
店の奥にある倉庫で、触手を持った異常生命体との攻防戦を実際にその目で見た副店長のオリーと、それを見ていない店長のバドが異なる対応をしたのは当然だが、血の跡やデヴィッドが斧で叩き切った触手の残骸を見せられたバドがその後、宗旨変えしたのは当然。
面白いのは、小太りで見栄えのしない副店長のオリーが、その後意外にもライフル射撃の選手だったという能力を開花させたり、今や救世主となりかけたミセス・カーモディの煽動によってデヴィッドたちが絶体絶命の危機に追いつめられた時、ものすごい役割を果たすこと。そんな副店長のオリーの活躍にも注目を!
<異常生命体の姿は・・・?>
この映画の本質は「霧の中に何かがいる!」というワケのわからない恐怖心によって、スーパー内に閉じ込められた人間たちが、どのように変化し対応していくかという人間ドラマにある。したがって、本来は霧の中にいる異常生命体の姿は見せない方がより不気味なのだが、さすがにそれではストーリー構成がもたないため(?)、映画中盤からはその姿を少しずつ見せ始めることに。
その異常生命体は、ひと言で言えば昆虫。しかも巨大昆虫だが、その実体はあなたの目で・・・。またこの映画はそんな昆虫と人間との格闘劇を数ラウンドに分けてスリリングに見せてくれるから、お楽しみに。
<残留?それとも脱出?>
スーパーの裏のシャッターは強固だから打ち破られなかったが、表はすべてガラス。いくら強化されていても、所詮ガラスはガラスだから、そこに異常生命体が突進してくれば・・・?そんな時、誰もが思いつくのがバリケードの構築だが、さてそんなもので耐えられるの・・・?
人間と異常生命体=巨大昆虫との数ラウンドの闘いで、レジ係のサリーをはじめとして次第に犠牲者が増えていく中で大きく変化していったのが勢力関係。すなわちノートン弁護士のグループは既に脱出していったため存在しないが、最初あんなにバカにされていたミセス・カーモディが次第に尊敬の眼差しで迎えられるようになり、今やミセス・カーモディのグループは日の出の勢い。これからも次々とミセス・カーモディの予言(?)が的中していけば、そのうち「生贄を差し出せ!」との煽動的な発言に信者たち(?)が乗ってくる可能性大・・・?デヴィッドたちがそう考えたのは当然。
他方、客観的に考えても、このままスーパー内に残留するのがよいのか、それともイチかバチか脱出する方がよいのかは微妙なところ。さて、その決断はどっち・・・?そして、その決断はいつ、どんな状況の中で下されるの・・・?
<弾は4発、人間は5人。さて最後の決断は・・・?>
デヴィッドの脱出に同行するのは計10人。アメリカの車はデカイから、デヴィッドの車に10人も乗れるのはラッキーだった。しかし、結局車に乗ってスタートできたのはデヴィッドとビリー父子、ミス・アマンダそしてレプラー夫婦の5人となってしまったのは御愁傷様・・・。
デヴィッドの計画はとにかくガソリンの続く限り脱出していくという大雑把なものだが、何の情報もなくスーパーの外の状況が全くわからない状況下ではそれも仕方なし・・・?道路上は転覆した車や犠牲者たちでいっぱい。そんな中をかき分けかき分け慎重に車を進めていったが、進めども進めども霧から脱出できないため、デヴィッドたちには次第に焦りの色が・・・。そして遂に車がガタガタと音をたて始めたと思ったら、燃料切れによって停止してしまうことに。外にはあの不気味な異常生命体の足音も・・・?
さてそこで下したデヴィッドたちの最後の決断は・・・?ちなみに、この時拳銃に残っている弾は4発。しかし乗っている人間は子供1人、大人4人の計5人だ。ここまでよく逃げてきたものだという満足感は大人4人が共有するものだが、さて彼らの最後の決断は・・・?ここから先の展開とその結末は絶対書くことができないので、あなた自身の目で。さすがスティーヴン・キングの原作はすごい、さすがフランク・ダラボン監督の演出はすごい、と感心するはず。
2008(平成20)年3月14日記