痛いほどきみが好きなのに(アメリカ映画・2006年) |
<角川映画試写室>
2008年4月3日鑑賞
2008年4月4日記
21歳の若者が、シンガーソングライターを目指す女性との恋に落ちていく物語は、いかにもピッタリな邦題どおりの展開に!恋愛=セックス、恋愛=ベッタリではなく、互いに自立した人間としての「距離」は必要。したがって、「痛いほど好き」だけでは恋愛の成就ムリ!また、両親の離婚は、一人前の男になれないことの言い訳にはならないはず。この手の若者に手厳しいのは私の教育的観点にもとづくもの(?)だから、どうかご容赦を・・・。
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監督・脚本:イーサン・ホーク
原作:イーサン・ホーク『痛いほどきみが好きなのに』(ヴィレッジブックス刊)
ウィリアム・ハーディング(俳優志望の若者)/マーク・ウェバー
サラ・ガルシア(シンガーソングライター志望の女性)/カタリーナ・サンディノ・モレノ
ジェシー(ウィリアムの母)/ローラ・リニー
サマンサ(ウィリアムの元彼女)/ミシェル・ウィリアムズ
ミセス・ガルシア(サラの母)/ソニア・ブラガ
ヴィンス(ウィリアムの父)/イーサン・ホーク
デッカー(ウィリアムの親友、脚本家)/ジョシュ・ザッカーマン
2006年・アメリカ映画・117分
配給/ショウゲート
<こんな男とこんな女が、恋に・・・>
21歳の誕生日を前に、行きつけのバーで出会った女性サラ(カタリーナ・サンディノ・モレノ)に恋をしてしまった俳優志望の若者ウィリアム(マーク・ウェバー)は、以降どんなアプローチを・・・?
サラはシンガーソングライター志望の女性だったが、過去の失恋のせいか、あるいは歌手として自立するという夢のせいか、ウィリアムとの恋に落ちたにもかかわらずセックスを拒否したから、やる気マンマン(?)のウィリアムは不満。そして、2人の将来にもどことなく不安が・・・?
これはセックスしか頭にない若者によくありがちな現象だが、俳優・作家・脚本家・監督であるイーサン・ホークが自らの体験を元に書いた『痛いほどきみが好きなのに』に沿って、そんな2人の瑞々しくもぎこちない恋模様が・・・。
<メキシコ旅行が頂点・・・?>
2人にとって最高に良かったのは、メキシコへの約1週間の旅。これは、ウィリアムが新作映画の撮影旅行に便乗してサラを強引に誘った結果実現したもの。いくらサラがセックスに臆病になっていても、旅先ともなれば話は別。しかも、サラがそれまでセックスを拒否していた理由が、「セックスしたら、もっとあなたを好きになってしまう、それが怖いの」ということだったから、1度結ばれてしまった2人は朝から晩までセックス漬けとなったのは当然。
ウィリアムはそれで十分満足だったようだが、女はそれほど単純ではない。まして、シンガーソングライターとして自立したいと願っているサラには、ウィリアムとの100パーセントベッタリの生活は到底ムリ。つまり、サラにはたとえ恋人であってもそこに一定の「距離」が必要だったわけだ。ところが、どうしてもそれが理解できないウィリアムは・・・?
<ベネチア国際映画祭での評価は?>
この映画は第63回ベネチア国際映画祭の正式出品作品だが、ネット情報の1つに、「ヴェネチアでの評価が非常に厳しいものが多く、日本公開がちょっと心配になっています」というのがあった。サラの生き方を全然理解できず、会うたびに議論と口ゲンカを重ね、自暴自棄になり、挙げ句の果ては「お前はストーカーか!」と思われるような行動をとっていくウィリアムの姿を観ていると、いくら恋に悩む若者であっても、「それはちょっと・・・」と思ってしまったから、それが作品評価につながるのはやむをえない。
若者の恋の悩みを描いた作品は山ほどあるが、もしイーサン・ホーク監督が21歳の頃、恋人に対してこんな行動をとっていたとすれば、少し反省すべきでは・・・?
<こんな逃げ道もあったのに・・・?>
恋人に振られた時、やむをえず前の彼女や彼氏に走ることは男でも女でもよくある(?)が、大抵の場合それはうまくいかず、余計みじめになるもの・・・?
ところが、ウィリアムの元カノジョのサマンサ(ミシェル・ウィリアムズ)は、ウィリアムとヨリを戻すことに積極的。それなら、「こりゃラッキー!」とばかりにウィリアムもきっぱりサラをあきらめ、サマンサに乗り換えればいいのだが、ここでもウィリアムは中途半端。そんなウィリアムをみていると、つい私はイライラ・・・。
<「両親の離婚のせい」はちょっと・・・?>
さらに私がイライラするのは、21歳にもなるのに母親離れができていないこと。離婚後1人ウィリアムを育てた母親ジェシー(ローラ・リニー)は、今新しい恋人と楽しい生活をしていたから、そこにウィリアムの恋の悩みをもち込まれても迷惑なだけ。母親の目にも、ウィリアムは「もういい加減一人前の男として自立しなさいよ」と映っていたはず・・・?
そんなウィリアムが今列車に乗って向かっているのは、テキサスに住む父親ヴィンス(イーサン・ホーク)の家。今は再婚し、子供たちと幸せに暮らしている父親に対して、ウィリアムは幼い頃に両親が離婚したため、父親から見捨てられたと感じていたようだ。したがって、家の外に父親を呼び出して語りかけている話を聞いていると、どうも彼は「今俺がこんなに恋愛に悩み、一人前の男として自立できないのは、あんたのせいだ」と言いたいよう。しかし、そりゃ筋違いでは・・・?
そんなウィリアムの行動や話しぶりをみていると、さらに私はイライラ。
<いかにもピッタリな邦題に感心!>
この映画を観ている限り、ウィリアムがサラとの恋にもがき苦しんでいる原因は明確。つまり、セックスを含めて四六時中サラを側に置いておきたいと願うウィリアムに対して、サラはシンガーソングライターとしての自分の夢を実現するため自分の時間が欲しいから、ウィリアムとはベッタリの関係ではなく、一定の距離が必要だと感じていること。そして、この2人が別れなければならない原因は、ウィリアムはそんなサラの気持や考え方を全然理解できないほどガキだということだ。
そんな風に決めつけてしまうと身も蓋もないが、そんなウィリアムのもどかしい気持をソフトに表現したのが、『痛いほどきみが好きなのに』という邦題。この映画は観る人の年齢によって、また男か女かによって全然評価が異なるはず。来年1月に60歳となる私の目が21歳のウィリアムに対して厳しいのは、年齢のせいもあるだろうが、私としては教育的、指導的観点からのつもりだが・・・。
2008(平成20)年4月4日記