愛のむきだし(日本映画・2008年) |
<宣伝用DVD鑑賞>
2009年2月21、22日鑑賞
2009年3月5日記
タイトルの露骨さ(?)や3時間57分という上映時間にたじろいではダメ。一体何をむきだすの?それは人間の本質だ!前半は盗撮、パンチラ、変態模様を楽しみたいが、ゼロ教会の登場後は、がぜん社会性と緊迫性を増すことに。愛する人を取り戻したい!そんな純愛模様をゼロ教会と闘う怒濤のストーリー展開の中、じっくりと味わいたい。ベルリン国際映画祭の審査員たちの目の確かさに拍手!
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監督・脚本・原案:園子温(そのしおん)
角田ユウ/西島隆弘
沖島洋子(通称:ヨーコ、カオリの連れ子)/満島ひかり
コイケ(ゼロ教会の教祖の右腕の女)/安藤サクラ
カオリ(テツの再婚相手)/渡辺真起子
角田テツ(ユウの父親、神父)/渡部篤郎
2008年・日本映画・237分
配給/ファントム・フィルム
<3時間57分にたじろいだが・・・>
本作の試写の案内をもらった時、たじろいだのは何よりも3時間57分という上映時間の長さ。こりゃ一体ナニ?途中休憩はあるの?途中トイレに行きたくなったらどうするの?還暦を迎えた私がそう考えたのは当然。そんな「たじろぎ」によって試写室に行くのをやめ、本業にいそしんだわけだが、2009年2月5日から2月15日に開催された第59回ベルリン国際映画祭で、本作は何とカリガリ賞と国際批評家連盟賞を受賞するという快挙を。こりゃ何としても観なければ!
そんな不純な動機(?)で宣伝用DVDを借りて、土、日の2日間に分けて鑑賞したが、なるほどこりゃメチャ面白い!
<盗撮、パンチラは万国共通語?>
この映画は20年ほど前に園子温監督が知り合った「盗撮のプロ」が、新興宗教に入った妹を脱会させたという経験をもとに、園子温監督自身の体験や取材を組み込んだものらしい。この映画を観ながら私が考えたことはいろいろあるが、その1つが日本で「盗撮」という言葉が生まれたのはいつ頃なのだろう、ということ。
そもそも、カメラが高額、高級品でプロしか入手できない時代に盗撮があるはずはないから、デジカメの登場を含めてカメラ、特に小型カメラが庶民の手に行きわたることが大前提。また、戦時中のように女性がモンペ姿の時に盗撮があるはずはなく、盗撮にはミニスカートの定着が不可欠。その他いろいろな社会的条件が揃わなければ盗撮という行為が成り立つはずがないから、盗撮やパンチラという概念は先進資本主義国特有のもの・・・?少なくとも、イスラム圏国家やいつもコートを着ている寒い国、逆にいつも裸同然でいるアフリカ諸国(?)では、盗撮やパンチラという概念はないはずだ。
ベルリン国際映画祭の参加国がどれくらいあるのか、審査員はどの国の人かは知らないが、そもそも盗撮やパンチラは万国共通語・・・?もしそうでないとしたら、それをテーマとした本作(実はテーマはそれではなく、再三セリフとして登場するキーワードにすぎないが)はハンディキャップがあったのでは?そんな心配をものともせず、受賞できたのはめでたい限り。
<美男美女3人が、なぜR-15指定映画に?>
この映画の主人公は、角田ユウ(西島隆弘)、沖島洋子(ヨーコ)(満島ひかり)、コイケ(安藤サクラ)の3人。私は全然知らなかったが、映画初出演、初主演となる西島隆弘はAAA(トリプルエー)のメインボーカルだし、満島ひかりもFolderのメンバーで平行してソロ活動も続けている、えらく可愛い女性歌手。また、安藤サクラは奥田瑛二の娘という血統書付きで、『罪とか罰とか』(09年)で私がはじめて見た女優。つまり、この3人はいずれ劣らぬ美男美女だから、本来ならば昨今日本で大はやりのイケメンと美女による純愛ドラマの方が似合うはずだ。
そもそも『愛のむきだし』というタイトルからして少しグロテスク?一体ナニをむきだすの?それは人間の本質。また本作がR-15指定とされたのは、映画の中に盗撮、パンチラ、変態、勃起、レズビアンなどのキーワードが頻繁に登場するから。そんなR-15指定映画に、なぜ美男美女3人が出演したの?
<これを機会にキリスト教の勉強を その1、懺悔>
ユウが生まれた家庭はクリスチャン。映画の冒頭、要領よく「ボク」のナレーションで、ユウが生まれた家庭環境が説明される。日本ではクリスチャンは少ないから、まず父親が神父というユウの家庭環境を十分理解する必要がある。また、ユウが幼い時に亡くなった母親の、「いつかマリア様のような人を見つけなさい」という遺言(?)も大切なキーワード。だって高校生になったユウが盗撮行為をくり返している中で出会ったマリア様がヨーコなのだから。
それはともかく、映画前半で大きな役割を果たすのが懺悔。3月7日から公開されたソビエト(グルジア)映画の『懺悔』(84年)はすばらしい映画だったが、本作では懺悔という言葉にそこまで深刻な意味はなく、キリスト教の一般用語における懺悔、つまり自分の罪(犯罪ではなく原罪)を神父に懺悔して、神の赦しを請うという行為だ。テツ(渡部篤郎)が自分の息子に毎晩懺悔を要求するようになったのは、突然テツの前に登場した愛人カオリ(渡辺真起子)と別れたショックによるものだから、ユウはえらいとばっちりを受けたわけだが、現実は現実。さてユウは、父親としてではなく神父としてのテツに対して懺悔する罪をどこでどうやって探してくるの?
<盗撮ってとっても楽しそう・・・?>
ユウが女性の股間ばかりを狙う盗撮に励みだしたのは、神父の父親から毎日懺悔を要求されたため。つまり、自力で何らかの罪をつくり出さなければならなくなったところ、思いついたのが盗撮というわけだ。ところがやってみるとこれが意外と面白いし、奥が深い・・・?そのうち盗撮仲間もできたし、変態と呼ばれれば呼ばれるほど、それが快感に・・・?
しかしユウが心配したのは、いくら女性の股間を盗撮しても自分の股間が勃起しないこと。ひょっとして自分は性的不能者・・・?そんな心配をしながらユウは日々盗撮に励んだが、この映画の盗撮風景をみていると、盗撮ってとっても楽しそう・・・?
<ヨーコとの出会いは女装から>
俺って、ひょっとして男としてダメ?そんな心配をしていたユウが仲間との罰ゲームで負けたことがキッカケで挑んだのが女装。すると、これが意外にカッコよく、ユウのハマリ役に。黒い帽子をかぶりロングコートをカッコよく着こなすと、自分でもホレボレするほどだ。そんな女装姿の俺の名前は、サソリさん。
ユウが一目でマリア様と感じた運命の女性、沖島洋子ことヨーコとの出会いは、男たちに絡まれて闘っているヨーコを女装したサソリが助けたことによって生じたが、ここでヨーコもサソリに惚れてしまったから面白い。他方、女装していたユウは男たちを蹴りあげるヨーコのパンチラ姿を見てはじめて勃起。そして、男嫌いだったヨーコもその夜はじめてサソリのことを思ってオナったから、こりゃ2人ともヘンタイ?しかし、ヘンタイで何が悪い!これが愛なのだ!
<ヨーコがカオリの連れ子とは!>
もともと優しかった父親のテツの性格が一変したのは、テツが自由奔放で妖艶な女カオリと知り合い、その悪影響を受けたため。ヨーコとの運命的な出会いの数日後ユウは、そんなテツから突然カオリと再婚すると聞かされたからビックリ。「なぜよりによってあんな変な女と・・・?」とユウは思ったが、父親が決めたことだから仕方なし。
さらにビックリしたのは、角田家に入ってきたカオリには連れ子がいたうえ、何とそれがヨーコだったこと。それによってユウはヨーコの義理のお兄さんになったわけだが、サソリはヨーコが大好き、ヨーコもサソリが大好きだが、妹のヨーコは変態の兄ユウが大嫌い!スクリーン上に描かれていくユウとヨーコのそんな奇妙な二人三脚の関係(?)は興味深い。
<謎の女コイケの正体は?>
ある日ユウとヨーコの通う学校に転校してきた女がコイケ。外見上は結構魅力的だが、実は彼女はゼロ教会という世間を騒がせている新興宗教団体の幹部。そしてゼロ教会はかつて存在していたオウム真理教みたいなカルト教団。
コイケは次々と狂信的な信者を増やしている教祖サマの右腕だ。そのコイケが、ヨーコのお友達となって角田家に入り込んできたのはなぜ?さらに、自分がサソリだとウソをついて、ヨーコと「いい仲」になっていったのはなぜ?ゼロ教会の魔の手にかかって一家全員拉致されたという事件が報道されているが、角田家は大丈夫?テツもすぐにカオリの影響を受ける頼りない神父だから、ひょっとしてゼロ教会の洗脳攻勢の前に負けてしまうのでは?
コイケの企みを感じとっているユウは懸命の抵抗を続けたが、ある日家に帰ってみると、家の中はもぬけの殻。さてテツとカオリそしてヨーコは一体どこへ行ってしまったの?ひょっとして、ゼロ教会に拉致されてしまったの?
<これを機会にキリスト教の勉強を その2、愛>
本作はキリスト教の布教を目的としたものではないが、映画後半におけるヨーコの長セリフに注目したい。それは、新約聖書におけるコリントの信徒への手紙第13章だ。これは、愛について使徒パウロがコリント教会の共同体宛てに書いた手紙。つまり「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない」のフレーズ。最近はやりの、教会での結婚式でその1部が使われているから、日本人もよく知っているはずだ。「愛がなければ私は何者でもない」から始まり、「それゆえ信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である」で終わる新約聖書の長い言葉を、ヨーコが完璧に覚えていることにビックリ!
そんなことを考えれば、この映画のテーマが愛であることは明らかだが、それが「愛のむきだし」というショッキングなタイトルになったのはなぜ?それをよく考えたい。
<後半の怒濤のストーリー展開は、あなた自身の目で>
映画前半は、ホントは変態ではないのに変態だと誤解されているユウと、男はみんな変態だと誤解しているヨーコを軸とした、「ヘンタイ騒動」が面白くかつテンポ良く描かれていく。したがって、思わず「こりゃ面白い!」と身を乗りだすこと必至。ところがゼロ教会とその幹部コイケが登場し角田家への露骨な攻勢が始まると、がぜん社会性と緊迫性を増してくる。テツ、カオリ、ヨーコを洗脳し、その取り込みに成功したコイケは得意満面だが、映画後半はユウとゼロ教会あるいはコイケとのバトルを軸とした物語に変わっていく。
ユウが目指すのはゼロ教会本部に拉致されたヨーコの救出だが、完全に洗脳されてしまったヨーコは自分の意思で教会にとどまり奉仕しているのだから、その目を覚まして連れ戻すのは至難の業。しかも、そんな努力を続けていたユウ自身がゼロ教会の魔の手におちていくことになったから、さあ大変。さて、ユウはヨーコをそしてテツとカオリをゼロ教会の手から取り戻すことができるのだろうか?映画後半はそれをテーマとした怒濤のストーリーが展開し、意外なクライマックスを迎えるから、そんな後半2時間は是非あなた自身の目で。
2009(平成21)年3月5日記