ある公爵夫人の生涯(イギリス、フランス、イタリア映画・2008年) |
<東映試写室>
2009年3月4日鑑賞
2009年3月6日記
「生まれるのが100年早かった?」と思える、ある公爵夫人の進歩的思想に注目!この公爵夫人とダイアナ妃との共通点は?古臭い貴族の結婚観と闘うキーラ・ナイトレイって素敵!もっとも、その突き進む先は破滅の道?それとも妥協の道?この公爵夫人の生き方から、今私たちが学べることは?
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監督・脚本:ソウル・ディブ
原作:アマンダ・フォアマン『Georgiana:Duchess of Devonshire』
脚本:ジェフリー・ハッチャー、アンダース・トーマス・ジェンセン
ジョージアナ・スペンサー(デヴォンシャー公爵夫人)/キーラ・ナイトレイ
デヴォンシャー公爵(ジョージアナの夫)/レイフ・ファインズ
レディ・スペンサー(ジョージアナの母)/シャーロット・ランプリング
レディ・エリザベス・フォスター(ジョージアナの親友、デボンシャー公爵の愛人)/ヘイレイ・アトウェル
チャールズ・グレイ(野党ホイッグ党の政治家、ジョージアナの恋人)/ドミニク・クーパー
チャールズ・ジェームズ・フォックス(野党の党首)/サイモン・マクバーニー
2008年・イギリス、フランス、イタリア映画・110分
配給/パラマウント ピクチャーズ ジャパン
<原題は?あなたの英語力は?演ずるのは?>
この映画の邦題は『ある公爵夫人の生涯』だが、原題はシンプルに『The Duchess』。これ、あなたの英語力で、発音の仕方と意味がわかる?これは、「dtis」 と発音し、公爵夫人の意味。この映画の主人公であるデヴォンシャー公爵夫人のことだ。公爵夫人を演ずるのは、『プライドと偏見』(05年)、『つぐない』(07年)に続いて美しいドレス姿を披露するキーラ・ナイトレイ。そして、本作はアマンダ・フォアマンの原作にもとづく実話らしい。
他方、女性を表わす接尾語「ess」を取った、男性の公爵を意味する単語は?それはDuke「djk」で、それを演ずるのは私が3月3日に『愛を読むひと』(08年)で観たばかりのイギリスの名優レイフ・ファインズ。『愛を読むひと』では15歳の少年期と23歳の青年期のマイケルはドイツ人の若手俳優デヴィッド・クロスが演じ、レイフ・ファインズは8年後の弁護士となったマイケル役だったから、年齢的にピッタリ。ところが本作では、レイフ・ファインズは26歳で17歳のジョージアナ・スペンサーと結婚する時からのデヴォンシャー公爵役を演じているから、かなり違和感がある。だって1962年生まれの、どちらかというとおじさん顔(?)のレイフ・ファインズでは、いくら名優でも26歳の紅顔の美青年公爵に変身するのはしんどいから。もっとも、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』(08年)では、46歳のブラッド・ピットが若々しい20代の美男子に変身していたのだから、本作でも26歳のデヴォンシャー公爵を演ずる時はレイフ・ファインズにそれぐらいの若作りメイクをさせてほしかった・・・。
<坂和的視点 その1 政党政治の先輩から何を学ぶ?>
満身創痍状態で低空飛行を続けてきた自民党の体たらくの中、日本でもいよいよ近いうちに政権交代と二大政党制が始まりそう。そう思っていた矢先の2009年3月3日の夜、民主党党首小沢一郎の公設秘書逮捕のニュースが日本中を駆けめぐった。明治維新後、さまざまな権力闘争を経る中で形づくられてきた日本の政党政治の原型はイギリスにあるが、この映画をみれば17世紀後半~18世紀にかけてのホイッグ党の姿を垣間見ることができる。
ジョージアナと情熱的かつスキャンダラスな恋におちるホイッグ党の若き政治家がチャールズ・グレイ(ドミニク・クーパー)。その党首がチャールズ・ジェームズ・フォックス(サイモン・マクバーニー)だ。フォックスがジョージアナと親しくなったのは、デヴォンシャー公爵の屋敷で開催された食事会の席で、フォックスの演説に対するジョージアナの批評を聞いた時から。デヴォンシャー公爵の社交界には、音楽家、詩人、画家などのアーティストだけではなく政治家も参加していたわけだ。女性の興味と関心は男とドレスと化粧品だけと思っていたのに、ジョージアナはそれとは全然違い、政治や生き方についてしっかりした意見を持っていたからフォックスはビックリ。その結果、選挙で苦戦が伝えられていたホイッグ党はジョージアナを聴衆集めの切り札として活用したところこれが大成功し、ホイッグ党が圧勝したから、ジョージアナの貢献は大。ちなみに、ラストの字幕によれば、後にチャールズ・グレイはイギリスの首相になったというからさらにビックリ。
フランスは1789年のフランス革命によって一挙に中世から近代へ移行したが、イギリスは1688年のいわゆる「名誉革命」によって以降徐々に王権を否定し、議院内閣制に移行していった。そこで重要な役割を果たしたのが、後の自由党、現在の自由民主党の前身にあたるホイッグ党という政党だ。本作を鑑賞するについては、そんな政党政治と議院内閣制の先輩の国イギリスをしっかり感じとり、学びたい。
<坂和的視点 その2 貴族の結婚観は?>
日本では源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年から武士階級が成立し、1868年の徳川幕府崩壊まで武士階級を支配層とした封建国家が続いた。他方イギリスでは、王室を頂点とし、その下にいる貴族がそれぞれの領地を支配する封建社会が中世の間ずっと続いていた。私がこの映画で注目したいのは、公・侯・伯・子・男という5つのレベルの貴族たち、とりわけデヴォンシャー公爵の結婚観。彼がジョージアナとの結婚を決意したのは、何よりもジョージアナが世継ぎとなる健康な男児を産んでくれそうと判断したから。つまり、たった2度の出会いで愛を確認できたからとか、顔やスタイルがいいからではなく(もちろんこれは重大な要素だろうが)、ジョージアナの母親であるレディ・スペンサー(シャーロット・ランプリング)が「この子は健康な男の子を産むことはまちがいない!」と太鼓判を押したから。これは現在の結婚観とは全然異なるものだが、デヴォンシャー公爵にとってはそれが唯一絶対の基準だったわけだ。
しかし、よく考えてみればそれは日本の武士階級も同じ。つまり、イギリスの貴族も日本の武士も、「家」を存続させるためには世継ぎの男児が絶対的に必要だったわけだ。そんな世代承継が、全世界的にみても奇跡的にうまくいったのが日本の天皇家。つまり、万世一系の天皇家は、紀元前660年の神武天皇以来今日まで2600年間も血統を絶やさず続いてきたというのが自慢のタネだ。もっとも、そのためには娘に養子をとったり、場合によっては女帝を登場させたりして、血統維持が苦しい時も何とかしのいできたわけだ。
そう考えると、デヴォンシャー公爵だってジョージアナが6年間に女の子ばかり2人も産んだことに、そんなにしかめっ面をしなくてもいいのでは・・・?もっともそれはあくまで外野席からの見方であり、デヴォンシャー公爵にとっては直系男児の誕生はジョージアナと結婚した時の絶対条件。レイプまがいの大騒動の末にやっとジョージアナに男の子が産まれたことによって、ジョージアナが莫大な金額の小切手を受け取ったことをみれば、デヴォンシャー公爵とジョージアナの結婚は愛情にもとづくものではなく、すべて契約にもとづくものだということがよくわかる。本作からは、そんな貴族の結婚観をしっかりと勉強したい。
<キー・ウーマンはエリザベス!>
陽気で明るく、誰にも好かれ、語学も堪能で外交能力も十分。ファッションセンスとダンスの腕は抜群で、もちろん行儀作法は洗練されたもの。しかも、美人でスタイルよし。そんなジョージアナに対して、デヴォンシャー公爵は陰気で無口。また何ゴトも自分勝手で相手の気持など考えず、今ドキ流行の説明責任や透明性そしてコンプライアンスの感覚など全くなく、ただ公爵としての義務を忠実に果たしているだけ。そんな2人の結婚がミスマッチだったことは明らかだが、ジョージアナの最大かつたった1つの欠点はなかなか男児を産まなかったこと。そんな中、急浮上してきたキー・ウーマンがエリザベス。
こりゃ、まるで1993年7月18日の第40回衆議院議員総選挙で自民党が過半数を獲得できず、小沢一郎率いる八頭立ての馬車すなわち、日本社会党・新生・公明党・日本新・民社党・さきがけ・社会民主連合・連合参議院という非自民共産の8つの政党と会派の連立政権に熊本のお殿さま細川護熙が乗ったことによって、突然彼が日本の政治のキー・マンに浮上したようなもの・・・?たまたま、パーティーの席でジョージアナと話したことによって親友となったエリザベスがキー・ウーマンになったのはなぜ?それは、夫が別の女に走り、3人の男の子と会うことすらできない状況のエリザベスに同情したジョージアナが、デヴォンシャー公爵に頼んでエリザベスを屋敷に住まわせたため。そう、デヴォンシャー公爵はジョージアナの親友で身の処し方に困っているエリザベスを、「子供たちと会わせてやる」という利益誘導(?)によって我がものにしたわけだ。
本来秘め事であるはずの、エリザベスの部屋におけるデヴォンシャー公爵とエリザベスのベッドシーンはスクリーン上には登場しないが、エリザベスの激しい喘ぎ声を聞けば、かなり熱のこもったエッチだったことは容易に想像できる。きっと、性的テクニックに疎いジョージアナに比べれば、エリザベスは相当のテクニシャンだったのだろう。したがって、デヴォンシャー公爵がそれに惹かれたのは当然だし、自分の立場をわきまえているエリザベスがデヴォンシャー公爵の利益誘導に乗ったのは当然。その結果、それまでは大きなテーブルを挟んでデヴォンシャー公爵とジョージアナの2人が向かい合っていた食事風景に新たにエリザベスが加わったが、これって山崎豊子の小説『華麗なる一族』における「妻妾同衾」と同じようなもの・・・?
<生まれるのが100年早かった?>
公爵の屋敷でのパーティーにおける、ホイッグ党の党首フォックスとジョージアナの会話(議論?)は面白い。18世紀後半においては、政党政治の先進国たるイギリスにおいても選挙権を女性に与えるなどというのは論外で、男にどの範囲で与えるかが議論のテーマ。それを前提としたフォックスの演説はフォックスにとってはかなり急進的なものだったが、ジョージアナの目にはそれは中途半端。つまり、やるかやらないか、与えるか与えないか、が問題であって、どこまでやるか、どこまで与えるか、という議論は彼女にとってはすべて中途半端だったらしい。
公爵夫人という立場の女性が政治問題について意見を述べるのも異例なら、ホイッグ党の集会に参加して演説をぶつというのは異例中の異例。また家と家との結婚、男児を産むための結婚が当たり前だった貴族社会の中で「夫が浮気しているから」という理論的武器を備えたにしろ、「だから私にも愛人と自由にする権利を!」と主張するのはいくら何でも無茶。デヴォンシャー公爵がそんなジョージアナの言い分を認めなかったのは当然だ。35年間弁護士稼業をやってきた私は、今の時代状況下において世の奥さま族が堂々とそういう主張をしていることは経験しているが、そう考えるとジョージアナは生まれてくるのが100年早かった・・・?
<デヴォンシャー公爵とジョージアナの母は同じ価値観?>
ジョージアナが嫁いだ先の夫であるデヴォンシャー公爵から突然「俺の娘だから、母親としての義務を尽くせ」と言われたのが、家政婦との間に生まれたデヴォンシャー公爵の長女シャーロット。ジョージアナはデヴォンシャー公爵と結婚した後6年の間に生まれた2人の娘とともにシャーロットを母親として分け隔てなく育てていたから立派なものだ。しかし、デヴォンシャー公爵があろうことか、自分の唯一の親友であるエリザベスとエッチしたのが許せなかったのは当然。また、「子供と会わせると言われたから仕方なかったの」というエリザベスの弁解に聞く耳を持たなかったのも当然。ところが、「出ていってくれ」と言っても、デヴォンシャー公爵がエリザベスに対して「出ていく必要はない。屋敷に残れ」と言われたと主張して、エリザベスがデヴォンシャー公爵の言葉に従っている姿に、さすがにジョージアナがキレてしまったのは当然だろう。また、それまでジョージアナのデヴォンシャー公爵に対する不平不満をなだめていたジョージアナの母親レディ・スペンサーも、さすがにそんなデヴォンシャー公爵の姿勢にはカチンときたようだ。しかし、そうかといって具体的な解決策がすぐに浮かぶわけではないから、当面は様子見となったのも仕方なし。
ここで面白いのは、①デヴォンシャー公爵とジョージアナとの結婚の煮詰め方②デヴォンシャー公爵とエリザベスの浮気への対応③ジョージアナとチャールズ・グレイの浮気への対応、をめぐっては、デヴォンシャー公爵とレディ・スペンサーの価値観が共通であり、ジョージアナの価値観が当時の時代状況においては異例だということ。この映画にはそれを認識させられるさまざまなシーンが登場するから、しっかりその確認を。
<破滅の道?それとも妥協の道?>
歌劇『カルメン』も、スタンダールの『赤と黒』も、主人公たちは破滅の道を歩んでいったが、トルストイの『戦争と平和』におけるナターシャはさまざまな人生勉強をしながら妥協の道へ?
ジョージアナとチャールズ・グレイとのベッドシーンがエリザベスとの知恵と策略によって実現したのは驚きだが、社交界の華である公爵夫人ジョージアナとホイッグ党の花形政治家たるチャールズ・グレイとの「身の下スキャンダル」はうわさ好きの社交界では格好のネタ。したがって、そんなスキャンダルが公になればジョージアナは社交界から、チャールズ・グレイは政治の世界から抹殺されても仕方ないところだが、さて現実は?ジョージアナとチャールズ・グレイがバースの田舎で不用心に過ごした、あのめくるめく時間が過ぎ去った後、それが一大スキャンダルになったのは当然だ。さあ、その後のジョージアナとチャールズ・グレイの人生の展開模様は?
是非それに注目してほしいが、私に言わせればこの映画が描くそれは、破滅の道ではなく妥協の道。そんなジョージアナとチャールズ・グレイの生き方をあなたはどのように評価?私は結果からみても、当時の時代状況下における2人の選択からみても、これで上出来、大正解だと思うのだが・・・。
2009(平成21)年3月6日記