花と兵隊(日本映画・2009年) |
<松竹試写室>
2009年7月2日鑑賞
2009年7月4日記
僧侶となって現地に留まった『ビルマの竪琴』の水島上等兵は有名だが、それ以外にもタイ、ビルマ国境付近に進攻した19万人の将兵の中にこんな未帰還兵がいたとは?6人の兵士たちはなぜ現地に?そして終戦後彼らは今日まで家族たちとどんな生活を?撮影当時まだ20代だった松林要樹監督のインタビューは興味深い。戦後64年の今、こんな証言から私たちが学ぶべきことは多いはずだが・・・。
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監督・撮影・編集:松林要樹
坂井勇(独立自動車第60大隊 輜重部隊 上等兵、07年5月死亡)
中野弥一郎(烈師団歩兵58連隊 衛生兵 伍長)
藤田松吉(菊師団 歩兵55連隊 歩兵 伍長、09年1月死亡)
伊波廣泰(淀師団 野砲四連隊 工兵 兵長)
花岡稔(独立歩兵 162大隊 上等兵)
古山十郎(近衛第四師団 歩兵 上等兵)
2009年・日本映画・106分
配給/安岡フィルムズ
<本作が描くのは?なぜこんなタイトルを?>
「花と兵隊」と聞いて思い出すのは、私が高校生の頃に読んだ火野葦平の小説のタイトル。試写室へ行く前に「こりゃ一体ナニ?」と思ってチラシを読んでみると、本作はタイ、ビルマ国境付近で敗戦を迎えた後、祖国日本へ還らなかった6人の日本兵(未帰還兵)の証言を集めたドキュメンタリー映画。
有名な山下奉文中将率いる帝国陸軍によるマレー作戦やタイ、ビルマ進攻作戦が始まったのは、1941年12月8日の真珠湾攻撃に先立つこと約1時間前のことだったらしい。ミッドウェー海戦やその後のガダルカナル島、アッツ島から沖縄戦まで、太平洋上におけるさまざまな日米の戦いはよく知られているが、タイ、ビルマ国境付近での日本軍の戦いはあまり知られていない。なぜ日本軍はそんな奥深くまで進攻したの?それは、連合国が「援蒋ルート」によって行っていた、蒋介石率いる重慶国民党政府への物資輸送を遮断するためだ。この方面の戦いで有名なのは、「白骨街道」を生んだというインパール作戦と竹山道雄の小説で有名な『ビルマの竪琴』だが、そのお勉強は各自しっかりと。
ところで、そんなドキュメンタリー映画のタイトルがなぜ「花と兵隊」?今は平均年齢90歳となり、撮影中に2人が死亡した6人の日本兵たちも敗戦直後は若々しかったはず。したがって本作に登場する結婚当時はさぞ美しかっただろうと容易に推察できる、彼らの妻たちに敬意を表すため?
<20代だった松林要樹監督が、なぜこんな映画を?>
本作を05年から08年まで3年間かけて監督、撮影、編集した松林要樹監督は、05年頃フリーでアフガニスタンやインドネシアなどを取材している映像ジャーナリストのアシスタントをしていたらしい。1979年生まれだから、撮影時20代だった彼がなぜこんな映画を?それは第1に、彼の師匠であった故今村昌平監督が1970年代に作った『未帰還兵』シリーズに衝撃を受けたためらしい。しかし、日本がアメリカと戦争したことすら知らない若者(バカ者?)が増える中、20代の松林要樹監督がなぜこんな企画を?またこんな若造の質問に90歳前後の未帰還兵たちが正直に本音を語ってくれるの?そこらあたりが本作の見どころだ。
<注目は藤田松吉!>
6人の登場人物はそれぞれ個性豊かだが、温和な坂井勇や中野弥一郎に比べて、人肉を喰ったというインタビューに登場する藤田松吉はかなりの曲者?彼は今村昌平監督の『未帰還兵』シリーズの『タイ篇』にも登場し、さまざまな問題提起をしているらしい。それはプレスシートにある佐藤忠男氏の「映像文化とはなにか-『花と兵隊』という映画」を読めばよくわかる。そこまでわからなくても、スクリーン上を観ているだけで、彼の特異性は顕著だから、とりわけ彼に注目したい。
何はともあれ、松林要樹監督のこんなチャレンジに拍手!そして、多少支離滅裂気味ながら、藤田松吉たち6人の未帰還兵からこんな貴重な証言を引き出した松林要樹監督の力量にも拍手!
2009(平成21)年7月4日記