悲しみよりもっと悲しい物語(韓国映画・2009年) |
<角川映画試写室>
2010年1月19日鑑賞
2010年1月23日記
あの元気なクォン・サンウが末期ガン?そんな設定の違和感プラスヒネったストーリー構成には賛否両論が?詩人監督らしい珠玉のセリフは参考になるが、男も女もここまで無理をせず、自分の気持に忠実に生きた方がベターでは?邦題の意味をしっかり噛みしめ、悲しみの限界を極めれば、涙、涙また涙・・・?
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監督・脚本:ウォン・テヨン
カン・チョルギュ(ケイ、ラジオ局敏腕ディレクター)/クォン・サンウ
ウン・ウォン(クリーム、作詞家)/イ・ボヨン
ジュファン(歯科医)/イ・ボムス
ジュナ(ジュファンの婚約者、カメラマン)/チョン・エヨン
キム・カムシク(芸能事務所社長)/イ・ハヌィ
ミンチョル(キム社長の部下)/シン・ヒョンタク
キャットガール(歌手)/ナム・ギュリ
2009年・韓国映画・105分
配給/エスピーオー
<あくまで、愛のファンタジーとして・・・>
本作が初監督・初脚本となるウォン・テヨン監督は、人気詩人らしい。したがって、本作はいかにも映画に素人の詩人が、男女3人の到底ありえない愛のファンタジーを淡々と(?)描いたもの?「監獄と愛は入りこむと自分の意志では出られない」とか、「僕は彼女を愛してしまった。彼女が吐いた息までも・・・」はいかにも詩人監督らしいちょっとくさいセリフだが、そもそも少年時代に父を病気で亡くした後、母に捨てられたラジオ局のディレクターのチョルギュ(クォン・サンウ)と、交通事故で両親と妹を一度に失った作詩家のウォン(イ・ボヨン)が共同生活を送っているという設定がいかにも不自然。
詩ゴコロのない私などは、すぐに若い男女が一つ部屋で共同生活をしていれば自然に・・・、と考えてしまう。しかし、ウォンにとってチョルギュは、時には父のような、時には兄のような、時には恋人のような存在で、男女関係には至らないらしい。しかも、いい年をした社会人が、ウォンはチョルギュのことをケイと呼び、チョルギュはウォンのことをクリームと呼び合いながら、じゃれあって生活していること自体がいかにも不自然。もっとも、そう言ってしまうと身も蓋もないから、私はあえてそれを「愛のファンタジー」と呼んだが、ホントはそこにも少しムリが・・・。
<今回の「純愛」は少しヘン?>
プレスシートによると、本作の謳い文句は、「『ラブストーリー』(2004年)、『私の頭の中の消しゴム』(2005年)に続く、魂を揺さぶる純愛物語」だが、今回の純愛は少しヘン?なぜなら、心から愛し合う者同士であるチョルギュとウォンの単純なラブストーリーではなく、チョルギュはウォンを、ウォンが自力で見つけてきた恋人(?)である歯科医のジュファン(イ・ボムス)と結婚させるべく奮闘努力するというのが本作の基本スト-リ-だから。そのためチョルギュは、ジュファンを婚約者のジュナ(チョン・エヨン)と別れさせるべく何とも涙ぐましい努力まで・・・。
ちなみに同じ日に見た韓国の時代劇『霜花店、運命、その愛』(10年)は、同性愛者で女を抱けないため世継ぎをもうけることのできない国王が、最も信頼できる部下であると同時に最愛の男でもある乾龍衛隊長に「妻を抱け!」と命令する、というこれも少しヘンなラブスト-リ-だった。したがって、この国王も少しヘンだが、本作のチョルギュの行動も少しヘン。なぜ、チョルギュは単純に「俺はお前が好きなんだ」と言えないの?
<クォン・サンウには、末期ガン患者は似合わない?>
悲劇のラブストーリーを演出するため白血病などの病気を持ち出すのは日韓共通の手法だが、末期ガン患者を主役に据えるのなら、クォン・サンウではなく、もう少し細身(ガリガリ?)のそれらしき俳優をキャスティングした方が良かったのでは?なぜなら、『マルチュク青春通り』(04年)(シネマルーム8』35頁参照)、『美しき野獣』(05年)(『シネマルーム10』252頁参照)、『宿命』(08年)(『シネマルーム21』351頁参照)での、いかにも野性的な若者がお似合いのクォン・サンウが、本作ではその元気さを抑制し「静の演技」に徹しているが、どう見てもクォン・サンウには末期ガン患者は似合わないから。
チョルギュと一緒に暮らしているウォンがチョルギュと結婚したいと願っていることは状況から見て明らかだが、なぜチョルギュはウォンに対して「俺と結婚してくれ。きっと君を幸せにするから」と言わないの?それは自分の病気を知り、余命いくばくもないことを知っているからだが、私にはその発想がどうにもまどろっこしい。そもそも、ウォンがチョルギュに代わる、あるいはチョルギュ以上の結婚相手を見つけないうちにチョルギュが死んでしまったら、ウォンは一体どうなるの?
<チョルギュはそんなに我慢せず、自分の気持に忠実に>
私が本作の主人公チョルギュにあまり共感できないのは、自分の病気と死を悟っているチョルギュが自分の感情を押し殺してウォンの幸せはこうあるべきだと勝手に決めつけ、その方向のみに生きているから。つまり、「自分の気持に忠実に!」をモットーとする、性来わがままな私の価値基準に従えば、チョルギュは病気であることを告白したうえ、「自分が死ぬまで2人で幸せに暮そう」と率直にウォンに提案すればいいわけだ。それに対してウォンから「私もあなたを愛しているが、余命いくばくもないあなたと結婚するのはイヤ」だと言われればそれきりだが、きっとウォンはそんなことは言わず、チョルギュが死ぬまで2人は幸せに過ごせるのでは?また、チョルギュが死んだ後のウォンの生き方には所詮チョルギュは関与できないのだから、ウォンは新たにゼロから出発し、新たにいい男を探せばいいわけだ。
そんな私の考え方によれば、自分の病気を隠し続け、ウォンと他の男との結婚を後押しするチョルギュの行動は実にまどろっこしい。チョルギュはそんなに我慢せず、自分の気持に忠実に行動したほうがいいのでは?
<意味シンな邦題の意味をしっかりと!>
わかったようなわからないような本作の邦題は意味シンだから、本作を鑑賞するについてはそれをしっかり確認する必要がある。観客にはチョルギュの末期ガンが当初から明らかにされるから、それを必死にウォンに隠しながらウォンがジュファンと幸せな結婚をするために懸命な努力を続けるチョルギュの姿に、観客は悲しみを覚えるはず。しかして「悲しみよりもっと悲しい物語」とは一体ナニ?
それを考えるヒントは、男と女どちらがウソをつくのが上手?という視点だ。浮気が発覚して夫婦ゲンカから離婚に至るケースは多いが、その場合発覚するのがほとんど男の浮気。統計的に夫の浮気と妻の浮気のどちらが多いのかはわからないが、バレるのが圧倒的に夫の浮気であることは明らかだ。しかし、それは必ずしも夫の浮気が圧倒的に妻の浮気より多いというわけではない。つまり、夫の浮気はすぐ妻にバレるが、夫は妻の浮気を容易にかぎつけることができないから妻の浮気はバレないことが多いだけのことだ。
ここで私が何を言いたいかというと、チョルギュは必死で自分の病気をウォンに隠しているが、ホントにウォンにバレてなかったの?ということ。もし、それがどこかの時点でウォンにバレていたとすれば?そしてウォンがチョルギュの病気のことを知っていたのに、チョルギュのお芝居に合わせていたとしたら?それこそ、それは「悲しみよりもっと悲しい物語」ではないだろうか?ネタばらしをするわけにはいかないが、そんな視点から邦題の意味をしっかりと考えてみたい。
2010(平成22)年1月23日記