肉体の悪魔(フランス映画・1947年) |
<テアトル梅田>
2010年1月2日鑑賞
2010年1月5日記
文学青年なら誰でも知っているレイモン・ラディゲのあの名作が、1947年に完成。さすがフランスだが、いくら美青年のジェラール・フィリップとはいえ17歳の高校生役にはちと違和感が。テーマは年上の人妻との禁断の恋だが、妊娠発覚後のフランソワの行動が見モノ。日本人には馴染みの薄い第一次世界大戦の時代状況を勉強しながら、感性豊かな危険な香りをタップリと!もっとも、30歳をこえて婚カツに苦労している今ドキの恋愛状況では、14歳のラディゲのような、また17歳のフランソワのような、ヤバい恋の展開はとてもムリ?
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監督:クロード・オータン=ララ
原作:レイモン・ラディゲ
フランソワ・ジョベール(17歳の高校生)/ジェラール・フィリップ
マルト・グランジェ(年上の人妻)/ミシュリーヌ・プレール
マルトの母/ドニーズ・グレイ
フランソワの父/ジャン・ドビュクール
ラコーム軍曹(マルトの夫)/ジャン・ヴァラス
1947年・フランス映画・124分
配給/セテラ・インターナショナル
<レイモン・ラディゲとの出会いは、危険な出会い?>
夏目漱石の『坊っちゃん』を読んでも何の毒にもならないが、太宰治の『人間失格』を読めばそれは毒になることも?また石坂洋次郎の『青い山脈』や『若い人』との出会いには何の危険もないが、文学青年なら誰でも知っているレイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』との出会いは、ひょっとして危険な出会いになることも?
中高生の早熟な男の子や大学に入ったばかりの男は自分より年上の大人の女性に惹かれる時期があるもの。そんな男たちにとって、ラディゲの『肉体の悪魔』との出会いによってその疑似体験をしてしまえば、ある時期その本格的体験にハマりこむ危険も。現に私は、そんな男を約1名知っているが・・・。
<いくらジェラール・フィリップでも、17歳の高校生は?>
私は中学2年生の頃から吉永小百合と浜田光夫の純愛コンビをはじめとする日活の青春映画をたくさん観てきたが、あの時代の浜田光夫、高橋英樹、山内賢そして吉永小百合、和泉雅子、松原智恵子などはすべて10代だった。また『エデンの東』(55年)で衝撃的デビューを飾ったジェームズ・ディーンが、24歳の若さで死亡したのは『ジャイアンツ』(56年)に出演した直後。
それに対して没後50年特別企画で「不世出の映画スター」「永遠に輝き続ける大スター」としてとりあげられたジェラール・フィリップは1959年に36歳の若さで死亡したが、1947年の『肉体の悪魔』に主演した時は25歳。しかし、レイモン・ラディゲの原作における、高校生の主人公フランソワは17歳だ。17歳の高校生と年上の人妻マルト(ミシュリーヌ・プレール)との道ならぬ恋が衝撃的なテーマだったわけだが、25歳のジェラール・フィリップは体格をみても表情をみても少し大人になりすぎ。ハンサムな顔立ちとみずみずしさはさすがだが、日活の青春映画を観て育った私には、あの17歳には少し違和感が・・・。
<こんな場合、男と女のどちらがリード役を?>
中学高校時代を男ばかりの学校で真面目に(?)過ごしてきた私は、中学高校時代の恋愛体験はないが、大学に入るとたちまちあっちこっちで恋愛体験を重ねた。また、友人の恋の悩み相談を受けることも多かった。そんな事例の中には、大学に入学したばかりの初心な男が年上の女性と恋に落ちたケースもあったが、そんな場合通常どちらが恋のリード役を?
本作を観ていると、病院としても使われている学校ではじめてマルトを見たフランソワ(ジェラール・フィリップ)が積極的にマルトを誘う様子が描かれるが、それを観て私はフランソワの自信と行動力にビックリ。さらに1度のアタックでまんまと親しくなったうえ、マルトに婚約者がいることを知った後も、マルトのリードに委ねることなく2人の恋の行方を積極的にリードしていくフランソワの姿にビックリ。それは、私の経験では大学に入ったばかりの男が年上の女性と恋に落ちた場合、少なくとも当初のリード役はどうしても女性の方になっていたことと比較するからだ。
とりわけすごいのは、マルトから妊娠報告を受けた時のフランソワの対応。私の経験ではそんな報告を受けるとほとんどの男はたちまちひるみ、困った顔をしていたものだが、さてフランソワは?
<レマルクとラディゲの戦争への距離感は?>
第一次世界大戦におけるドイツとフランスの「塹壕線」の中で、若きドイツ人兵士パウルの苦悩をドイツ側から描いた傑作がエーリッヒ・マリア・レマルクの『西部戦線異状なし』(1929年発表。日本では1955年新潮文庫)。そこでは、否応なく「あの戦争」と向き合わざるをえなかったドイツの若者たちの姿が感動的だ。レマルクは良くも悪くもあの小説の中で、世界がはじめて体験した第一次世界大戦という恐ろしい戦争と直接向き合い、それと格闘したわけだ。
それに対して、わずか14歳で本作のモデルとなった年上の女性と出会って恋に落ち、本作を含む感性豊かな小説を残したフランスのレイモン・ラディゲが死亡したのは、第一次世界大戦が終了した1918年から5年後の1923年で20歳の時。したがって恋にはいくら早熟でも、ラディゲにはあの戦争に直接向かい合うだけの思慮はなく、本作にみるフランソワのように戦争を嫌い、戦争を斜めからみていただけ?これが太平洋戦争中の日本だったら、「非国民!」と罵られてえらいことになるところだが、そこはさすが個人主義の国フランス。そんな女たらしの息子(?)を温かく見守る父親(ジャン・ドビュクール)も偉い。
第一次世界大戦に日本は本格的に参戦しなかったため、日本人は日清、日露戦争そして太平洋戦争ほど馴染みはないが、本作をみて『西部戦線異状なし』のレマルクと『肉体の悪魔』のラディゲの、「あの戦争」への距離感を比較してみるのも面白いのでは?
<いざといういう時、やっぱり男はダメ?>
第一次世界大戦は終わりに近い。本作を観ていると、1918年のあの時期多くのフランス人はそう感じていたようだが、フランソワはそれを「俺には戦争なんか関係ない」と更に自分に都合よく解釈していたようだ。しかし、いったん別れた後再度復活したマルトとの恋と愛欲生活(?)にどっぷりと浸っていたフランソワにとって、終戦が現実の話となり、マルトの夫ラコーム軍曹(ジャン・ヴァラス)が前線から戻ってくるとなると、そりゃ大変。だって2人は「鬼のいぬ間に・・・」をちゃっかり決め込み、マルトの母(ドニーズ・グレイ)の反対を無視してずいぶんと甘い生活を楽しんでいたのだから。
そんな緊迫した状況下での、フランソワとマルトの議論が面白い。つまりこういう生々しい局面になると、互いの本性が滲み出てくるわけだ。ちなみに、フランソワはもちろんマルトもうまいことラコーム軍曹がドイツ軍の弾丸にあたって死んでくれたら・・・、と何度も思ったことだろう。ところが、そんな兵士に限ってきっちりと帰還してくるもの。ラコーム軍曹が帰ってきたらすべてを話す。フランソワは何度もそう宣言していたが、さて実際にラコーム軍曹の姿を目の前にした時のフランソワの行動は?前半の1つのハイライトとなる桟橋のシーンでは、フランソワは父親から深遠な男と女の駆け引きや真心を教えられたが、後半のハイライトにおけるフランソワの行動は何とも情けない。普段は大きなことを言っていてもいざという時やっぱり男はダメ?
<人間の本性を描くには、やっぱり悲劇が>
本作は一人陰鬱な顔をしたフランソワの姿からスタートするが、それが過去を思い返しているのだとわかるまでにかなりの時間が必要。もっとも、過去の回想と言っても、フランソワとマルトとの出会いと別れ、再会と恋の復活そしてただれた愛欲生活(?)の時期はそれほど長くないから、2人の恋のストーリーを理解するのは簡単。しかしラディゲの経験では14歳の時、本作においては高校生で17歳のフランソワが人妻であるマルトとの間でこんな波乱万丈かつ悲劇的な恋に落ちた場合、責任ある対応は到底ムリ?そうするとそんな恋の行き着く先は大体アンハッピー?
本来私小説というのはハチャメチャな自分の体験を生々しく表現するもの。したがって、それが常識人にとって体験できないようなことであればあるほど小説として、つまり他人事として面白い。つまり自分がホントに体験できないヤバい体験を読者は小説で疑似体験して楽しむわけだ。ところが映画の中でフランソワが「君を忘れないために僕はいつかこれを小説にする」と語るシーンがあるが、まさにラディゲは自分の体験をそのまま赤裸々に(?)小説にしたのだから読者はそんな小説を楽しむことはできてもラディゲ本人は相当辛かったはず。他方小説はフィクションだからどんな結末にしてもいいはず。したがってラディゲが小説の結末をハッピーエンドにすることも十分可能だったはず。しかしラディゲがそうしなかったのはやはりそれでは人間の本性を描いたことにならないから。そう考えると本作におけるあの悲劇的な結末にも十分納得・・・。
2010(平成22)年1月5日記