告白(日本映画・2010年) |
<東宝試写室>
2010年5月18日鑑賞
2010年5月21日記
久しぶりに、邦画のものすごい衝撃作に遭遇!当初30分間も続く衝撃的な告白が、序章に過ぎなかったとは!二転三転する展開に翻弄された挙句、ラストにこんな結末が待っていようとは!天才・中島哲也監督の見事な演出に拍手!なお、共犯理論とりわけ共謀共同正犯と間接正犯の成否という刑法論的視点を持てば、更に興味深いはず・・・。
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監督・脚本:中島哲也
原作:湊かなえ『告白』(双葉社刊)
森口悠子(1年B組担任教師)/松たか子
ウェルテルこと寺田良輝(2年B組担任、新米熱血教師)/岡田将生
下村直樹の母親/木村佳乃
森口愛美(悠子の娘)/芦田愛菜
渡辺修哉(犯人A)/西井幸人
下村直樹(犯人B)/清水尚弥
北原美月(少女A)/橋本愛
桜宮正義(世直しやんちゃ先生、悠子の元恋人)/山口馬木也
2010年・日本映画・106分
配給/東宝
<小説が先?それとも映画が先?>
中島哲也監督が天才といわれているのは、独創的な映像と大胆な演出によるもの。最新の『パコと魔法の絵本』(08年)の出来はイマイチだったが(『シネマルーム20』246頁参照)、『下妻物語』(04年)は面白かったし(『シネマルーム4』323頁参照)、『嫌われ松子の一生』(06年)は最高傑作だった(『シネマルーム10』360頁参照)。他方、2008年の伊坂幸太郎の『ゴールデンスランバー』(2007年・新潮社)に続いて、2009年度本屋大賞を受賞したベストセラー小説が、湊かなえ原作の『告白』。これは6章からなるものだが、タイトルどおり告白形式で構成されているから、その映像化は難しいはず。ところが中島監督はそれによってかえって創作意欲を刺激されたのか、自ら脚本を書いて本作を完成させた。
「告白」には西欧式の神父様への「懺悔」と違って何のルールもないからウソの告白もありだが、告白という言葉自体に重々しさがあるため、ウソはないとつい錯覚してしまうところがミソ(?)。湊かなえの原作も、そして本作も①森口悠子先生(松たか子)の告白、②ウェルテルこと寺田良輝(岡田将生)の告白、③直くんママ(木村佳乃)の告白、等々の「告白」形式で構成されているが、その告白はどこまでがホントで、どこまでがウソ?それが大問題だ。
小説が先?それとも映画が先?ということがよく議論されるが、本作を観て大きな衝撃を受けた私は、本作については断然「映画が先」。それは逆にいうと、小説を先に読んだ人には本作の衝撃度は小さいかもしれないということだが、さてあなたは?
<なるほど、これが学級崩壊!>
学級崩壊という言葉はよく聞くが、残念ながら私はその実態を知らない。しかし、映画の冒頭から約30分にわたって続く本作全体の問題提起となる悠子の告白を観ていると、なるほど、これが学級崩壊かと納得。
教室内で歩き回りながら悠子がしゃべっている間も悠子が担当している1年B組13歳の生徒たち37人はイヤホンで音楽を聴いている子、メールを打っている子、ボールの投げっこをしている子、挙げ句の果てに教室を抜け出し屋上で遊んでいる子など、ハチャメチャ。よく、まあこんな状況下で授業ができるものだとビックリ。
<「森口悠子先生の告白」の衝撃度に唖然!>
そんな学級崩壊状態の生徒たちに対して一方的に悠子が「告白」しているのは、かつての恋人・桜宮正義(山口馬木也)との間に生まれた悠子の愛娘・愛美(芦田愛菜)が3歳の時プールで死亡した事件のこと。つまり、最終的には愛美自身の転落事故だとして処理されたこの事件が実は事故死ではなく、クラスの中の2人の生徒によって殺されたのだという告白だったから、生徒たちはビックリ。告白の進行に従って生徒たちの間では犯人捜しのメールが飛び交ったが、結局悠子の口からは犯人A・渡辺修哉(西井幸人)と犯人B・下村直樹(清水尚弥)の名前が明らかに。しかし、それってホント?
他方、犯人の名前を明らかにしたにもかかわらず悠子は、自分の狙いは少年法で守られた犯人たちの名前を公表したり警察に届けたりすることではなく、自分なりのある方法で処罰を与えることだと宣言。さて、その「ある方法」とは?
この告白は淡々と語られているが、それがかえって迫力がある。悠子の学校は第2次性徴期にあたる中学生に牛乳の積極的な摂取を推進する全国中学生乳製品促進運動のモデル校らしいが、それをうまく利用した「ある方法」による処罰を下したことに、犯人A、犯人Bを含む生徒たちは驚愕。そして私も、そんな悠子の告白の衝撃度に唖然。
<ホントにいるの、こんな先生?今後も増殖人種?>
「事実は小説よりも奇なり」と言うものの、やはり小説はつくりものだから、いくらでも誇張することが可能。本作におけるウェルテルこと寺田良輝先生のKYぶり(独りよがりぶり)を見ていると、そう痛感する。ウェルテルは悠子先生のあとを受けて2年B組の担任となった新米教師だが、生徒とはタメ口をきかない、友人のように接しないと固く決めた悠子先生とは正反対の熱血先生。しかし、ホントにいるの、こんな先生?
あの事件以来不登校となってしまった犯人Bこと下村直樹を救いたい一心で、ウェルテルは級長の北原美月(橋本愛)とともに一週間に1度直樹の家を訪ねはじめたが、その積み重ねの中さらなる大惨事が起きようとは。本人が自分の行動の客観的意味をわかっていないのだからどうしようもないが、こんなタイプの人間が増殖人種だとしたら、日本の教育界はますます絶望的・・・。
<木村佳乃のモンスターペアレントぶりは?>
それと同じように、原作者・湊かなえが若干誇張して描いた(?)モンスターペアレントが、木村佳乃演ずる直クンママ。いい子だった直樹が終業式の日における悠子先生の告白によって大ショックを受けたため不登校となり、自宅に引きこもってしまったことに直クンママは大困惑。わが子を溺愛する直クンママの憎しみが悠子に向かったのは当然だが、ウェルテルの週1度の家庭訪問がさらに直クンママの怒りに火をつけたから大変。
原作では直クンママは直樹が不登校になったのは悠子の告白が原因だとして学校に訴え出るらしいから、まさにモンスターペアレント。しかし、本作における直クンママのモンスターペアレントぶりは顕著ではなく、私の目にはむしろ悠子の告白による一方的な被害者のようにみえる。わが子がここまでボロボロになってしまったら、いっそわが子を殺し自分も死のうと思ったのもある意味仕方ないところ。しかし、それによって引き起こされた結末は、直クンママにとってもっと悲惨で最悪のものに。
中島監督は『嫌われ松子の一生』で天下の美女・中谷美紀を徹底的にボロボロにしたが、本作でも天下の美女・木村佳乃をボロボロに。ひょっとして、中島監督にはサドの傾向が・・・。
<こんな奥深い刑法的論点も>
刑法総論は犯罪論と刑罰論から成るが、犯罪論の中に共犯論がある。犯人Aと犯人Bが共謀のうえそれぞれの役割を決めて愛美を殺した場合、犯人Aと犯人Bは共謀共同正犯だが、本作で悠子が説き明かしたように、犯人Aが発明したある小道具に愛美が触れたことによって犯人Aの計画どおり愛美が死亡し、犯人Aが誘ったためにその場にいただけの犯人Bが死亡したと思った愛美をプールに投げ込んだだけだとしたら、犯人Aは当然殺人罪だが、さて犯人Bは?この場合犯人Bには殺人の故意がないから殺人罪は成立せず、せいぜい死体損壊罪。他方、愛美がショックで失神しただけでまだ死亡していないことを犯人Bが知りながら、愛美をプールの中に投げ込んだことによって愛美が死亡したとしたら、さて犯人Bの罪は?この場合犯人Bには明らかに殺人罪が成立するが、犯人Aは殺人未遂罪のみ?それとも、犯人Bの行為による愛美の死亡と犯人Aの行為は因果関係あり?
このようにいろいろと奥深い刑法的論点が生まれてくるが、愛美の死亡についてさまざまな計画を巡らせた犯人Aこと修哉の告白と、修哉によって踊らされた感の強い犯人Bこと直樹の告白は?そこで問題となるのが前述した告白の信憑性だが、さすが天才・中島監督の演出はお見事!一体何が真実なのか?ここで私が指摘した刑法的論点も頭に置きながら、二転三転するストーリー展開をじっくりと楽しみたい。
<修哉は天才?それとも所詮子供?>
本作における犯人Aと犯人Bの告白を聞いていると、人格形成はどのようになされるのかという観点からも興味深い。とりわけ愛美殺しについて主犯格となり、「僕がやったって言いふらしていいよ」と公言する修哉の人格がどのように形成されてきたのかは、少年犯罪や心理学を研究する人たちにとっては興味深いはずだ。
そこでポイントになるのは、修哉は天才的な物理学者だった母親の血を引いているうえ天才物理学者になるように育てられたにもかかわらず、両親の離婚によってその前途が大きく変わったということ。幼い頃母親から虐待に近い教育を受けていた修哉には母親に反発する気持があるはずだが、同時にそんな母親から天才物理学者として認めてもらいたいという気持もあったようだ。修哉の告白では母親に対して持っているそんな両極端の気持がオブラートに包まれているうえ、真実と虚偽が入り混じっているから、その真相は観客にはわかりづらい。しかし、愛美の死亡原因を考えに考え、生徒たちを丹念かつ冷静に観察し続けてきた悠子なら、そんな修哉の母親に対する気持とその揺れを十分理解できたのでは。そんな修哉はたしかに天才かもしれないが、悠子の目には所詮子供?
<クライマックスにも刑法論的視点を>
刑法の共犯論には「間接正犯」という重要な概念がある。Aが何も知らない第三者Bを利用して毒薬入りの紅茶をCに提供させた場合、あるいは郵便で毒入りの菓子を届けさせた場合、Aは間接正犯として殺人罪になるわけだ。その理由は、Cの死亡はAが直接手を下したものではないが、媒介となった第三者の行為はこれを意志のない道具と同視し得る(道具理論)などの理由により、規範的にみれば背後の利用者こそが「人を殺した者」と評価されるからだ。
本作のクライマックスは、修哉が全校生徒が集まる場所に仕掛けた時限爆弾の行方。修哉はなぜそんな恐ろしい計画を?それはあなた自身が映画をみて確認してもらいたいが、天才物理学者の修哉ならそれくらいの装置をつくることはできるはず。ところが現実に時限爆弾が爆発したのは全校生徒が集まった講堂ではなく、修哉の母親の研究室。こりゃ一体どうなってるの?もし、これを仕組んだのが悠子だとしたら、悠子は刑法上の間接正犯?クライマックスにもそんな刑法論的視点でみれば一層興味深いのでは?
2010(平成22)年5月21日記