十三人の刺客(日本映画・2010年) |
<東宝試写室>
2010年8月11日鑑賞
2010年8月13日記
暴君を討つ!そこで集まった刺客は、12人の侍プラス1人の山の民。暗殺だけなら刺客より忍者のほうが適任では?そう思うシーンもあるが、エンタメのためには「斬って、斬って、斬りまくれ!」の方が。見モノは、ラスト50分の死闘。その前半は痛快だが、後半は?三池監督にしてはオーソドックスな作りが目立つが、その賛否は微妙?
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監督:三池崇史
島田新左衛門(御目付七百五十石)/役所広司
島田新六郎(新左衛門の甥)/山田孝之
木賀小弥太(山の民)/伊勢谷友介
三橋軍次郎(御小人目付組頭)/沢村一樹
佐原平蔵(浪人)/古田新太
日置八十吉(御徒目付)/高岡蒼甫
大竹茂助(御徒目付)/六角精児
石塚利平(足軽)/波岡一喜
樋口源内(御小人目付)/石垣佑磨
堀井弥八(御小人目付)/近藤公園
小倉庄次郎(平山の門弟)/窪田正孝
平山九十郎(浪人)/伊原剛志
倉永左平太(御徒目付組頭)/松方弘樹
牧野靭負(木曽上松陣屋詰)/松本幸四郎
松平左兵衛督斉韶(明石藩主)/稲垣吾郎
鬼頭半兵衛(明石藩御用人千石)/市村正親
2010年・日本映画・145分
配給/東宝
<集まった刺客は12人。もう1人は?>
映画冒頭、明石藩江戸家老・間宮図書(内野聖陽)の切腹シーンと明石藩主・松平斉韶(稲垣吾郎)の目を覆うばかりの暴虐ぶりが示される。そして、江戸幕府老中・土井大炊頭利位(平幹二朗)から御目付・島田新左衛門(役所広司)に対して斉韶暗殺指令が出され、新左衛門は参謀格の御徒目付組頭・倉永左平太(松方弘樹)と共に斉韶暗殺のため、同志=刺客を募ることに。その結果、左平太を含め集まった刺客は、新左衛門の甥・島田新六郎(山田孝之)、剣豪浪人・平山九十郎(伊原剛志)、そして槍の名手・佐原平蔵(古田新太)など合計12人。あれれ、タイトルは『十三人の刺客』だが、あとの1人は?
黒澤明監督の『七人の侍』(54年)でも、たった1人侍ではない三船敏郎扮する菊千代が異彩を放っていたが、本作におけるそれと同じような存在が、旅の途中で一行に拾われた山の民・木賀小弥太(伊勢谷友介)。伊勢谷友介は、現在NHK大河ドラマ『龍馬伝』でも野性味あふれる高杉晋作役を演じているが、三池崇史監督らしく本作での小弥太の野性味ぶりは、ちょっとおふざけが過ぎるのではないかと思うほど徹底している。
途中から1人こんな変わり者が加わったことによって、結局「刺客」は13人に。
<「暗殺」が目的だが、映画的には・・・?>
1963年11月22日に起きたケネディ大統領の暗殺は厳しい警護の中、一瞬で実行された。また、去る12日に見た『桜田門外ノ変』では17名の水戸藩士と1名の薩摩藩士が桜田門外で大老・井伊直弼を襲い、わずか数分で目的を達成した。他方、『ジャッカルの日』(73年)では、ジャッカルは残念ながらドゴール大統領の暗殺に失敗。やっぱり現実は「ゴルゴ13」のようにうまくいかないことを実証した。しかして、新左衛門が参謀格の左平太と共に練る斉韶暗殺計画の全貌とは?
ここで面白いのは、斉韶の御用人として側を守る、新左衛門の好敵手・鬼頭半兵衛(市村正親)が早い段階で新左衛門の暗殺計画を見抜いていること。したがって、攻める方も守る方も相手の手の内を読みながらの作戦立案となるわけだ。そんな2人の対峙の仕方や会話を聞いていると、互いに侍だけにどこか牧歌的?こんなシーンを見ていると、老中が本当に斉韶暗殺を狙うなら、侍の新左衛門に頼み刺客を集めるより、石川五右衛門のような腕利きの忍者を雇ったほうが目的達成の可能性が高いのでは?もっとも、それでは本作の企画自体が成り立たなくなるから、それは言いっこなし?
しかして、本作最大の見どころはラストに50分間も続く、十三人の刺客VS生き残り約二百人の斉韶警護隊との死闘。やっぱり映画的にはこうでなくっちゃと納得したが、暗殺が目的なら別の方法の方が・・・。
<何ともオーソドックス!久しぶりにあの懐かしいセリフも!>
三池崇史監督の『I ZO(以蔵)』(04年)や『46億年の恋』(06年)は全然訳がわからなかったが、『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』(07年)は最高に面白かった(『シネマルーム16』14頁参照)。平幹二朗や松本幸四郎を起用すれば重量感が増すのは当然だが、時代劇初出演の市村正親に「侍の為すべきことは、ただ一つ主君に仕えることではないのか!」というセリフをしゃべらせているところなど本作のオーソドックスぶりにビックリ。もっとも、新左衛門を単なる忠義の士ではなく、幅も広く、奥行の深い人間であることを、甥の新六郎との対話の中で見せ、暗殺計画の決断も作戦の立案も「一世一代の大博打だ」と語らせているのは三池監督流。山の民の小弥太を除く12人の刺客のキャラもバラエティーに富んでいるが、あくまでオーソドックスな作りになっている。三池監督はその盟友(?)クエンティン・タランティーノと同じように主流ではなく異端派の鬼才だが、本作はこの小弥太を唯一の例外として何ともオーソドックス!松方弘樹の起用はその最たるものだし、槍の名手・平蔵を演ずる劇団☆新感線の古田新太も、笑いを封印して真面目な演技に徹している。ラスト50分の迫力ある死闘が本作のハイライトで、そこに三池監督のエンターテインメント性を集約しているが、そこに至るまでの侍たちの行動とセリフは何ともオーソドックスだ。
しかして、オーソドックスさの究極は新左衛門の「各々方、覚悟は、よいな!」のセリフ。ちなみに、この「各々方」というセリフは、2作目のNHK大河ドラマ『赤穂浪士』(64年)で長谷川一夫演ずる大石内蔵助が語り、一世を風靡したものだが、それを46年後の今、三池作品で聞けるとは。
<「斬って、斬って、斬りまくれ!」をどう見る?>
「映画はエンタメ」と割り切れば、本作のラスト50分はまさにそれ。いかにも三池監督らしい一大エンターテインメントに仕上がっており、そのテーマは「斬って、斬って、斬りまくれ!」。ちなみに、ある時から姿を消してしまった明石藩の一行が再び現れた時、その数は300人以上になっていたから、いくら落合宿を借り切ってそこを彼らの墓場とするべく大小さまざまな細工を施しても、しょせん多勢に無勢?
そう思っていたが、①橋の爆破による退路の遮断、②巨大バリケードによる兵力の分断、③火の牛の活用、④上空から降らせる矢の雨、そして⑤逃げ込んだ建物の爆破、という序盤の戦いを見ていると、それだけで敵の兵力が半減したのでは?戦いのセオリーからすれば、敵の混乱に乗じてさらに攻撃のスピードを早め、楠木正成が千早赤阪城でやったような火攻め、石攻めが有効なはず。ところが、それを徹底できないのが侍の悲しさ?わざわざ、そこで「皆殺し」の札を掲げたり、「斬って、斬って、斬りまくれ!」宣言をして大勢の敵が待ち構えている中に降りていかなくてもいいのに。なぜ侍はそこまで戦いの作法にこだわるの?
それにしてもビックリするのは、刺客たちの腕の確かさ。とりわけ新六郎や九十郎、そして老齢ながら左平太だって大したもの。この斬り合いを見ていると、これらの腕利き刺客によって斬り捨てられた明石藩士は優に100人は超えているはずだ。そう考えると、刺客たちが一人また一人と討たれていくシーンの登場は少し遅すぎるのでは?もっとも、そんな意地悪な見方をせず、率直かつ無心に「斬って、斬って、斬りまくれ!」を楽しむのが一番かも?
2010(平成22)年8月13日記