デンデラ(日本映画・2011年) |
<東映試写室>
2011年5月16日鑑賞
2011年5月17日記
浅丘ルリ子をはじめ、かつて銀幕を飾った華やかな女優たちが総出で老婆役に挑戦!姥捨て山は70歳からだが、何とデンデラには100歳の大ボスが!今村昌平監督の『楢山節考』(83年)は悲しい映画だったが、長男・天願大介による本作は、村(人)への復讐や母子熊との対決などアクションが満載!それはそれで面白いのだが、その分、姥捨て山の是非論と老婆たちによる復讐の是非論という視点が、後半かなり薄れてしまったのでは?
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監督・脚本:天願大介
原作:佐藤友哉『デンデラ』(新潮社刊)
斎藤カユ(70歳)/浅丘ルリ子
椎名マサリ(89歳)/倍賞美津子
浅見ヒカリ(狩猟のエキスパート、85歳)/山本陽子
三ツ屋メイ(デンデラを作った老婆、100歳)/草笛光子
小渕イツル(99歳)/山口果林
保科キュウ(87歳)/山口美也子
石塚ホノ(86歳)/白川和子
桂川マクラ(88歳)/角替和枝
福沢ハツ(74歳)/田根楽子
黒井クラ(カユの親友、71歳)/赤座美代子
2011年・日本映画・119分
配給/東映
<これぞ女優魂!必然性あれば70歳でも100歳でも!>
私は1949年生まれだから、1945年生まれの吉永小百合はもちろん、その前後の生まれである浅丘ルリ子や山本陽子、倍賞美津子たちの年齢はしっかり頭の中に入っている。日活ロマンポルノの女王だった白川和子も、もちろんだ。そんな彼女たちが、70歳を超えて姥捨て山に捨てられた老婆役で大活躍!もっとも、草笛光子は彼女たちより更に年上の1933年生まれ。男を排除し、姥捨て山に捨てられた老婆のみによって構成された「デンデラ」という共同体をつくりあげたのが、この草笛光子扮する三ツ屋メイだ。70歳を超えたため捨てられた浅丘ルリ子扮する斎藤カユを救い、デンデラに連れてきた時、メイは何と100歳。そして、カユはちょうど50人目というストーリー構成にまずはビックリ。
本作は佐藤友哉の原作を天願大介が脚本・監督したものだが、小説にはない脚本の工夫は、30年前に捨てられたメイの回想シーンを入れたこと。これによって、デンデラの創設から今日まで30年間の歴史が素描される。創設者としてこれだけユニークな活動を展開していれば、メイはそのうち日本経済新聞社の『私の履歴書』に取り上げられるほどの著名人になるのでは・・・?それにしても、さすがそれぞれ一時代を築いた女優たち、そしてまた若い時から今日まで「継続こそ力なり」を実践している女優たちだ。これぞ女優魂!必然性のある役なら、70歳でも100歳でも!
<「村人への復讐」の論点は?共同体の意思決定は?>
貧しい村では、人減らしのため役に立たない老人を姥捨て(山)に捨てる習慣は合理性あり。私は昔からそう考えていたが、本作にみるメイとカユの議論、さらに誰よりも悲惨な目にあった椎名マサリ(倍賞美津子)も加わった、姥捨てをした「村(人)への復讐」をめぐる議論を聞いていると、そんな持論に少し自信がなくなってくる。デンデラはメイが創設した共同体だが、メイが特権や特典を持つことなく、いわゆる「原始共産制」で運営しているため全員が平等。したがって、貧しくても全員の衣食住が確保されていた。すると、前の村ではなぜそれができなかったの?
メイの説明によると、それは男衆が力を握っていたうえ、特権や特典を持つ少数者がおり、不平等社会になっていたため。そんな男中心かつ差別社会の犠牲者が70歳を超えて捨てられた私たちだ、というのがメイの主張だ。この第1の論点はなるほど、とよくわかる。しかし、だからといって村(人)に復讐して男たちを皆殺しにするというメイの主張が私にはイマイチ不明。もしデンデラが発見されたら、デンデラはまちがいなく村人たちによってつぶされてしまうから「殺されるか、殺すか」だというのがメイの主張だが、「意気地なし」と呼ばれているマサリの主張はあくまでデンデラをより経済発展させるべきだというきわめてまともな正論。そんなデンデラという老婆共同体の運営をめぐるメイとマサリの議論は興味深いから、私としてはもう少し論点を整理して議論を続けてほしかったが・・・。
この2人に比べれば、「極楽」に行くことのみを祈っていたカユの知的レベルはかなり低い。したがって当初カユの言い分は彼女たちの議論とうまくかみ合ってなかったが、その後デンデラでの現実生活がしっかり見えてくるようになると、カユの成長は急速。しかして、ついに村(人)への復讐の日にちが決定されると、カユは・・・?
<途中から、大きく路線変更?>
山本陽子や白川和子ら往年の日活の大女優たち、さらに山口果林や山口美也子、赤座美代子らの個性派(?)女優たちも、ここまで老け役に徹すると誰が誰やらわからなくなってしまうが、それぞれの個性は健在!本作のメインテーマは、姥捨て山に捨てられた老婆たちが新たなシステムによって構築した新興勢力による、自分たちを捨てた男たち旧態勢力への復讐。本作冒頭からの流れをみて私はてっきりそうだと思ったが、村への襲撃日が決定した直後に発生したのが、母子熊によるデンデラ襲撃事件。これによって一定の犠牲者が出たうえ、カユの唯一人の親友だった黒井クラ(赤座美代子)が熊に足を食いちぎられて瀕死の重傷を負うことに。今まで30年間もデンデラは熊から襲われることはなかったのに、今やっと念願の復讐を実現しようという時になって、なぜ熊がその邪魔を?
メイはそう考えたが、熊にしてみればそんなメイの念願を邪魔するつもりは毛頭なく、単に今年の冬はエサに不足したからデンデラを襲っただけ。すると、これに味をしめた熊は再びデンデラに?全員70歳を超えた老婆たちの次に備えるためのここでの議論は意外と論理的だ。しかして、再び必ずやってくると確信した老婆たちが下した結論は、クラをおとりにして血の味を覚えているはずの熊をおびき寄せ、全員が力を合わせて熊を討ち取ろうというもの。なるほど、こりゃ女性特有の感情を見事なまでに押し殺し、最も合理的かつ適切な手段を選んだものだ。クラの親友であるカユだけはこれに猛反対したが、クラ本人が「喜んでみんなの役に立つ」と宣言すれば、それ以上積極的に反対する根拠はない。しかして、以降スクリーン上で展開されるかつてみたことのない、老婆たちVS母子熊の対決の行方は?これはこれで興味深いが、あれあれ、いつの間にこんな路線変更が?
<メイはとことん不幸な星の下に?>
本作の最大の論点は、デンデラの創設者として30年間を生き抜き、今やっと50人の構成員になったところで、念願の村(人)への復讐が実現できるのか否かということ。あの母子熊襲撃事件が発生したため少し予定が狂ったが、今やっと老婆たちはマサリを代表とする「意気地なし」老婆数人を残して、村(人)への復讐の途につくことに。カユもその一員としてしっかり歩みを進めていたから、カユはカユなりに村(人)への復讐の意味や自分の息子が老婆たちに殺されても仕方なしと納得できていたはずだ。ところが、ここでも老婆たちの進軍を突如襲った雪崩によって、メイの夢は砕かれていくことに。
雪の映画といえば、高倉健や北大路欣也などのオールスターが出演した『八甲田山』(77年)を思い出すが、その最大の見せ所はTVコマーシャルでも使われた、北大路欣也の「天は我々を見放したか!」と嘆くシーン。本作ではまさにそれを彷彿させるシーンが登場!メイはデンデラを創設したうえそれをここまで発展させ、100歳の今でも元気にリーダーとしての役割を果たしているのに、30年ぶりの晴れ舞台を迎えようとしている今なぜ雪崩に遭わなければならないの?ひょっとして、メイはとことん不幸な星の下に生まれてきたの?
<ラストには、どんな結末が?>
本作は本来の「村(人)への復讐」という大テーマから、いつのまにか母子熊との対決へ、さらに子熊をしとめられ、自らも片目とされた母熊と老婆たちとの対決へという流れが顕著になってくる。復讐反対派で「意気地なし」と呼ばれているマサリたちも、自らの生活を守るために母熊と戦うことには大賛成。もっとも、弓矢はあっても鉄砲はないから老婆たちの力だけでは心もとないが、さてマサリはいかなる作戦を?
本作後半には母熊VS老婆たちの第2ラウンドの戦いが展開され、一瞬老婆たちの勝利かと思わせたが、母熊は予想以上にしぶとかった。そのため、遠征途中でメイを失い、母熊との第2ラウンドでマサリを失うなどで、デンデラに残る老婆たちの数は激減していたが、そんな中最後にカユが選択した道とは?それは、カユが自ら「おせっかいだから」と言いながらついてくる浅見ヒカリ(山本陽子)と2人で傷ついた母熊を追跡していくものだが、さてそこにおけるカユの戦略とは?
雪の中を歩きに歩いてやっと傷ついた母熊を発見したのに、今度は2人して逃げ出していくサマを見ていると、私の頭の中ではカユの作戦に疑問が湧いてきたが、さて本作にはどんな結末が?あっと驚くカユの戦略とその結末は、あなた自身の目でしっかりと。
2011(平成23)年5月17日記