遥かなる勝利へ(ロシア映画・2011年) |
<ビジュアルアーツ専門学校 試写室>
2013(平成25)年9月20日鑑賞
2013(平成25)年9月27日記
『戦火のナージャ』(11年)で観た戦闘シーンの連続と美しいラストシーンには大感激だったが、ニキータ・ミハルコフ監督が描く全三部作の完結編となる本作の感動とは・・・?共産党内部の権力闘争の激しさは、9月22日に「終身刑」の言い渡しを受けた中国の薄熙来裁判の展開を見れば明らかだが、スターリンがかつて革命の英雄であったコトフに対して下したハチャメチャな命令とは?そして、その任務に就いたコトフが取った、何とも奇妙な突撃命令とは?戦闘シーンの激しさでは、「ロシア版プライベートライアン」と呼ばれた前作には及ばないが、父娘の情の濃さとあっと驚くラストシーンの余韻は前作以上!たまには、こんな重厚な作品に全神経を集中させながら、大きな感動を味わってみたいものだ。
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監督:ニキータ・ミハルコフ
セルゲイ・ペトロヴィチ・コトフ(元陸軍大佐)/ニキータ・ミハルコフ
ドミートリ・アーセンティエフ大佐(秘密警察の幹部)/オレグ・メンシコフ
ナージャ・コトフ(看護兵として従軍するコトフの娘)/ナージャ・ミハルコワ
マルーシャ(コトフの元妻)/ヴィクトリア・トルストガノワ
スターリン/マクシム・スハノフ
コムストック・グループ、ツイン配給・2011年・ロシア映画・150分
<『戦火のナージャ』の興奮をもう一度!>
ロシアのニキータ・ミハルコフ監督といえば『12人の怒れる男』(07年)(『シネマルーム21』215頁参照)と思い込んでいた私は、『戦火のナージャ』(10年)を観て、ド肝を抜く戦闘シーンの連続と美しいラストシーンに大興奮(『シネマルーム26』110頁参照)!ロシア映画史上最大の製作費を投入し、「ロシア版プライベート・ライアン」(98年)とも形容された2時間30分のこの大作は、とにかくすごかった。『戦火のナージャ』が同監督の『太陽に灼かれて』(94年)の続編であることはその時はじめて知ったが、本作『遥かなる勝利へ』はそれに続く3部作の完結編になるものだ。
日活がオールスターでつくった山本薩夫監督の『戦争と人間』3部作(70、71、73年)(『シネマルーム5』173頁参照)は五味川純平の同名の長編小説を映画化したものだから、本来は『人間の條件』全6部作(59~61年)(『シネマルーム8』313頁参照)以上の長尺になるはずだったが、製作費の関係で無理やり全3部作で完結せざるをえなかったらしい。しかし、『太陽に灼かれて』『戦火のナージャ』『遥かなる勝利へ』はニキータ・ミハルコフ監督の強い意思によって全3部作にまとめられただけに、その完成度は高い。『戦火のナージャ』では、父親のアレクセイ・セルゲーヴィチ・コトフ(ニキータ・ミハルコフ)が懲罰部隊の隊員としてムチャクチャな戦闘に参加せざるをえなかったし、娘のナージャ(ナージャ・ミハルコフ)も看護兵ながら生死スレスレの境目を体験させられていた。そのうえ、ラストシーンでナージャは、死んでいこうとする若い兵士の頼みに応じて、白く美しい胸を見せてやるサービスも・・・。
『戦火のナージャ』が2時間30分なら、『遥かなる勝利へ』も同じ2時間30分。何とも見事な編集技術だが、『戦火のナージャ』の2時間30分は短く感じたほどだ。そんな3部作の完結編と聞くと、それだけで胸が躍ってくる。『戦火のナージャ』の興奮をもう一度!
<鉄壁の要塞VS塹壕戦、そして督戦隊とは?>
塹壕戦は、ドイツのレマルクが1929年に発表した小説『西部戦線異状なし』で描かれた第1次世界大戦特有のもの。私はそんな風に思っていたが、1943年当時の第2次世界大戦における独ソ戦でも、塹壕戦はあったらしい。他方、コンクリートでゴチゴチに固められた要塞といえば、日露戦争(1904年~05年)における旅順二〇三高地の戦いを思い出すが、今ドイツ軍が立て籠もっている要塞は、もちろんそれ以上の鉄壁さだ。本作冒頭、ニキータ・ミハルコフ監督はそんなソ連軍の塹壕の様子とドイツ軍の要塞の中で銃座を担当する兵士の様子を、飛び回る蚊に託して描いている。ちなみに、そこでは人間の血を吸うのはメスの蚊だけだという兵士の説が有力だったが、その真相は・・・?
それはどうでもいいのだが、「赤軍」と呼ばれるソ連軍の指揮命令系統がいかにハチャメチャであるかが、本作冒頭の酔っ払い少将の攻撃命令の下し方でわかる。つまり、酒の席(?)でちょっと気分を害されたこの少将は、その腹いせに懲罰部隊の指揮官を呼びつけ、これから1時間以内に攻撃体制を整え要塞への正面攻撃を行うべきことを命じたのだ。そんなことをすれば攻撃隊はほとんど全滅してしまうことは明白だが、軍隊では上官の命令が絶対であることは、かつての日本陸軍もソ連の赤軍も同じだ。そんな中、懲罰部隊の一員として塹壕に入っていたコトフ(ニキータ・ミハルコフ)は動揺する兵士たちに対して「戦えば生き残れる可能性はある」と諭していたが、それって一体どういう意味?
ちなみに、字幕には「督戦隊」という言葉が数回出てくるが、あなたはその意味を知ってる?これは自分の軍隊を後方から監視し、攻撃命令に従わず退却したり、降伏するような行動をとれば、これに攻撃を加えるための部隊のことだ。したがって、攻撃命令に従わず退却したりすれば必ずこの(自軍の)督戦隊によって殺されるから、まだ敵に向かって突撃した方が生き残れる可能性があるというわけだ。なるほど、なるほど。しかし、それにしても・・・。
<こんなところにまで、なぜあいつが・・・>
『太陽に灼かれて』『戦火のナージャ』そして本作は全3部作だから、ロシア革命の英雄であるコトフがなぜ政治犯の汚名を着せられ懲罰部隊の一兵卒になっているのか、は『太陽に灼かれて』に遡らなければならない。しかし、『戦火のナージャ』でも本作でも、そこらあたりはニキータ・ミハルコフ監督のフォローはしっかりしているから、『太陽に灼かれて』を観ていなくても後のストーリー展開はわかるようにつくられている。コトフを政治的に抹殺した男はドミートリ(オレグ・メンシコフ)。彼は恋人だった美しいマルーシャ(ヴィクトリア・トルストガノワ)をコトフが妻にしてしまったことを恨み、コトフを卑劣な罠にはめたわけだ。それによってコトフは祖国の裏切り者だということを「自白」させられたわけだが、「裏切り者」の撲滅に執念を燃やすスターリン(マクシム・スハノフ)はドミートリに命じて今なおコトフの行方を捜索させていたから大変。そして、間の悪いことに(?)敵の要塞への攻撃命令の約30分前になってドミートリが塹壕の中にいるコトフを発見したから、さらに大変。さあ、ドミートリの姿を目の前に見たコトフはそこでいかなる行動を?
大量の部隊を動員する総攻撃は綿密に練られた作戦の下で実行させるのが普通だが、戦争は生きものだから、時としてとんでもないハプニングが発生するものだ。日本海軍だって、1941年12月8日の真珠湾攻撃はほぼ作戦どおりの攻撃が成功したが、1942年6月5日のミッドウェー海戦は、想定外のハプニングのためとんでもない悲劇を生むことになった。スクリーン上では、ドミートリの姿を発見して塹壕内を逃げ回りながらいよいよどん詰まりとなったコトフが、我を見失ったためか突然塹壕から這い上がり、「突撃!」と大声をあげて要塞に向けて走り出す姿が登場する。これを、攻撃命令が出されたための突撃開始と受け止めた兵士たちは次々と塹壕から飛び出し、要塞目がけて駆け出し始めたから、要塞からは雨あられの砲弾と銃弾が・・・。コトフを追いかけて飛び出していったドミートリはこれを見て引き返そうとしたが、そんな姿を督戦隊に見つけられると、いくら「俺は大佐だ!」と大声で弁明しても容赦なく督戦隊から銃弾が降ってきたから、ドミートリも要塞に向かって走っていく他なかった。こんな戦闘に手馴れたコトフの指導を受けながらドミートリは伏せては走り、伏せては走りをくり返したが、さてその結末は?それにしても、なぜこんな塹壕にまでドミートリが・・・?
<男たちに囲まれた中での出産シーンにビックリ!>
前作の『戦火のナージャ』は、邦題のタイトルになっているほどだから、沈められた船から機雷にしがみついての脱出シーンや、「モスクワ攻防戦」での激しい戦闘シーン等々でナージャは大活躍していた。しかし本作でのナージャは、戦場でのあまりに過酷な体験によって口が利けなくなっているという難しい役柄に設定されている。看護兵として従軍しているナージャは今、軍の病院で負傷兵や物資を運搬する任務に従事していたが、現場では例によって(?)車は足りない、人手は足りない、のないないづくし。したがって、お腹を大きく膨らませた、今にも赤ちゃんが飛びだしそうな妊婦を乗せるトラックなどないのは、当たり前。そんな中でナージャは敢然と一人の妊婦に対してトラックに乗るよう指示。一体誰の命令でそんな勝手なことをやってるんだ、と怒る兵士の足に対してナージャがいきなり拳銃をぶっ放したから、この兵士はビックリ。さすがロシア革命の英雄コトフの娘だけのことはあると、その度胸の良さに感心。もっとも、ニキータ・ミハルコフ監督がその後に見せる、トラックの荷台上で大勢の兵士たちに見守られた中での出産シーンは、未だかつて見たことのないものだ。雨の中のたった一人での迫力ある出産シーンといえば、『ジャスミンの花開く(茉莉花開/Jasmine Women)』(04年)の第三話、1980年の花(ホア)の物語で章子怡(チャン・ツィイー)が見せた大熱演を思い出す(『シネマルーム17』192頁参照)が、本作におけるこの出産シーンの迫力も相当なものだ。
さらにビックリするのは、移動中のトラックを攻撃するべくドイツの飛行機が爆弾と機銃掃射を仕掛けてきたためトラック群は大混乱し、蜘蛛の子を散らすように、あちらに逃げ、こちらに逃げたが、何度かの飛行機の襲来が収まってみると、そこで生き残っていたのは…。この妊婦の乗ったトラックだけは動くことができず停止していたのだから、本来ならこれこそ絶好の標的になっていたはずだが、なぜドイツの飛行機からの爆弾や機銃はこのトラックを避けていくことになったの?赤ちゃんを取り上げ、そのへその緒を切った男たちは「これぞ、奇跡」と神を称え喜び合ったが、ニキータ・ミハルコフ監督は何とも粋な戦闘シーンを描き出すものだ、と感心。
<俺を一体どこへ?>
本作はいくつかのストーリーが重層的に組み合わされているが、それが必ずしも時系列のままではないので、前2作のストーリーを知らない人は少しわかりにくいかもしれない。とりわけ、わかりにくいストーリーは、ドミートリの恋人であったマルーシャをコトフが奪ったことによって発生した「三角関係」のもつれが、ドミートリの密告によってコトフの革命の英雄たる地位・名声を奪うところまで発展していったことだ。中国での薄煕来裁判は9月23日に終身刑の判決が言い渡されたことによって終結したが、被告は「この裁判は不公平だ」と叫んだそうだし、薄煕来を支持する中国人もたくさんいるから、これですんなり権力闘争が収まるとは到底考えられない。次なる権力闘争が、いつどこでどんな形で勃発するかが注目の的だ。
コトフはドミートリの密告によって全く不本意な自白を強要され、その結果以降ずっと懲罰部隊の一員に成り下がっているわけだが、それでもなお疑い深いスターリンはドミートリを使ってコトフの行方を探し求めていたから、そのドミートリにコトフが発見されたら、それにてコトフの運命は完全にアウト…。誰しもそう思うところだが、さてドミートリはコトフを一体どこへ連れて行くの?
<再会した人たちは?それぞれのその後の運命は?>
あの激しい戦闘から2人して生き延びることができたこと自体が奇跡だが、今ドミートリがコトフを連れて行ったのは、1936年にコトフ、マルーシャ、ナージャ、ドミートリの4人がひと夏を過ごしたあの避暑地の別荘だ。てっきり死んでしまったとばかり思っていた愛妻マルーシャが生きていることをドミートリから聞かされたコトフが驚いたのは当然だが、それ以上に目の前に立っているコトフを見て驚いたのは、今は村の男と結婚し、一児までもうけているマルーシャとその両親だ。このようなお互いにとって全く意外な展開をニキータ・ミハルコフ監督は実にうまく演出し、コトフとマルーシャの動揺する気持を描き出している。
ちょっと不思議なのは、この状況をあくまで冷静に観察しているドミートリの対応だが、ドミートリはこんなことをして大丈夫なの?ドミートリがスターリンから命じられた任務は地の果てまでコトフを追い詰めて探しだし、スターリンのもとへ連れてくることではなかったの?自白させるためにコトフの左手の甲を金づちで叩き割るシーンを見ていると、ドミートリが自分の取調べを受けるに際して意外にも素直に「自白するよ」と言ったのも、わかるような気がする。だって、どうせ自白に追い込まれるのなら、コトフのような痛い目に遭うだけ損というものだから・・・。しかして、全く意外なことに、かつての愛妻マルーシャと再会することができたコトフのその後の運命は?そして、マルーシャは?さらに、そんな粋な演出をしたドミートリの運命は・・・?
<スターリンがコトフに下した命令とは?>
日露戦争の初期の命運を決する戦いが「二〇三高地」の戦いだった。そこで乃木希典大将は何度も決死隊を募り、突撃命令を下したが、トーチカでガチガチに固められた要塞から雨あられと撃ち出されてくる「機関砲」なる新兵器を前に、日本兵はバタバタと撃ち倒されていった。身体を防備するものが何ひとつないまま、無謀な突撃をくり返しても機関砲の餌食になるしかないことは、誰が見てもわかるはずだ。しかして、ニキータ・ミハルコフ監督が演出する、スターリンとコトフ2人だけの会話(というより、一方的なスターリンからの指示)はさすがに迫力満点だ。中国における薄煕来と同じように政治的に完全に失脚させられていたコトフが、なぜ今すべての名誉を回復し、かつ中将という地位に復帰できたの?そういう人事異動がたった一人の権力者の意向で決まるのがいかにも共産主義国家だが、スターリンがヒトラーと同じような偏執狂的性癖を持っていたことは周知の事実。したがって、そこでスターリンがコトフに下した命令は、とにかくムチャクチャだ。
共産主義国家における懲罰部隊と督戦隊には、自由主義国家におけるそれと大きく違う特徴があることが、本作を観ているとよくわかる。ここでスターリンがコトフに下した命令は、従軍経験のない1万5000人の市民兵を含む懲罰部隊を指揮して「ドイツ軍要塞への突撃を敢行せよ」というもの。もちろん、その命令を拒否する自由などあるはずがないし、もしドイツ軍の銃弾を怖がって退却でもしようものなら、自軍の督戦隊の銃弾でお陀仏だ。中将としての威厳ある軍服に身を包み、1万5000人の兵たちの前に立ったコトフだが、さて彼は乃木希典大将と同じように、突撃命令を下すだけのバカな指揮官?それとも…?二〇三高地における日本(陸軍)は曲がりなりにも標準軍装を装備していたが、スクリーン上を見る限り、ロシア軍の武器は1本の棒切れのみ。さあ、こんな状況下でコトフ中将はいかなる決断を?
<この兵士たちの「総攻撃」をどう見る?>
大量のエキストラを動員したこの戦闘シーン(?)は、あなた自身の目でしっかりと確認してもらいたいが、そこには「ロシア版プライベート・ライアン」と称された『戦火のナージャ』ほどの迫力と興奮度はない。しかし、ニキータ・ミハルコフ監督が演出する全3部作のラストにふさわしいその意外性にビックリ。ちなみに、『スタリーングラード』(01年)(『シネマルーム1』8頁参照)で観たような狙撃兵が樹木の中に潜み、じっとドイツ軍要塞を狙っているシーンが印象的だったが、さてそこから生まれてくる、その後のあっと驚く大爆発とは・・・?
1942年6月5日のミッドウェー海戦では日本の虎の子の空母、赤城・加賀・ 飛龍・蒼龍の4隻が沈められてしまったが、それは空母の甲板上で爆弾から魚雷への切り替え作業をしていたところにアメリカ空母の艦載機が突如襲来してきたためだ。つまり、爆弾を山ほど抱えた状態では、いかに小さな火であってもいったん引火すれば大変。つまり、いかに堅固な要塞でも、内部で爆発を起こせばイチコロということだ。「ある偶然」から起きた、そんな要塞の大爆発を見た、棒切れ1本だけの武器を肩に掲げたロシア軍兵士たちは大喜び。まさに、彼らにとっては、地獄から天国への急転換だ。
<父娘の再会は号泣モノだが、その後は一転・・・>
そんな軍団(?)の先頭に立って行進中のコトフを発見し、利けない口で必死に「パパ!パパ!」と叫びながら駆け寄ってきたのが、すぐ近くの戦場にいたナージャだ。ここで全く偶然に生まれた父娘の再会は感動モノで号泣モノだが、間が悪かったのはナージャが走ってきたのが地雷原の中だったということ。それを知っているナージャの仲間たちは必死で止めようとしたが、父親の姿を見て興奮し切っているナージャには、そんな声が耳に入るはずはない。お互いに駆け寄る中で2人はピッタリ抱き合おうとしたが、その前にナージャの右足が地雷を踏んでしまったから、さあ大変だ。
地雷は一度踏んづけてしまった以上、ニッチもサッチもいかないはずだが、コトフは一方では百戦錬磨の闘士として、他方では愛しい一人娘とやっと再会することができた父親として、ここでいかなる行動を・・・?スクリーン上に見るコトフの表情やナージャにかける言葉からは、あくまでコトフは冷静そのもの。危機的状況にあって男はかくあるべし、という見本のような姿だが、そこから先に描かれる世界は本当に手に汗握るものになってくる。まず、コトフがナージャに出した指示は、とにかく落ち着け!落ち着け!ということ。その上で、次々とコトフが出していく指示にナージャが従っていくと、いつの間にか、地雷を踏みつけている足はナージャの右足からコトフの左足に変わっていた。そして、両足が自由になったナージャはコトフが命じたまま一歩また一歩と地雷からバックし始め、その距離はコトフが「命令」したように次第に20歩に近づいていったが、さてそれから先は・・・?
「あの時」以来別れ別れになり、互いにその生死すらわからなかった父娘のこんな形での再会はまさに感動モノだから、その喜びはあなた自身で味わってもらいたいが、その後は一転・・・。ニキータ・ミハルコフ監督が描く全3部作の、こんなあっと驚くラストシーンをじっくりと味わいたい。
2013(平成25)年9月27日記