そこのみにて光輝く(日本映画・2014年) |
<テアトル梅田>
2014年4月26日鑑賞
2014年4月30日記
格差社会、閉塞社会の中、若者はどう生きていけばいいの?私と同年生まれの函館の作家、佐藤泰志は悶々とした思いの中で原作を書いたはずだ。
それを、今や旬の綾野剛と、ちょっとトウの立った(?)池脇千鶴が熱演!全編を通じて喋りまくる菅田将暉もいい味を出している。こんな若者に未来や希望はあるの?ないの?
それはあなたの解釈次第だが、タイトルそのものを見事に表現した、長く語り継がれるであろうラストシーンは実にお見事!
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監督:呉美保
原作:佐藤泰志
脚本:高田亮
佐藤達夫(採石場で働いていた若者)/綾野剛
大城千夏(拓児の姉)/池脇千鶴
大城拓児(達夫の友人)/菅田将暉
中島(千夏の不倫相手)/高橋和也
松本(採石場の達夫の上司)/火野正平
大城かずこ(千夏と拓児の母)/伊佐山ひろ子
大城泰治(千夏と拓児の寝たきりの父)/田村泰二郎
東京テアトル+函館シネマアイリス(北海道地区)・2014年・日本映画・120分
<私と同年生まれの、この作家に注目!>
私と同じ1949年に函館で生まれた作家・佐藤泰志という名前を私は全く知らなかった。私は2013年9月にはじめて函館を観光したが、①函館山からの夜景、②函館の朝市、③元町ベイエリアの観光と並んで興味深かったのが、函館文学館の見学だ。そこには、石川啄木、亀井勝一郎、辻仁成など函館ゆかりの作家の直筆原稿などがたくさん展示されていた。これほど地元にゆかりの作家が多いのは、金沢の文学館といい勝負・・・。
佐藤泰志の小説が近時相次いで「復刊」されているのは、2010年に『海炭市叙景』が映画化されたためだが、私はそれを観ていない。しかし、佐藤泰志の原作『そこのみにて光輝く』を呉美保監督が映画化した本作は、今年3月に開催された、第9回大阪シネマフェスティバルでオープニング上映された話題作。その主演は、今や飛ぶ鳥を落とす勢いの若手イケメン俳優・綾野剛と、大阪出身の演技派女優・池脇千鶴だから、こりゃ見逃せない。パンフレットにある中澤雄大氏(「佐藤泰志」評伝執筆者)の『「無垢な光芒」―かけがえのない作家』によれば、「石川啄木も不遇の中、貧困の中で若くして死亡した」が、後に『バブル』と呼ばれる時期の真っただなかに発表された『海炭市叙景』は、「喧噪とは無縁の人々の物語であった」らしい。また、「新境地を切り開き、次作を期待されたさなかの1990年10月、泰志は発作的に死を選んでしまった」らしい。
本作のストーリー終了後、「一度見たら忘れられない独特な金釘流」で「そこのみにて光輝く」という文字がスクリーン上に登場するが、その文字は佐藤泰志自身が書いたものだそうだ。本作では、綾野剛扮する佐藤達夫の妹・佳代が一度も姿を見せず、ナレーションで流される声だけでストーリーの枠組みを形作っている。これは、兄の良き理解者だった佐藤泰志の妹が、『そこのみにて光輝く』の単行本が刊行される2ヶ月前の1989年1月に急逝してしまったことと関係があるらしい。佐藤泰志自身もその1年半後に自殺してしまったそうだから、妹の死亡は佐藤泰志にとってよほどショックだったのだろう。
私が本作を観た4月26日付日経新聞朝刊は、『文学周遊(409)』で佐藤泰志を取り上げていたが、それは4月26日が彼の誕生日だから、生きていればちょうど65歳になることを記念してのことだ。『海炭市』は架空の都市だが、そこに描かれている①夜景を望むロープウェイや、②造船所、③路面電車等を見れば、それが80年代後半の函館であることがわかる。今まで全く知らなかった、そんな私と同年代の函館生まれの作家・佐藤泰志に、本作を契機として注目したい。
<スサンネ・ビア監督ばりのクローズアップ映像に注目!>
TVドラマの延長で、誰にでもわかりやすいように作られている制作委員会方式による近時の邦画は、映像は美しいものの、カメラの位置はあまり動かさず、あたかも集合写真のようなものが多い。そんな状況下だからこそ、私にはデンマークの女性監督、スサンネ・ビア監督の『ある愛の風景』(04年)(『シネマルーム16』70頁参照)、『アフター・ウェディング』(06年)(『シネマルーム16』63頁参照)、『悲しみが乾くまで』(08年)(『シネマルーム19』245頁参照)、『未来を生きる君たちへ』(10年)(『シネマルーム27』177頁)、『愛さえあれば』(12年)(『シネマルーム31』62頁参照)にみる、極端なクローズアップの多用さに注目していた。しかして、呉美保監督による本作でも、冒頭から目立つのが、それと同じ極端なクローズアップだ。
まずは冒頭、上半身裸で寝ている綾野剛扮する佐藤達夫をカメラが舐めるように映していく。綾野ファンの女性なら、その裸を見ただけで思わずゾクゾク・・・。さらに、それに続くパチンコ屋のシーンでは、綾野の目だけをスクリーンいっぱいにクローズアップ。これを見れば、それが生きている目かそれとも死んでいる目かがすぐにわかるが、目だけで演技しなければならない俳優は大変だ。
カメラ使いの面ではさらに、『ジョゼと虎と魚たち』(03年)(『シネマルーム7』185頁参照)の時に比べると、一見して「太め」になったとわかる池脇千鶴扮する大城千夏が、大城拓児(菅田将暉)からの「姉ちゃんなんか食うもんある?」のリクエストに応えてチャーハンを作る時の後ろ姿に注目!急に家にやってきた達夫をみて、起きたばかりの千夏が黒いスリップの胸元のボタンを留めたのは「女のたしなみ」として当然だろうが、後ろから見られているはずの分厚い腰つきとむき出しの太ももが、達夫の目にどのように映っているかについては、全く無防備のようだ。まさか、その後ろ姿を見ただけで達夫がムラムラときたり、恋に落ちるわけではないだろうが、こんな導入部のシーンだけで、ホンモノの映画を観たいと思っている多くの映画ファンは、本作にぐいぐい引きつけられていくはずだ。
<3人の熱演に注目!こりゃきっと賞取りレースに!>
綾野剛は『白ゆき姫殺人事件』(14年)では何ともいい加減なテレビ局のディレクター役を「快演」していたが、本作ではそれとは正反対の何とも深刻な人物像を熱演している。NHK大河ドラマ『八重の桜』での、徳川将軍家に忠誠を尽くす若き会津藩主・松平容保役は実に端正だったが、本作ではアル中気味で、いつもタバコばかり吸っている悩み多き青年・佐藤達夫役に挑戦!前述の極端にクローズアップされた目だけの演技も大変だろうが、プロデューサーと監督に許可を貰ったとはいえ、毎日酒を飲んで演じるのも大変だろう。パンフレットでのインタビューで綾野は①「酔っぱらうためではなく、体感をあげるため、身体を熱くするために。北海道のウイスキーを飲んでは、重力をつけていました」、②「ぐわっと身体が重たくなる感じが、ある種の精神安定剤のようになっていました。撮影が終わると飲みに行って、そのまま明け方まで」、③「目を真っ赤にしたまま、メイクもせずに、演じていました。佐藤達夫を演じる上で、それが必要だったんです」、と述べているが、本作の達夫を見ていると、その取り組み方の工夫がよくわかる。それはつまり、「自分はどれだけ『生(ナマ)』で勝負できるか。つまり、そう思える作品に出逢えたと言うことです。僕が、というよりも、僕の部位がどれだけ『生』でやれるか。それが重要でした」ということだ。ちなみに、それと同じことを、パンフレットのインタビューで呉監督は「どうしようもなさ、面倒くささも含めての人間を、強く表現してみました」と述べている。
他方、池脇千鶴については先ほどその体型だけに触れたが、もともと演技力には定評があるうえ、ヌードシーンも含めて相当な覚悟で撮影に臨んだだけに、その迫力はすごい。呉監督は、①「不安が拭えたのは、千夏役を池脇(千鶴)さんがやってくださるということになってから。今回の役について彼女とふたりきりで話させていただいたときに、このひとなら千夏になってくれる、と確信できたのです」、②「池脇さんにとって千夏は、身体も心も消耗させるハードな役だったと思います。がゆえに、ぬるい作品にはしたくありませんでした。真正面からぶつかり、目をそむけられないような物語にしたかった」、③「その思いをお伝えすると、池脇さんは『私も中途半端にはしたくありません』と、返してくださったのです。衣装合わせの段階で、彼女は既に髪の色を変えてきてくれました。千夏がそこにいました。泣きそうになりました」、と述べていることをみれば、その信頼ぶりがよくわかる。
さらに、管田将暉は私が『共喰い』(13年)で注目した若手俳優(『シネマルーム31』30頁参照)だが、本作では主役の綾野剛と池脇千鶴に負けない存在感を発揮している。導入部に登場する、パチンコ店の中でライターを借りただけですぐに達夫の友達になった(?)拓児が、「メシ食わしてやっから」と言って達夫を海辺の自分の家に連れて行くシーンでは、たちまち菅田将暉の芸達者ぶりが目につく。ケッタイな髪型をして、笑うときには汚い歯が目につくチンピラだが、とにかくこの若者はよく喋る。その饒舌ぶりがどこからきているのかの分析が不可欠だが、本作全編を通じて、この拓児の喋りと行動が本作のストーリーを牽引していくから、それに注目!
<閉塞感いっぱいの中、2人の若者は今前向きに!>
やれ、「格差社会」だ、やれ「ブラック企業」だとマスコミはさかんに日本の現状をたたいているが、閉塞感いっぱいの中、若者だって何らかの将来への希望を見いだし、前向きに歩き出したいのはやまやまのはずだ。しかるに、達夫が何の仕事もせず、アパートの部屋で毎日ゴロゴロしているのはなぜ?それは、車で達夫の様子を見に来た採石場の上司・松本(火野正平)との会話や、達夫の回想シーンを見ればすぐにわかる。
パチンコ店通いと散歩の日々のくり返しで一生送れたらいいが、そうはいかないのが現実。達夫が採石場で再度働こうという気になったのは、拓児が採石場での仕事を強く望んだためだ。採石場で起きた事故は松本が言うように決して達夫の過失によるものではないが、達夫が「急げよ」と言ったことが一因となったことはまちがいない。その結果、石の下敷きになって死んでしまった同僚の姿を見て、達夫がすべての生き甲斐を失くしてしまったのは理解できるが、そうかといって本作前半で描かれるような自堕落な生活のくり返しでは駄目なことは明らかだ。しかして、達夫の場合は拓児との出会いと千夏との出会い(恋?)によって新たな人生の転機が訪れることになるから、本作ではその点をじっくりと探求してみたい。
酔っぱらった挙げ句に立ち寄った安もののスナックで偶然出会ったのが、そこで売春婦をしている千夏だった。そんな設定はいささか「出来すぎ」だが、その「料金」が8000円だと聞いて思わず笑ってしまった達夫を、千夏はどう受け止めたの?そんな2人が海の中で抱き合いキスを交わすシーンがそのすぐ後に登場するから、男女の恋心というのは面白いものだ。
達夫が採石場での仕事に復帰する理由として、松本に伝えた「家族をもちたくなったんだ」との言葉には私ですら驚いたくらいだから、松本がビックリしたのは当然。本作では拓児や千夏と交流を深める中で生じた達夫のそこまでの心境の変化をしっかり読みとりたい。
<この不倫関係をどう読み解く?―その1>
本作の見どころの1つは、ちょっと太めになった(?)池脇千鶴のヌードシーン、ベッドシーン。そのお相手として最もふさわしいのは当然綾野剛だが、本作ではまず、植木農場の社長として成功し、家族も大切にしている中島(高橋和也)とのベッドシーンが登場する。男にとっては、千夏がいくらいい女であってもセックスの最中は「うわの空」、そしてコトが終わったらすぐに「もういいっしょ!」と帰り支度をされたのではたまらない。普通なら、そこで(痴話)ゲンカになるところだが、逆に「男いてもいいから」と千夏にしがみつくところをみると、中島の千夏への執着は相当なものらしい。
パンフレットの中のインタビューで、呉監督は、「男のひとってロマンチストですよね。女にはよくわからないような夢を抱いていたり、それを語ったりもする。そのあたりの心理を客観的に語りあえるひとが今回の脚本作りには必要でした」と述べている。また、脚本:高田亮×プロデューサー:星野秀樹の対談でも、『女性監督+男性脚本家=化学反応』という見出しを掲げているから、女性である呉監督がこの中島の男性心理を読み解くため、脚本の高田亮氏やプロデューサーの星野秀樹氏たちの力を借りたことはまちがいなさそうだ。しかし、それにもかかわらず、本作で描かれる千夏と中島とのくされ縁のような「不倫関係」のあり方に、私は少し違和感がある。
<この不倫関係をどう読み解く?―その2>
中島が自分の植木農場で、仮釈放中の男・拓児を働かせているのは、拓児の能力を評価したためではなく、専ら姉・千夏との不倫関係を続けるための道具としてだ。中島がそういう手段を使ってまで千夏を便利な不倫相手として側に置いておきたいという欲求はよくわかるが、そうかといって、あそこまで千夏に固執するのは男性心理としてホントにあるの?逆に、千夏に達夫という彼氏ができたこともあって、自分の手から離れようとしている時、「拓児の仮釈取り消しになっていいのか」と脅してまで、ヨリをもどそうとするのも、ホントにそこまでやる?なぜなら、そんなことを言えば、千夏から「腐ってんね、あんた」と言われることはまちがいないから、そのような脅し方は、自分で自分の価値を下げるだけだからだ。さらに、「早く済ましてや」と、車の中で自ら下着を脱ぐ千夏に対して、コトに及んだうえ、悲鳴をあげる千夏の口に一万円札を押し込み、殴りつける行為もいかがなもの。ここまでやれば、立派な犯罪だ。
本作のクライマックスは、函館の夏祭り。延べ300人以上の市民エキストラを集めて函館山の麓にある山上大神宮で行われた撮影は大変だったようだが、そのクライマックスで中島の前に登場した拓児の表情は、それまでとは一転してひきつっていた。そりゃ、そうだろう。せっかく、これから達夫や千夏と共に採石場に入り、新しい「家族」と共に過ごす生活が待っているというのに、中島は俺の姉ちゃんに何ということをしてくれたんだ!しかも、「姉ちゃんに会いましたか」と質問する拓児に対して、謝ろうという姿勢を全く見せず、「会ったよ。嗅ぐか?姉ちゃんのにおいするど。金払ったんだから、文句ねえと思うけどな」とふざけて指を差し出す中島の行動は、あまりに理不尽だ。
男女関係はこじれればいくらでもこじれていくもの。その挙げ句、傷害事件や殺人事件に発展することもよくあるが、さて本作にみる、中島と千夏の不倫関係をあなたはどう読み解く?
<長く語り継がれるであろう、このラストシーンに注目!>
私は、季刊『上方芸能』189号(2013年9月号)の『美学な幕切れ㊿』に、『あの名作の、あのラストシーンよ、永遠なれ!』というタイトルで、『誰が為に鐘は鳴る』(43年)や、『街の灯』(31年)などのラストシーンの見事さを書いた。しかして、『そこのみにて光輝く』というタイトルがいかにもピッタリと誰もが納得する本作のラストシーンは、絶望のどん底の中にあってなお将来への希望を示すストーリー構成の説得力の面からも、その映像の美しさの面からも、それらに匹敵するもので、長く語り継がれるラストシーンになるはずだ。
千夏と拓児の父親・泰治(田村泰二郎)は脳梗塞で寝たきりながら、何と性欲だけは人一倍あるらしい。そんな泰治から「かずこ・・・かずこ・・・」と性的サービスをしつこく要求される千夏と拓児の母親かずこ役を、かつて日活ロマンポルノで鳴らした伊佐山ひろ子が演じているというのは本作のキャスティングの妙だが、スクリーン上ではそんなことを懐かしむ余裕は全くなく、とにかく悲惨そのもの。かずこはいい加減うんざりしているし、家族の間では「早く殺してしまおう」という相談さえされたはずだが、なかなかそうはできないのが現実。そこで心優しい娘・千夏は母親の代わりにその処理を手伝ってやったりしていたが、本作のラスト直前にはその千夏が泰治の身体の上に馬乗りになって、クビを絞めようとするシーンが登場する。途中でその異変に気づいた達夫が、千夏の身体を引き離したから大事には至らなかったが、ここまで絶望的な家族の姿は、いかに格差社会の広がりが強まったとはいえ、まだまだ少ないはずだ。
池脇千鶴はそのシーンについて、「謝りながら首を絞めていました。あれは自分を締めているようなこと。いっぱい考えた。もう答えは出ない。そこで達夫が来なかったら、命はなかったでしょうね。助けられて、私って馬鹿だなあって、最後にあらためて思う。海辺のシーン。死にに行くわけではなく、ただただ悲しいわけじゃなく、なんでこんなに笑っちゃうんだろう、馬鹿だなあって。馬鹿でしょ、私。こんなだよ。あなたが愛してくれた私って、親も殺してしまうような、でも殺せないような、どっちつかずのほんと馬鹿なんだよって見せてる顔だった」と述べている。そんなシーンをあなたはどう解釈?
そんな悲惨な展開の直後に、達夫と千夏の二人が海辺を歩き、立ち止まったところで、函館の朝日によって「そこのみにて光輝く」状態が生み出されるわけだ。本作は夏の函館が舞台だが、プロダクション・ノートによると、「悪天候のため前半は思ったような『夏の光』を撮ることができず苦労した」らしい。しかし、「タイトルにもなっているラストの『光と輝き』は奇跡的な好天に恵まれ、『海炭市叙景』のフェリーの場面を思わせる会心のショットとなった」そうだ。本作については、長く語り継がれるであろう、そんなラストシーンに注目!
2014(平成26)年4月30日記