禁忌(sala)(日本・2013年) |
<シネ・ヌーヴォ>
2014年11月6日鑑賞
2014年11月13日記
宮沢洋一経済産業相のSMバーへの支出をめぐって一躍サド・マゾの世界が有名になった(?)が、ペドフィリア(少年愛)ってどんな世界?それにハマる男とは・・・?『禁忌』はそんな世界にピッタリのタイトルだが、女生徒も好き、男も好きな女子高の教師には、何とペドフィリアの性癖も・・・。
アジア映画のミューズ・杉野希妃がそんな役を小気味よく演じ、大胆な濡れ場にも挑戦(?)しているが、ペドフィリアの対象となる少年の旬が期限切れになってくると・・・?
キム・ギドク監督の『メビウス』(13年)はセリフなしで男性器切断の物語が語られたが、それほど過激でなくとも、似たように過激な本作の結末は・・・?
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監督・脚本:和島香太郎
浅井咲良(女子高の数学の教師)/杉野希妃
望人(充と性的な関係を持つ少年)/太賀
小波充(幼いころに離別した咲良の父、大学教授)/佐野史郎
菊田泰史(咲良の元恋人)/山本剛史
清宮苗(女生徒)/藤村聖子
二瓶一(咲良の同僚教師)/森岡龍
薩川詩穂(保健教師)/月船さらら
2014年・日本映画・73分
配給/太秦
<2日連続で杉野希妃関連作品を!>
11月5日、6日は2日続けて杉野希妃デイとなった。すなわち、杉野の監督2作目で杉野自身も出演した『欲動(TAKSU)』(14年)に続いて、11月6日には和島香太郎監督の長編初監督作品、杉野希妃プロデュース兼主役の『禁忌(sala)』を鑑賞。
「欲動(よくどう)」も難しい日本語だが、「禁忌(きんき)」も難しい。しかし、両者ともその漢字から何となく意味はわかる。「禁忌」とは何となくイヤらしいイメージだが、和島監督は本作になぜそんなタイトルを?また、『欲動』につけたインターナショナルタイトル『TAKSU』は余計ワケがわからなかったが、『禁忌』につけた『sala』というインターナショナルタイトルは、本作の主人公である女子高の数学の教師・浅井咲良(杉野希妃)の英語表記だからわかりやすい。
普通、男は女と肉体関係を持ち恋人関係になれば、〇〇さんと名字で呼ぶのをやめ、名前を呼び捨てにするものだが、その男性心理とは?また、女性もそう呼ばれることに満足感を覚えることが多いようだが、さてSALAの場合は?
<SALAのピシャリとしたセリフ回しに注目!>
弁護士が言葉に厳格なのは当然だが、SALAは自分の誕生日を祝ってくれる恋人・菊田泰史(山本剛史)が出してくれたケーキに記入された名前が「SALA」ではなく「SARA」だったため、「RではなくL」と抗議したが、なぜそんなに名前にこだわるの?また、ある日菊田から「サラ」と呼び止められると「距離が近すぎません」と抗議したうえ、「下の名前で呼ばないで下さい」と言い放ったが、それもなぜ?
女子高の教師役に杉野希妃はピッタリだが、数学の教師はちょっと無理筋?しかし、本作ではあえて数学の教師と設定することによって、物事をハッキリ論理的に割り切る性格を強調。そんな風に思えるほど、本作における杉野扮するSALAのセリフは短く、かつ断定的なものが多い。それは恋人であった菊田に対してだけではなく、SALAの父親・小波充(佐野史郎)の児童買春、児童ポルノ法違反の容疑で、SALAの家宅捜索にやってきた生活安全課少年係の男女2人の刑事に対しても同じだ。SALAは自分の家の押入れの中からSMプレイまがいの縄紐が発見され、それについて「使った形跡があるじゃないか!」と指摘されると、「個人の志向(趣味)の範囲内です」とピシャリ!なるほど。ちなみに昨今、宮沢洋一経済産業相のSMバーへの支払いがマスコミを賑わしているが、宮沢経済産業相もハッキリそう答えれば、それでOKだったのでは・・・?
<ペドフィリアとは?>
あなたはペドフィリアという言葉を知ってる?マゾやサド、さらにゲイやレズ等、近時はややこしい言葉が氾濫しているが、ペドフィリアもその1つ。これは「少年愛」と訳されており、13歳以下を対象とした性愛だ。大体この手の趣味を持っている人の職業は、政治家、大学教授、弁護士等々が多い・・・?
幼い頃に父親と離別し、20年近くも連絡がなかったにもかかわらず、SALAは脳震盪を起こして入院している充の唯一の身寄りであったため、刑事から連絡を受け、やむなく父親の病院に向かったが、一体充は何の事件を?脳震盪というのは都合のいい病気で、充はSALAのことは思い出せても事件のことは思い出せないらしいから、警察は大変。充は暴行事件の被害者だったが、加害者の少年の証言によって充には買春の容疑がかかっているらしい。そこで警察はSALAに充の世話を頼むとともに、事件のことを聞き出すよう頼んだが、さてSALAは?
本作のテーマはペドフィリアだが、導入部における女子高の様子を見ていると、モーツァルトのピアノソナタを弾く女生徒・清宮苗(藤村聖子)とSALAがキスを交わすシーンにビックリ。女子高における性の乱れは昔から指摘されているが、今ドキはここまで・・・?さらに、保健科の女先生・薩川詩穂(月船さらら)とSALAとの「絡み」を見ていると、薩川先生にもその傾向があることをSALAはお見通し・・・?それはともかく、SALAにはれっきとした(男の)恋人・菊田がいながら、他方で女生徒ともレズの関係に?すると、SALAはいわゆる両刀使い?さらに本作の展開をみていると、SALAはそのうえペドフィリア。
<少年を匿うという設定の本作の舞台は?>
充から家のカギを預かったSALAが地下室で発見したのが、充のペドフィリアのお相手として監禁されていた望人(太賀)だ。第8作まで続いた『監禁』シリーズの第1作『完全なる飼育』(99年)は、1965年に起きた実在の誘拐事件・女子高生龍の鳥事件を基に書かれた松田美智子の小説『女子高校生誘拐飼育事件』(幻冬舎刊)を元にした映画だ(第4作『完全なる飼育 秘密の地下室』(03年)(『シネマルーム3』362頁参照)、第5作『完全なる飼育 女理髪師の恋』(03年)(『シネマルーム9』348頁参照))。そんな『監禁』シリーズを観てもわかるとおり、監禁行為が逮捕・監禁罪に該当するのか、それとも自発的な意思なのかは微妙なケースが多い。それはともかく、家宅捜索の手が入り物証が発見されれば、大学教授の充が買春容疑で逮捕されることはまちがいないから、充から望人を匿ってくれと頼まれると、SALAは仕方なく望人を受け入れることに。
本作の舞台がどこかは明確ではないが、SALAが望人を自分の家に匿うというストーリーを成立させるには、東京都心部では到底ムリ。多分、東京周辺の都市だろうが、そうだとしても近所の手前があるだろうから、今ドキ1人の少年を世間の目にさらさないまま匿うことは到底ムリ。しかし、そんなことを言っていたら映画は成立しないので、大きなボーイソプラノでモーツァルトのアリアを歌っているのが近所のおばちゃんに聞かれても、海岸に出かけて海に向かって歌わせればOK。和島監督の長編初監督作品となる本作はそんな設定だから、脚本に多少甘いところが・・・。
<配役に少しムリが!少年愛における少年とは?>
それはともかく、本作の「配役に少しムリが!」と思うのは、望人役を1993年生まれの太賀が演じていることだ。2007年の『バッテリー』出演時の太賀はまだ中・高校生(=少年)で通用したが、20歳を超えた太賀が少年愛の対象とするのはかなりムリがあるのでは?他方、少年愛というテーマにはモーツァルトの楽曲がピッタリ!なぜそうなのかと聞かれると説明は難しいし、モーツァルトも困惑するかもしれないが、全編を通じて流れるアリアを中心とするモーツァルトの楽曲はどこか怪しげで悩ましげだから監禁、レイプ、同性愛、少年愛、セクシャルマイノリティという禁断の世界のバック音楽にピッタリだ。
私も小学4年生から6年生の時代は少年・少女合唱団に所属して美しいボーイソプラノを披露していたが、女が初潮を迎えるのと同じように、男は変声期を迎えるから、望人もいつまでも美しいボーイソプラノはムリ。望人を自宅に引き取った(監禁した?)SALAが、ポルノ小説風に表現すると、ある日少年・望人に欲情し、激しく望人を犯してしまったことによって自分にも父親と同じペドフィリアの血が流れていることを自覚するわけだが、さてストーリーはその後いかなる展開を?
<少年から男に!そこでのSALAの選択は?>
杉野希妃は『欲動』では監督の立場で、主演女優・三津谷葉子のヌードシーンやセックスシーンをきっちり撮影していたが、自ら主演した本作では、堂々と自分のヌード姿を見せてくれる。もっとも、女生徒に対するレズの関係や望人に対するペドフィリアの関係ではSALAが優位だったが、ヨリを取り戻すべく家に押しかけてきた元の恋人・菊田を家の中に入れてしまったことによって生まれた性行為は、圧倒的に男優位でレイプそのもの。別室で縛られ、猿ぐつわをはめられた望人は、その声を聞き、外からその様子を眺めながらどうすることもできなかったのは仕方ないが、それによってSALAの男を見る目はどのように変化していくの?
そんな「事件」と並行して、望人の身体に体毛が目立ったり、変声期が訪れたり、さらには男としてSALAに対して性的欲望を示したりすると、SALAの望人に対するペドフィリアの欲望が急速に萎えていったのは仕方ない。その結果、SALAが下した結論は、望人を充にお返しするという何とも安易なものだ。これまでのSALAの行動をみれば、SALAに児童買春や児童ポルノ法違反の証拠隠滅罪が成立するのは当然だが、望人が少年から大人の男になったからといって、それを「ポイ捨て」するのは人間としていかがなもの・・・。さらに、充にとってはSALAの申し出は嬉しいもの(?)だろうが、さて、当の本人・望人の気持は?
<望人の究極の選択とは?『メビウス』とは違う展開に注目!>
キム・ギドク監督の最新作『メビウス』(13年)はセリフなしで語られる男性器切断をテーマとした映画で、何とも怖い映画だった。そこでは、自分の浮気のために息子が母親から男性器を切断されてしまったことに責任を痛感した父親は、自らの意思で病院に赴き、自らの男性器切断の手術を受けたから、それはすごい決断だった。そしてこの父親の決断は、それを後に息子に移植することになったから切断した男性器が大きな意味を持ったが、思ったとおりにはうまく進まず、「エディプスコンプレックス」という、もっとややこしい泥沼に入り込むことになった。女は初潮を迎えてはじめて妊娠、出産が可能となるが、男は性への好奇心が生まれればいつでもその行為は可能。それは、神様が授けてくれた男性ホルモンのおかげだ。すると逆に、今ドキは性転換手術によって男から女に変わることも可能なのだから、体毛が増えるのを防ぎ、少年らしさを保とうとすれば、男性器を機能させないようにすれば十分可能なのでは・・・?男なら誰でも、おっさんの充に引き渡されるよりキレイなお姉さんのSALAの方がいいと思うのは当然だが、それまでペドフィリアの対象としてのみ生きてきた望人の場合は?そして、そんな望人の究極の選択とは?
本作は73分と近時の邦画の中では短尺だが、問題提起性は十分で過不足なく収まっている。まさに『禁忌』という邦題がピッタリの本作から、さまざまな問題提起を受け止め、人間の営みの多様性を考えたい。もっとも、あなたに同性愛や少年愛の傾向も、サドやマゾの傾向も全くないのなら、「対岸の火事」として考えれば十分だが・・・。
2014(平成26)年11月13日記