追憶(日本映画・2015年) |
<ビジュアルアーツ大阪試写室>
2016年10月20日鑑賞
2016年10月25日記
玉砕を否定し、徹底持久戦を目指す栗林中将の戦略・戦術は、クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作である『父親たちの星条旗』(06年)と『硫黄島からの手紙』(06年)で存分に描かれたが、そのモデルはペリリュー島での中川大佐の戦いにあったらしい。
2015年4月9日天皇・皇后両陛下が慰霊に訪れたことによってペリリュー島での死闘は俄然有名になったが、そこでの70日間の壮絶な死闘と人間模様を本作でじっくり鑑賞したい。
『プライベート・ライアン』(98年)の戦闘シーンの迫力もすごかったが、こちらはホンモノだけに意味合いが違う。こんな空爆、こんな艦砲射撃の後、洞窟の中にこもって70日間も戦った日本人がいたことを、今の若者たちはどう考える?
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製作:奥山和由
監督:小栗謙一
原案:升本喜年『「愛の手紙」~ペリリュー島玉砕~中川州男の生涯』(熊本日日新聞社刊)
語り:美輪明宏
ピアノ:小林研一郎
ローズ・テロイ・シレス(ペリリュー島の島民、パラオ名:テロイ、日本名:テルコ、アメリカ名:ローズ)
土田喜代一(元日本軍海軍上等水兵)
ブラズウェル・ディーン(元米国第一海兵隊一等兵)
ビル・カンバ(元米国第一海兵師団第二大隊少尉)
加藤木正二(元歩兵隊第二連隊軍曹)
坂梨實(ペリリュー島攻防戦に施設技師として参加)
大谷龍蔵(日本軍海軍部隊大佐)
2015年・日本映画・76分
配給/太秦
<70日間にわたるペリリュー島での死闘とは?>
硫黄島における栗林忠道中将指揮下の日本軍の死闘は、クリント・イーストウッド監督の硫黄島2部作の第1作『父親たちの星条旗』(06年)(『シネマルーム12』14頁参照)と第2作『硫黄島からの手紙』(06年)(『シネマルーム12』21頁参照)でよく知られている。また、ノンフィクションライターの梯久美子氏の『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』が第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したことでも有名になった。さらに、人肉まで食らったというフィリピンでの死闘は、大岡昇平の原作『野火』を映画化した塚本晋也監督の『野火』(14年)で有名になった(『シネマルーム36』22頁参照)。それに対して、ペリリュー島における中川州男大佐指揮下の日本軍の死闘とは?
2015年4月9日ペリリュー島に慰霊に訪れた天皇・皇后両陛下の姿が大きく報道されたことによって、70年前のペリリュー島での壮絶な戦いが有名になったが、今般それが映画に!
<原作は?資料は?映像の迫力は?>
本作の原作は、升本喜年氏の『「愛の手紙」~ペリリュー島玉砕~中川州男の生涯』。また、映像の元になった資料は日本の自衛隊からだけではなく、アメリカ側からも大量に提供されているそうだ。そのため、日本側の資料に基づいては、中川大佐率いる歩兵第2聯隊(3,588名)等を含む、井上師団長指揮下の日本軍が、満州から船に乗ってペリリュー島に移動し(転進し)、鍾乳洞を利用して全島をトーチカ要塞とし、堅牢な洞窟陣地を築いていく姿が細かく示される。そして、アメリカ側の資料に基づいては、1944(昭和19)年9月15日の「D-Day」(上陸開始日)を前提とした空爆、艦砲射撃そして上陸作戦の映像が大量に示される。
硫黄島2部作の戦闘シーンも、スティーヴン・スピルバーグ監督の『プライベート・ライアン』(98年)(『シネマルーム1』117頁参照)の戦闘シーンもすごかったが、あくまでそれはつくりもの。しかし、本作はつくりものではなく現実の映像だけに、その姿(圧倒的破壊力)には驚かされる。こんなものすごい空爆と艦砲射撃にもかかわらず、堅牢な洞窟陣地はほとんど無傷で、日本兵の損耗もほとんどなかったというから驚きだ。その結果、空爆と艦砲射撃でもう日本兵はいないと思って上陸してきた第1陣のアメリカ兵たちは、大損害を受けることに・・・。
<いさぎよく玉砕?いやいや徹底した持久戦を!>
中川大佐率いる聯隊がペリリュー島に転進したのは、1942年6月のミッドウェー海戦で敗北した後のアメリカ海軍の進攻が予想以上に早く、今や満州の守備どころではなくなったため。1944年7月9日にはサイパン島で玉砕、8月3日にはテニアン島守備隊が玉砕、8月11日にはグァム島守備隊が玉砕していた。ちなみに、硫黄島への米軍の上陸が始まったのは、ペリリュー島玉砕後の1945年2月19日だ。栗林中将が硫黄島に指揮官として降り立ったのは、サイパン陥落に先立つ1944年6月8日だから、彼は約8カ月間硫黄島での地下壕の建設に励んだことになる。栗林中将率いる守備隊が硫黄島で36日間も持ちこたえたのは、彼の徹底持久戦の戦略・戦術にあったことは『硫黄島からの手紙』を観ればよくわかる。しかし、本作を観れば硫黄島での栗林中将の戦略・戦術のお手本が、実はペリリュー島における70日間の死闘に見る中川大佐の戦略・戦術にあったことがよくわかる。
中川大佐のそんな戦略・戦術は、その時代の多くの陸軍エリート将校が信奉していた「いさぎよく玉砕」の思想と正反対で、自ら死ぬことを否定し、最後の最後まで生き残るために、1人でも多くの敵兵を殺すことを目指している。どちらの思想が正しいのかの議論はさておき、本作では熊本(旧肥後藩)出身で陸軍中央幼年学校本科、陸軍士官学校と進み少尉に任官しながら、陸軍大学、軍人官僚への道を選ばなかった中川大佐の人となりに注目したい。
<生き残りの日本兵に注目!>
本作にはペリリュー島出身の女性ローズ・テロイ・シレスや、生き残ったアメリカ兵ブラズウェル・ディーンが当時の立場と状況を語る姿がスクリーン上に登場する。それはそれとして当時の客観的状況をつかむうえで有益だが、本作で興味深いのは、元日本軍海軍上等水兵で、ペリリュー島の攻防戦で米軍と死闘を繰り広げた土田喜代一が生き残りの日本兵としてカメラの前に登場すること。ちなみに、1945年8月15日の日本敗戦後もその事実を知らずに洞窟の中に身を潜め、やっと1947年4月に至って1年8カ月ぶりに姿を現した日本兵の数は34名にも上ったというから驚きだ。そんな体験をしているだけに、スクリーン上で土田が語る言葉はリアルそのものだ。
また、既に戦死しているが、本作で貴重な物語を構成するのが、ペリリュー島攻防戦で戦死した元・歩兵隊第二聯隊軍曹の加藤木正二と、ペリリュー島攻防戦に施設技師として参加し、1944年9月、切り込み攻撃を決意した大谷龍蔵大佐から、戦線離脱し、指令本部への守備隊の最後の戦いの姿を書き記した手紙を託された坂梨實の2人。本作ではこの2人について興味深い物語が示されるので、その物語にも注目!
<遺書代わりの最後の手紙と最後の打電に注目!>
映画のタイトルが『硫黄島からの手紙』とされたことからわかるように、栗原中将は筆まめで妻や家族宛てに多くの手紙を書いているし、遺書も残している。しかし、子供の頃から「男は強くあらねばならない」という武士的教育を受けた肥後藩出身の中川大佐は、生涯その方向に自分を律したが、それは同時に、弱い女性には優しくしなければならないという思想を含んでいたらしい。しかして、中川大佐が妻の光江に送った最後の手紙は、米軍上陸1カ月半前の1944年7月31日付。本作ではその手紙が朗読されるが、手紙を送れないわけではないのに彼がこれを最後の手紙としたのは一体なぜ?その手紙を読んでもペリリュー島の様子はほとんどわからないが、それは彼があえて妻に知らせようと考えなかったためであることは明らかだ。
さらに、いよいよ最後となった1944年11月22日にパラオ本島の集団司令部宛てに送った電文は、軍旗と機密書類を完全に処理した場合、つまり玉砕した場合は「サクラ」を連想するというものだった。そして、その2日後でアメリカ軍の上陸から70日目の11月24日に「サクラ、サクラ―」が打電された。これは『永遠の0』(13年)(『シネマルーム31』132頁参照)で見た「モールス信号」と同じ意味を持つことになる。中川大佐は戦死後2階級特進して中将になったが、さて彼の心のうちは・・・?
2016(平成28)年10月25日記