娘よ(パキスタン、アメリカ、ノルウェー映画・2014年) |
<テアトル梅田>
2017年5月22日鑑賞
2017年5月25日記
日本でも戦国時代には大名間の「政略結婚」が当たり前だったが、パキスタンでは今でも部族間の「児童婚」が!部族間の同盟のため、10歳の娘をじいさんの嫁に。そう決定されれば従うしかないのが部族の掟だから、それを破って逃走などしようものなら・・・。
1999年の実話を基に、パキスタン人の女性監督が魂の叫びを映画にした本作はアカデミー賞のパキスタン代表作となる等、話題性と問題提起性は大きい。しかし、脱出劇の展開と結末のストーリーには少し甘いところも・・・。
もう少し突っ込んだキャラの掘り下げや社会背景の解説が欲しかったが、それでも平和ボケし何ごとにも安住している今の日本人には、こんな映画こそ必見!
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監督・脚本・製作:アフィア・ナサニエル:
アッララキ(15歳で児童婚をした部族長の妻)/サミア・ムムターズ
ソハイル(トラック運転手)/モヒブ・ミルザー
ザイナブ(アッララキの娘)/サーレハ・アーレフ
2014年・パキスタン、アメリカ、ノルウェー映画・93分
配給/パンドラ
<パキスタン女性監督の心の叫びがデビュー作に!>
パキスタン映画が日本で公開されるのは珍しいが、本作は1974年にパキスタンで生まれた女性アフィア・ナサニエルの監督デビュー作にして、第87回アカデミー賞外国語映画部門のパキスタン代表作。日本でも戦国時代には「政略結婚」があり、弱小大名は10代のわが娘を政略結婚のため大大名に差し出していたが、部族間抗争が激しいパキスタンでは今なおそれと同じような「児童婚」があるらしい。これは、ある部族が部族として生きていくために、まだ10代の少女に対して、他の有力部族の部族長おやじ(じじい)との結婚を強制する制度だ。
しかし、世の中にはたまに勇気ある女性がいるもの。女性の教育の重要性を説いたためタリバンに狙われ頭を撃たれたものの、生き延びて国連で演説したパキスタン人の女性マララ・ユスコサイさんがその代表だが、実はパキスタンには、1999年に押し付けられた児童婚から逃げ出した母娘の実話があるらしい。そんな実話を知って感銘を受けたアフィア・ナサニエル監督が、その実話を基に英題を「Daughter」として、監督、脚本、製作したのが本作だ。まずは、監督デビュー作となるそんなアフィア・ナサニエル監督の「心の叫び」に注目!
<舞台は?部族は?夫は?娘は?>
本作の舞台はパキスタンとインド、中国の国境にそびえ立つカラコルム山脈のふもと。そこでは、多くの部族がひしめき合っているらしい。アッララキ(サミア・ムムターズ)は、ある弱小部族の部族長ドーラットの妻だが、冒頭に登場するアッララキがドーラットに朝食を用意するシーンを見れば、2人の年齢が大きく違うからこの夫婦も児童婚によるものだろうと推測できる。また、妻は夫に従うだけの役割だとされていることもよくわかる。他方、アッララキが10歳の娘ザイナブ(サーレハ・アーレフ)から英語の「put」と「but」の発音の違いを教わっているシーンを見ると、この母娘の愛情と信頼の深さもよくわかる。
さらに興味深いのは、ザイナブが同世代の女の子と結婚について語り合うシーン。そこでは、「私もいつかこんな家が欲しいな」と語るザイナブに対して、友人の女の子は、「それなら結婚しなくちゃ」と語り、さらに、「どうしたら子供ができるの?」と聞くザイナブに対して「絶対に内緒だよ」と念を押したうえ、そのシステム(?)を耳打ちしてくれたが、それはいかにも怪しそう・・・。今どきの日本のように、「性教育」が行き届いていないパキスタンでは、10歳の女の子の性知識はその程度のもの・・・?
<なぜ10歳で結婚?お相手は?それを知った母娘は?>
ある有力部族との和平交渉に出向いたドーラットは、その部族長であるトール・グルからドーラットの娘ザイナブを自分の嫁に差し出せば2つの部族の和平が実現できると提案されたから、さてドーラットの決断は?とは言っても、その話を聞かされた瞬間からドーラットのハラは決まっていたようで、家に帰ってくるなりドーラットはアッララキに対してそのことを既定事実のように告げただけ。そうなれば、当然アッララキもそれに従い、あとはザイナブの花嫁衣装を準備するだけだ。
そんな前提の下で、自分も15歳の時にドーラットと児童結婚させられたアッララキは、ザイナブの結婚の準備を整えていたが、ある日、母娘が楽しそうに語り合っているにもかかわらず部屋に鍵がかかっていたため、不審に思ったドーラットがドアを破って中に入ってみると、その会話は録音テープによるものだった。アッララキとザイナブは一体どこに?ひょっとして、結婚を拒否して逃げ出したの?
どうもそうらしいが、そんな事態になればドーラットの面子は丸つぶれ。部族長の地位は奪われるうえ、トール・グルから何をされるか分からない大変な事態に・・・。こりゃ、何が何でもアッララキとザイナブを捕まえなければ・・・。そこでドーラットはもちろん、アッララキに対してよこしまな気持ちをもろに示していたドーラットの弟も、あるよからぬ願望を抱きつつ必死にアッララキとザイナブの捜索に乗り出すことに。まだ、2人は遠くには行っていないはず、とにかく徹底的に探せ!そうすれば発見できるはずだ。確かにその通りだが、さて、スクリーン上の展開は?
<中盤の追跡劇は?運転手ソハイルのキャラは?>
アッララキが逃走するという決断をしたのはすごいことだが、乗り物もなく、行き先も特定したものではない。それに対して、アッララキとザイナブの逃走を知ったドーラットは部族員を総動員して、車や銃そして携帯を駆使して探せばいいのだから、2人の発見は時間の問題・・・。2人が走って逃げているシーンを見ていると、誰でもそう思ってしまう。しかし、ソハイル(モヒブ・ミルザー)が運転する極彩色のトラックの荷台に隠れて乗り込んでいた2人がソハイルに発見されたところから、本作中盤のちょっと中だるみ気味のロードムービー(?)が始まっていくから、それに注目!
私たち日本人は、パキスタンの部族間抗争のことは新聞報道でしか知らないから、スクリーン上に映るパキスタンの風景やパキスタンの人々の生活ぶりは興味深い。しかし、あるブログでは、「ムジャヒドというイスラム人民戦士機構」にいた人と説明されている男ソハイルのキャラクターが私にはサッパリわからないから、このロードムービーには次のような違和感がいっぱい・・・。
<ソハイルはなぜ協力を?なぜ・・・?なぜ・・・?>
ソハイルの車(のエンジン)がオンボロのため、早く逃げようとしているのに途中で停まってしまったのはご愛嬌だとしても、そこまで迫ってきた追っ手をソハイルが拳銃一発で仕留めてしまうことができたのは一体なぜ?ソハイルは、なぜこんな射撃能力を持っているの?また、本来何の縁もゆかりもない母娘だから、当初「早く車を降りてくれ」と冷たく突き放したのは当然だが、その後はソハイルがこの母娘にここまで「肩入れ」するのは一体なぜ?そもそも、ラジオのニュースで2人が逃げ出したことが流されたため、ある村では2人を連れたソハイルのトラックが発見されたことによって、そこでソハイルとしゃべっていた友人は一発で殺されているのに、なぜ、ソハイルはあえてドーラットとトール・グルの部族全体を敵に回すような行動に出たの?
さらに、そこはアフリカの砂漠ではないが、パキスタンの荒野の中で故障した車を乗り捨てて歩いたのでは、とても逃走などできないのでは?なぜ、ソハイルは銃殺した追っ手の車に乗り換えないの?また、ソハイルが頼った友人は一体どこに住んでおり、なぜ、そこではドーラットとトール・グルの部族を挙げた追及から安全に過ごすことができるの?そこらあたりが全体的に甘い構成になっているため、私には、こんな、なぜ・・・?なぜ・・・?の連続に・・・。したがって、束の間の平和の中でソハイルがアッララキに語るソハイルの身の上話や、ソハイルがアッララキに説明するインダス川とカブール川の由来のお話し(ラブストーリー)もよくできているのだが、少し違和感が・・・?
<アッララキはなぜ今、危険を犯して祖母のもとへ?>
本作では、もともとアッララキがザイナブを連れてどこに逃げるのか、が全く示されていない。そのため、ソハイルの出現による中盤の逃走劇も、ソハイルの友人の家に逃げ込んでからの安住ぶりもイマイチ違和感がある。それがさらに拡大するのは、急にアッララキが母親と電話で連絡をとり、「どうしても会わなければ・・・」と会いに行く後半のストーリーだ。
ザイナブを児童婚の強制から救いだし、今ここに安住の地を見い出しただけで、アッララキは十分満足すべきなのでは?だのに、そこで「生活が・・・?」などと不満(?)を述べ、どうしても「母親に会わなければ・・・」という話は到底納得できるものではない。したがって、それを聞かされたソハイルも「それなら好きにしろ!」と突き放すかと思うと、当初はそんな口ぶりだったものの、最後には「俺が会わせてやる」と、そこでも命懸けの行動を決意することに・・・。
この時点で、ソハイルとアッララキの間に男女の愛情が強く芽生えていたことは明らかだが、本作はそこらあたりはあくまでオブラートに包んでいるし、ソハイルがそれを告白するシーンも登場しない。それはそれで納得だが、私にはその分ソハイルの行動原理に?マークが・・・。
<パキスタン都心部の華やかさは?祖母との再会は?>
15歳で児童婚のためドーラットのもとに嫁いできたアッララキは、今日まで一度も母親と会うことはなかったらしいが、本作ではその事情もよくわからない。また、アッララキの母親が今どこに住み、どんな生活をしているのかもよくわからない。しかし、アッララキからの電話を受けた母親が、アッララキの声が聞けたことを喜びつつ「追っ手が捜しているから気をつけろ」「こちらは危険だから来てはダメ!」と警告したのは当然だ。
本作ラストの舞台はどこかわからないが、アッララキの母親が住んでいるパキスタンの都心部らしい。ソハイルの車で走るその都心部の華やかさは上海や北京には到底及ばないが、それなりのもの。幹線道路にはたくさんの車やバイクが走っているし、商店街や市場は大勢の人々が行き交っているから、ビックリ!この賑わいに10歳の娘ザイナブが大いに興奮したのは当然だが、ソハイルもアッララキもそれにつられてお菓子を買って食べたり、珍しいものを見物したり・・・。しかし、この行動にも追っ手の目が光っているとしたら、そんな気楽なことをしていて大丈夫なの・・・?
そう思っていると、やっとアッララキとザイナブがアッララキの母親と再会し、抱き合ったと思った途端、その側に立った男から拳銃を突き付けられることに。ああ、案の定・・・。すると、その後の展開は?
<この結末にも少し不満が・・・>
ソハイルが普通のトラック運転手でないことは、登場した当初からのふてぶてしさ(?)や各地に散在している友人の多さ、またライフルや拳銃の扱い方等で明らかだが、本作では最後までそのキャラの説明がないのは少し残念。しかし、ソハイルは今、2人をアッララキの母親に会わせるためにちゃんと拳銃まで用意していたから、3人が追っ手の男によって路地に連れて行かれるのを見ると、直ちにそれを追跡。そして、「娘を差し出せば、アッララキとその母親は解放する」と申し出る追っ手に対して、「自分が身代わりになるので、ザイナブは見逃してくれ」と交渉(?)しているアッララキを見て、ソハイルが男に飛びかかり乱闘となる中、一発の銃声が・・・。
ここらの描写も、監督初作品のためか、かなり違和感がある。なぜなら、追っ手の男はアッララキとザイナブのガードマン役として銃を持っているソハイルの存在を知らないのだから、ソハイルは最初からその追っ手を銃で狙い撃ちすれば、それでコトは足りるわけだ。しかるに、あえて飛びかかって乱闘に及んだため、死んだのが追っ手だったからよかったものの、もしそれが逆だったら・・・。しかも、その後私には全く想像もしなかった、あっと驚く事態が起きるとともに、本作はそれでジ・エンドに・・・。それはここには書かないので、あなたの目でじっくりと・・・。しかし、これはクライマックスとしては少し甘すぎるのでは?
もっとも、この評論で書いたこんなあんなの出来の悪さはあっても、なお本作のテーマとその問題提起には感動!
2017(平成29)年5月25日記