胡同(フートン)のひまわり(中国映画・2005年) |
<東宝試写室>
2006年6月9日鑑賞
2006年6月10日記
1976年の文化大革命終焉後の、中国30年の歴史の中、北京の胡同(フートン)を舞台に描かれるのは、父子の確執の物語。「下放」によって絵筆をとれなくなった父親が、才能を認めた息子に託したのは、画家への道。しかし、息子は9歳、19歳、32歳の時点で、それぞれどんな対応を・・・?張楊(チャン・ヤン)監督の体験談(?)を踏まえたこの映画は、都市法政策をライフワークとする私には、北京のまちづくりを考えるうえで必見だが、2008年の北京オリンピック・ツアーを考えている人たちも、今からこの映画で勉強を・・・。
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監督・脚本:張楊(チャン・ヤン)
向陽(シャンヤン)(9歳)/張凡(チャン・ファン)
向陽(シャンヤン)(19歳)/高歌(ガオ・グー)
向陽(シャンヤン)(32歳)/王海地(ワン・ハイディ)
チャン・ガンニャン(父親)/孫海英(スン・ハイイン)
チャン・シウチン(母親)/陳冲(ジョアン・チェン)
ラオ・リウ(父親の友人)/劉子楓(リウ・ツーフォン)
向陽の幼なじみ(9歳)/洪一豪(ホン・イーハオ)
向陽の幼なじみ(19歳)/李濱(リー・ビン)
ユイ・ホン(向陽のガールフレンド)/張玥(チャン・ユエ)
ハン・ジン(向陽の妻)/梁静(リャン・ジン)
東芝エンタテインメント配給・2005年・中国映画・129分
<『活きる』に続く中国30年の現代史のお勉強に最適・・・>
張藝謀(チャン・イーモウ)監督の名作『活きる』(94年)は、中国の1940年代、1950年代、1960年代という激動期の中で生きる夫婦の姿を描いた名作(『シネマルーム5』112頁参照)だが、同時に歴史の勉強にも大いに役立つもの。そして、この『胡同のひまわり』は、『活きる』が描いた時代の直後である1967年に向陽(シャンヤン)が生まれたところからスタートする。といっても、冒頭のシーンは向陽の出産シーンのみで、この映画が描く時代は①1976年、②1987年、③1999年という3つの節目。したがって、戦後60年の中国の現代史を勉強するには、『宋家の三姉妹』(97年)がベストだが、『活きる』と『胡同のひまわり』の2本を観れば、それでも十分・・・?
<ここにも文化大革命の後遺症が・・・>
1967年に生まれた向陽は、1976年には9歳(張凡/チャン・ファン)になっており、遊び仲間(洪一豪/ホン・イーハオ)とともに腕白な少年時代を過ごしていた。そんな時、向陽が母親のチャン・シウチン(陳冲/ジョアン・チェン)と2人で暮らしている胡同(フートン)に、突然戻ってきたのが父親のチャン・ガンニャン(孫海英/スン・ハイイン)。彼は1966年に始まった文化大革命の中、1968年に開設された「五七幹部学校」という思想改造のための集団農場での強制労働からやっと解放されたわけだ。物語の進行の中から、①ガンニャンは画家であったこと、②そのため知識人の「下放政策」によって五七幹部学校へ収容されたこと、③厳しい強制労働の中、右手の指を痛めつけられて骨折し、今では絵筆を握れなくなっていること、しかし他方、④強制労働のおかげで(?)、大工仕事や電気仕事などを器用にこなすことができるようになったこと、などが少しずつ語られていく。
ここにも、あのバカげた文化大革命の後遺症を受けた知識人が1人いたわけだが、実はこの父親は、張楊(チャン・ヤン)監督の父親をモデルとしたもの・・・。すると、向陽は張楊監督自身・・・?
<中国にも大地震が・・・>
毛沢東が死亡したのは1976年9月9日。そして、「四人組」が逮捕されたのが10月。これによって、1966年から10年間続いてきた文化大革命は終わりを告げた。その意味で、1976年は中国現代史においてエポックメイキングな年だが、この映画を観て私がビックリしたのは、この1976年の7月に唐山地震という大地震が起こり、北京にも大きな被害をもたらしたこと。この唐山地震によって、チャン一家を含む住民たちは胡同が再建されるまで、一時的に集団避難所生活を余儀なくされることに・・・。
<映画のテーマは父と子の確執>
この映画では張楊監督は文化大革命批判を封印し、1976年以降の父と子の確執にテーマを絞っている。その理由は、張楊監督がパンフレットの中で、「政治状況がどうであれ、家族は普遍的なものです。私が本当に描きたかったのは家族です」と述べていることに尽きるだろう。
父と子の確執は向陽が9歳の少年時代から。父親が帰ってきても向陽は父親に馴染めなかったためか、なかなか「パパ」と呼ばなかった。そればかりか、仲間との遊びや野外映画の楽しみを抑えられ、いつも「絵を描け」と命令されている向陽は父親に対して反抗的で、いつも悔し涙を流していた。こんな厳格な教育方針一辺倒でいいのかな、と心配しながら観ているうち、スクリーンは1987年、すなわち19歳を迎えた向陽(高歌/ガオ・グー)の姿に移っていく。
向陽は今、絵の学校に通っているが、父親の厳格さは昔と同じ。したがって、向陽の父親嫌いや父親への反抗心は今も続いており、そのため幼なじみの親友(李濱/リー・ビン)とともに広州へ家出することを計画したが・・・。
<こんな横暴が許されるの・・・?>
1987年といえば、すでに一人っ子政策が始まっているはずだが、ガンニャンは19歳になった息子に対してもなお厳しく当たっていた。それは自分が絵を描くことができなくなったため、その夢を息子に託したいとの思いからだが、それ以上に向陽の才能を認めていたため。映画を観ていると、父親がそう思うのなら、その思いを息子にきちんと伝えて話し合いをすればいいのにと思うが、生来頑固で無口な性分のためか、ガンニャンが向陽に接する態度は、厳しいものばかり。そのため、大学には行かないという向陽の主張は即、却下、そして密かに乗った広州行きの列車にも父親の姿が・・・。
今ドキの日本では、19歳の息子を父親が力ずくで列車から引きずり降ろすことなど到底ムリだろうが、1987年の中国ではそれが可能・・・。そこまではまだいいとしても、ガールフレンドのユイ・ホン(張玥/チャン・ユエ)に対するガンニャンのやり方は、いくら何でもひどすぎる・・・。こんな横暴が許されるの・・・?
<ユイ・ホンの描き方には少し不満が・・・?>
1987年ともなれば、鄧小平による改革開放政策が軌道に乗る中、女性の服装も華やかになり、北京の冬にはスケートリンクと化した氷の上でスケートに興ずるたくさんの女性たちがいた。その中でひときわ目立ったのが、赤い帽子と赤いマフラーの美少女ユイ。まるで荒川静香のように(?)、軽やかに氷の上を舞うユイの姿を見た向陽は、直ちにスケッチブックを広げてその姿を・・・。そんな中で生まれきたのが、向陽とユイの恋心。まさか、今すぐ結婚というわけにはいかないが、ある日氷の池の中に滑り落ちた2人は、濡れた服を乾かしているうち、ごく自然に・・・。
若い2人だからそりゃ仕方ないだろうが、ここから先の展開が大問題。あえてそれはここでは書かないが、いくら父親であっても息子の彼女に対して、やっていいことと悪いことがあるはず・・・。私はそう思ったが、さてあなたのご意見は・・・?
そんな中、向陽は「次代の章子怡(チャン・ツィイー)の座を担うとされている大型注目株」と評されている張玥演ずる美しいユイと別れてしまうことになり、その後、彼女の出番がなくなってしまったのはいかにも残念。そういう観点から、ユイの描き方には少し不満が・・・。
<北京のまちの再開発と北京のまちづくり視察>
一転して、時代は1999年に。北京オリンピックの開催が決定したのは2001年だが、その決定を待つまでもなく、北京のまちは急速に近代化が進み、高層ビルが林立する大都会に変身中。そしてそれに伴って、昔の名残を残す胡同や四合院は、次々と取り壊されていく運命に・・・。なお、胡同や四合院についての詳しい解説はパンフレットを参照してもらいたい。北京のまちの再開発は、まちづくりや都市政策をライフワークとしている私には非常に興味のあるテーマで、常々興味を持って新聞記事などを収集している。
ちなみに、来週6月14日からは再開発コーディネーター協会主催の北京都市再開発調査団の3泊4日での視察旅行がある。これは、北京の政府筋の人たちが公式に案内してくれるツアーだから、非常に貴重なもの。私は是非これに参加したかったのだが、弁護士としての業務がこの時期たてこんでいるため、参加できなくなったのは残念。しかし、参加メンバーに私の『実況中継 まちづくりの法と政策』の本やメッセージを託しているので、今回の視察旅行で政府の関係者にコネをつけておいてもらい(?)、次に私が視察に行く時には、何とかその案内をしてもらいたいと考えている。そんな私の興味に応えた北京のまちづくりと胡同取り壊しの実態を、この映画を観れば十分理解することができる。
<アパートの入居をめぐる男と女の違いは・・・?>
日本の都市法体系では、憲法29条3項の「私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」を頂点として、たくさんの法律がある。その中でも、土地収用法が最も権力的な法律で、「正当な補償」によって、土地からの立退きを命ずることができる。しかし、土地区画整理法や都市再開発法は「等価交換」を原則としたもので、地権者は従前の権利と等価の新たな土地の「区画」や、再開発ビルの「権利床」を取得することができ、転出を強要されないシステムとなっている。
しかし中国では、何よりもまずそのような憲法上の原則が確立されていないうえ、法律の体系も未整備。そのうえ、共産党や政府幹部の汚職や賄賂が横行しているから、道路づくりのため、再開発のため、オリンピックの競技場づくりのため、と決定されると、住民たちは短期間での立退きを強制されることになる。
この映画では、昨今大問題となっているそんな「農民の反乱」までは描いていないが、それに代わって、アパートへの入居をめぐる問題点が描かれている。台所や風呂・トイレなどが不便で、薄汚い胡同の四合院よりも、西欧風の便利で近代的な高層アパートの方が暮らしやすいと思う気持は、女性の方が強いよう。しかし、古い四合院から近代的なアパートへ移るについては、中国一流の査定(?)があり、そこにはどうも、贈り物や賄賂のカゲがチラホラ・・・。現実主義者(?)のシウチンは人並みにそんな手段を使おうと言うものの、律儀で頑固なガンニャンはそれを断固拒否。そのため、チャン家はいつまでもアパートに入れないまま・・・。そんな中、シウチンのイライラは募り、ついにある時、ある手段を・・・。
<偽装離婚という手段の是非は・・・?>
あれから12年。時は1999年になっていた。32歳になった向陽は、今はハン・ジン(梁静/リャン・ジン)と結婚し、画家としても順調で、公私ともに幸せな2人の生活を確保していた。他方、ガンニャンはなお1人、胡同の四合院で生活していたが、シウチンは1人、近代アパートの1室に。シウチンがアパートへ入ることができたのは、ガンニャンと離婚したため。「へえ・・・」と思って観ていると、シウチンがガンニャンに電話して、「食事は終わった?お酒はほどほどにネ・・・」とえらく親しげに話している・・・。
「離婚して何年も経っているのに、これは怪しいぞ」と思っていると、この離婚はシウチンがアパートへ入るための偽装だったことが、物語の進行の中、判明していく。しかし、これはかなりヤバイことでは・・・?もしバレたらえらいことに・・・?6月4日に『花よりもなほ』(05年)で、1701年の江戸時代における「偽装仇討ち」を観たのに続き、今日は1999年の北京で「偽装離婚」を観たのも、耐震強度偽装、粉飾決算と「偽装」続きの日本だからか、と思わず皮肉な笑いが浮かんできたが・・・?
<日本は1.25、韓国は1.16、そして一人っ子政策の中国は?>
少子高齢化が大きな社会問題となっている日本の、女性が一生に生む子供の数の合計特殊出生率は1.25だが、韓国はもっと深刻で1.16。そして、中国では1979年以降一人っ子政策がとられているが、近時は、金持ちは罰金を払って2人目を生んでいるケースが多いとのニュースもチラホラ・・・。そんな中、向陽夫婦は、ガンニャンとシウチンから早く孫の顔を見たいと再三「催促」されているらしい。向陽夫婦に子供が生まれないのか、それとも生むつもりがないのかは当初わからなかったが、物語が進行していく中、そこにもある確執が・・・。その点も大きなポイントだから、映画を観てのお楽しみに・・・。
私がここで注目したのが、向陽が子供をほしがらない理由として、「自分は父親になる自信がない」という言葉。多分これは、日本でも韓国でも共通する理由の1つだろうが、私はこの考え方には大反対。そんなことを言えば、いつになっても自信など持てないのでは・・・?日本ではきわめて評判の悪い猪口邦子少子高齢化担当大臣も、こういう映画を観て、一人っ子政策をとっている中国ですら、「父親になる自信がないから、子供はいらない」と言っている若者がいることに注目し、勉強していく必要があるのでは・・・?
<ちょっと意外なラストに注目!>
この映画全編を通じたテーマは、父と子の確執。9歳の時からの確執は、向陽が32歳となり画家として成功を収めた今でも、なお続いていた。そしてその確執は、向陽夫婦の子供をめぐって頂点に・・・。そんな中、向陽の展覧会への出席を拒んでいたガンニャンも、同じ四合院に住んでいた長年の友人、ラオ・リウ(劉子楓/リウ・ツーフォン)の死亡を契機として、展覧会場を訪れ、あらためてわが子の絵の才能を確認することに。その場での父子の握手、そして展覧会の成功を心から祝う父母と息子夫婦がそろった食事によって、それまでの確執はすべて解消したかのように見えたが・・・。しかし、それではあまりに単純なハッピーエンドになってしまう、そう考えた(?)張楊監督は、その後、何とも意外なラストを用意しているので、それに注目!しかし、これって張楊監督の実体験、それともこれはフィクション・・・?
1976年から今日まで中国30年の歴史の中で描かれる父と子の物語は、129分という長編ながら、決してあきることのないもの。静かなピアノ音楽をバックとして、ゆったりと流れていく物語を、胡同や四合院の風景とともに、頭の中にしっかりと残しておきたいもの。そして、2008年の北京オリンピックで北京を訪れた際は、その記憶と現実の北京のまちをしっかりと比較・対照したいもの・・・。
2006(平成18)年6月10日記