敬愛なるベートーヴェン(イギリス、ハンガリー合作映画・2006年) |
<東宝試写室>
2006年9月21日鑑賞
2006年9月25日記
『バルトの楽園』における日本初の第九交響曲の演奏もすばらしかったが、難聴に苦しむベートーヴェンが、テンポと入りを指示する美しきコピストとの二人三脚で指揮をする第九の演奏も感動的!『アマデウス』をはじめ優れた伝記映画・音楽映画は多いが、そこに新たに本作が加わった。それにしても、「野獣」ベートーヴェンにこんな人間的な優しさがあったことや、アパートの隣のおばさんまで第七交響曲のメロディを口ずさんでいるヨーロッパ文明の高度さにビックリ・・・。「教育改革」が叫ばれる中、こういう映画を音楽の授業で活用しなければ・・・。
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監督:アニエスカ・ホランド
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン/エド・ハリス
アンナ・ホルツ(写譜師)/ダイアン・クルーガー
マルティン・バウアー(アンナの婚約者)/マシュー・グード
カール・ヴァン・ベートーヴェン(ベートーヴェンの甥)/ジョー・アンダーソン
ウェンツェル・シュレンマー(音楽出版社)/ラルフ・ライアック
ルディー/ビル・スチュワート
東北新社配給・2006年・イギリス、ハンガリー合作映画・104分
<伝記映画、音楽映画大好き!>
私は昔から伝記映画・音楽映画が大好きで、中学生の時に観たリストを主人公とした『わが恋は終りぬ』(60年)では、ヨーロッパの劇場のすばらしさとリストのピアノ演奏にビックリしたし、サリエリから見たモーツァルトを描いた『アマデウス』(84年)では、その映画としての完成度に大いに感動したもの。
ベートーヴェンを主人公にした映画もたくさんあるが、この「ベートーヴェンもの」はベートーヴェンの全生涯ではなく、晩年のごく一部だけを描くもの。ベートーヴェンの『第九交響曲』の初演を4日後に控えた1824年から物語は始まるが、舞台はもちろんウィーン。さて、女流監督のアニエスカ・ホランドがこの映画で描こうとした、晩年のベートーヴェン像とは・・・?
<コピスト=写譜師とは?>
この映画はもちろんベートーヴェン(エド・ハリス)が主役だが、それと同じくらいのウエイトがあるのがベートーヴェンのコピスト=写譜師として登場する23歳の女性、アンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)。これは架空の人物だが、これには3人の実在のモデルがいるとのこと。コピストとは、作曲家が書いた楽譜を清書する仕事。つまり、私の手書き原稿と同じように(?)、作曲家の書いた直筆の楽譜は走り書きで乱雑なものが多いから、それをコピストが清書する必要があるわけだ。パンフレットにある佐渡裕氏(指揮者)の「時代を越えるベートーヴェンの“第九”」によると、ベートーヴェンの第九交響曲にも、10年ほど前まで世界中のオーケストラが使っていた「ブライトコプフ」版と、最近主流になりつつある「ベーレンライター」版がある他、彼は3冊目の“ベートーヴェン自身による手書きの譜面のファクシミリ(写真版)”を持っており、何か楽譜上の疑問があれば、この「ファクシミリ」を眺めることに必ず戻るようにしているとのこと。
<こんな優秀なコピストなら・・・>
そういう興味ある仕事(?)をするのがコピストだが、そもそも当時は女性のコピスト自体が珍しいもの。しかし、アンナは音楽学校で成績トップの優秀な学生であるうえ、とびっきりの美人。そのうえ、彼女がベートーヴェンの崇拝者であり、楽譜の写しまちがいを指摘するベートーヴェンに対して、「あなたなら、ここは長調にしません。だから短調に修正したんです」と言い切るほどのベートーヴェン音楽の理解者。「何を生意気な!」と思いながら、ベートーヴェンがそのとおり弾いてみると、なるほどなるほど・・・。
4日後の初演に向けて、第九の合唱パートがまだ完成していなかったベートーヴェンにとって、実に心強い味方が現れたわけだが・・・。
<「野獣」ベートーヴェンの生活ぶりは・・・?>
音楽学校に1番優秀なコピストの派遣を依頼したのは、出版社のウェンツェル・シュレンマー(ラルフ・ライアック)だったが、アンナはシュレンマーから、「君の行くところはあの“野獣”ベートーヴェンだぞ」と言われたほど、その生活ぶりは野獣に近いもの・・・?アパートの中は散らかし放題で、始終怒鳴り声が聞こえてくる。そのうえ、水を浴びて体を拭く時は、その水が階下に遠慮なく落ちてくるという具合。
これらがどこまで実態にあっているのかは知らないが、重要な舞台として再三登場するベートーヴェンのアパートの部屋の中は、「ビニールやプラスチックを使わず、19世紀に存在した素材だけを利用して、今回のセットを作り上げた」とのことだから、時代考証はしっかりしているはず・・・。
<面白いエピソード・・・>
面白いのは、ベートーヴェンが森へ散歩へ出かけている時に、アパートの隣りに住むおばさんがアンナに対してかけてくる言葉。「ベートーヴェンがいないと、静かで至福の時を過ごすことができる」と言うおばさんに対し、アンナが「それでは引っ越ししたら・・・」と言うと、「とんでもない。私は誰よりも早くベートーヴェンの音楽を聴くことができるのだから」との答え。その後すぐにベートーヴェンの交響曲第7番のメロディを口ずさんだほどだから、このおばさんはよほどのベートーヴェン音楽の愛好者というわけだ。こんなちょっとしたエピソードで、ベートーヴェンの人柄を観客に示す手法も、女流監督独特のもの・・・?
<圧巻は二人三脚による第九の指揮と演奏!>
そして、いよいよ第九初演の日。『バルトの楽園』(06年)における第九の演奏もすばらしかったが、約10分間にわたる『敬愛なるベートーヴェン』における第九の演奏も圧巻!ドレスを着たアンナは恋人のマルティンと共に観客席から演奏を聴くつもりだったが、急遽アンナを舞台裏に呼んだのはシュレンマー。そこには難聴を患い満足に指揮棒を振ることができないのではないかという不安にさいなまれているベートーヴェンの姿があった。そんな中実現したのが、前代未聞の二人三脚による第九の指揮。すなわち、アンナがバイオリン奏者たちの足元にあるボックスの中に入り、上半身だけを見せて、手の動きと表情によってベートーヴェンにテンポと入りの合図を送るわけだ。
パンフレットによれば、このシーンを成立させるため、1996年にベルナルド・ハイティンク指揮のもとでアムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団が行ったデッカ・レコードの録音が使われたが、ケチケメート交響楽団の55人のメンバーとケチケメート合唱団の60人のメンバーを前に、ベートーヴェンに扮するエド・ハリスはアンナに扮するダイアン・クルーガーの合図のもとに実際に指揮棒を振り、ナマで演奏していたとのこと。それほどベートーヴェンの指揮ぶりはすばらしかったし、そのベートーヴェンに指と腕そして目を使って合図を送るアンナとの二人三脚による指揮の一体ぶり、陶酔ぶりもすばらしいものだった。こんな二人三脚による第九の指揮と演奏は、映画史に残る名シーンになることまちがいなし!
<こんな男女愛・師弟愛も・・・>
ベートーヴェンの晩年は、難聴と闘い続け、その中で魂との対話を求め続けた孤独なものだった。そこに突然コピストとして抜群の能力を持っているうえ、ベートーヴェン音楽の最高の理解者が現れたことは、ベートーヴェンにとってこのうえない喜びとなったはず。女流監督らしく、ストーリーは第九初演に至るまでの2人の関係と、その演奏に大成功した後の2人の関係を実に繊細なタッチで描いていく。もちろん、2人の間に現実的な恋愛モードが高まっていくわけではないが、アンナの作曲への情熱とそれに対するベートーヴェンの対応、そしてベートーヴェン最後の大作『大フーガ』の作曲に向ける2人の姿を通じて、そんじょそこらにある男と女の関係を大きく超えたすばらしいパートナーシップが形成されていく。こんな姿を見て私が思い出したのが、オーギュスト・ロダンと女流彫刻家カミーユ・クローデルとの男女の師弟愛を描いた名作『カミーユ・クローデル』(88年)。しかして、『大フーガ』の出来が散々な結果となり、最後まで客席に残っていた大公から「思っていたより耳が悪いんだな」と酷評される中、ベートーヴェンは「予想どおりの結果だ」と強気な発言をアンナに残したものの、その後は・・・?
もちろん、映画はこの後のベートーヴェンとアンナの姿を描いていない。さて、あなたはこの後の2人の姿を、そしてベートーヴェン亡き後のアンナの姿をどのように想像するだろうか・・・?
<難聴の症状は「ご都合主義」・・・?>
第九初演後の割れんばかりの拍手喝采の声が聞こえないベートーヴェンを、聴衆の方に振り向かせたのは、初演で歌った女性歌手カロリーネ・ウンガーだったとのことだが、この映画ではその役はもちろんアンナ。歴史上の事実として、ここまで難聴の症状が進んでいるのであれば、日常会話において他人のしゃべる声はほとんど聞こえないとみるのが妥当。そこでこの映画ではベートーヴェンは、ピアノを弾く時は頭の後ろに丸い形をしたガードをつけたり、人の話を聞く時はラッパのようなものを耳にあてがったりいろいろな工夫をしているが、いつもこんなことをしていたのではストーリー進行の妨げになるのは当然。そこで、はじめてアンナがベートーヴェンの部屋を訪れてきた時の「会話」をはじめ、2人の間で交わされる数々の会話シーンでは、割と耳の聞こえるベートーヴェン(?)に変身させている。
差別用語となるのでホントは使ってはいけないのだが、同じ意味の言葉が思いつかないのであえて言えば「勝手つんぼ」という言葉がある。この映画の中のベートーヴェンはそれと同じで、もっといえばベートーヴェンの難聴の症状はご都合主義・・・?しかし、それは映画製作上やむをえない約束ゴト(テクニック)として認めることが必要だし、映画を観ていてそのことの不自然さに抵抗を覚えることはないはずだが・・・。
<ダイアン・クルーガーの美しさにうっとり・・・>
私は『戦場のアリア』(05年)を見逃したが、この映画にドイツのソプラノ歌手の役で登場したのが、ドイツ生まれの女性ダイアン・クルーガー。私はこのダイアン・クルーガーを『トロイ』(04年)ではじめて観て、「しかしこの映画では、女優陣はいわば“刺身のツマ”で、そのウエイトは非常に小さいもの。だから、十分その美しさを楽しむことができないのは残念」と書いた(『シネマルーム4』63頁参照)。彼女は1976年生まれだから、23歳のコピストという役は本来ちょっと不自然なはずだが、全然そんなハンディ(?)を感じさせないのは、キリリとしたその美しさのおかげ・・・。
ベートーヴェンと激しくやり合うアンナも、メガネをかけて写譜に励むアンナも、外套と帽子姿で外出するアンナもそれぞれにいいが、やはり1番決まっているのは、胸元を大きくあけたドレスを着た彼女が、オーケストラの中に混じってベートーヴェンの指揮のテンポと入りをリードしていくシーン。その美しい二の腕や指先の微妙な動きを観ていると、それは単にテンポを刻むだけではなく、指揮棒を持ったベートーヴェンの心と一体になっていることがよくわかるし、その恍惚とした表情はまさに官能美の極み・・・。「これぞ最高の色気!」というのは、あまりにスケベおやじの評論に堕ちすぎだろうか・・・?
<さすがヨーロッパ・・・>
今一般にクラシック音楽と呼ばれているのは、16世紀~20世紀のヨーロッパを中心とした管弦楽音楽だが、その中の最高峰がベートーヴェン。もちろん、中国からの文化・文明を吸収してきた日本にも固有の音楽があり、それをバカにするつもりは全くないが、近代ヨーロッパのショパンやリストそしてバッハ、モーツァルト、ベートーヴェンらの音楽を聴いていると、やはり私はヨーロッパ文明のレベルの高さ(優越性)を感じざるをえない。それはソフトとしての音楽そのものだけではなく、音楽を愛した人々(これは市民ではなく、王や貴族階級であったことが前提だが・・・)や音楽を演奏するための劇場(ハード)を含めてのこと。
日本人はそんなヨーロッパ文明のすばらしさにもっと興味を持ち、理解する必要があるのではないかと私は常々思っているが、そのためには、こんな伝記映画・音楽映画はきわめて有効かつ有益。美しい音楽を楽しみながら、その音楽が生まれてきた歴史的背景や人物像に迫っていくのは最高に楽しい作業。教育改革が叫ばれる中、音楽教育の一環として是非こんなすばらしい映画の上映会をやってみれば・・・。あなたは、そうは思いませんか・・・?
2006(平成18)年9月25日記