トランシルヴァニア(フランス映画・2006年) |
<GAGA試写室>
2007年8月14日鑑賞
2007年8月15日記
トランシルヴァニア(ルーマニアの一地方)を舞台とし、ロマ(ジプシー)をキーワードとした物語は、日本人にはなじみが薄く、一見難解なもの。しかし、愛を求めて旅を続けるヒロインと、それを支える男によるヒロインの再生というテーマは、十分理解可能・・・。たまには、ネットを調べて勉強しながら、未知なる東欧の旅に出かけてみたいもの。島国ニッポンとは全く異なるトランシルヴァニアの風景とすばらしいロマ音楽の中、きっと何か新しい視点が発見できるのでは・・・?
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監督・脚本・音楽:トニー・ガトリフ
ジンガリナ(トランシルヴァニアに旅立つ女性)/アーシア・アルジェント
マリー(ジンガリナの親友)/アミラ・カサール
チャンガロ(ジンガリナと旅する男)/ビロル・ユーネル
ミラン(姿を消したジンガリナの恋人)/マルコ・カストルディ
日本スカイウェイ配給・2006年・フランス映画・102分
<トニー・ガトリフ監督とは・・・?>
私は全然知らなかったが、2004年のカンヌ国際映画祭で『愛より強い旅』によって監督賞を受賞したトニー・ガトリフ監督は、フランス人の父親とアンダルシア出身のロマ(ジプシー)の母親との間で1948年に生まれた人物。そのため、彼は自らのルーツでもある“流浪の民=ロマ民族(ジプシー)”を永遠のテーマに作品を撮り続けているとのこと。また彼の作品には、毎回ロマの音楽とダンスが登場することでも有名とのこと。
そんなトニー・ガトリフ監督の2006年カンヌ国際映画祭のクロージングを飾った『トランシルヴァニア』は、ずっと以前から描きたかった「愛する男を捜すために世界の果てへと旅立つ女性」をテーマとしたもの。したがって、これは監督初の女性を主人公としたものだ。
突然姿を消した恋人ミラン(マルコ・カストルディ)を捜すため、親友のマリー(アミラ・カサール)と共にミランの故郷トランシルヴァニアへと旅立ったヒロインは、ジンガリナ(アーシア・アルジェント)。さあ、トランシルヴァニアへの彼女の旅はどんな展開を・・・?
<トランシルヴァニアとは・・・?>
トランシルヴァニアとは、「森の彼方の国」という意味。つまり、フランスなどの西欧諸国から見れば、トランシルヴァニアは森の彼方(東方)にある、はるか遠くの国という意味。もっとも、ネット情報で詳しく調べてみると、現在のトランシルヴァニア地方はルーマニアにある4つの地方のうちの1つ。しかし、地理的、歴史的、宗教的、民族的にかなり複雑な経緯をたどっているので、興味のある方は是非自分で調べてもらいたいもの。
この地方に住む民族は、ルーマニア人、ハンガリー人、ドイツ人が中心だが、その他にもアルメニア人、ユダヤ人そしてロマ(ジプシー)などの民族が交錯し、さまざまな争いをくり返してきたらしいが・・・。
<ロマ(ジプシー)とは・・・?>
私たちはロマという言葉には全く親近感がなく、ジプシーという言葉に馴れているが、ネットを調べてみると「ジプシーはエジプト人という誤解から来ていること及び偏見・差別的に使用されているため、最近では彼らの自称としてロマが使用されるようになった」とのこと。そして、ロマとは北インド起源の移動型民族で、移動生活者、放浪者と見なされることが多いが、現代では定住生活をする者も多いとのこと。
また、西暦1000年頃にインドのパンジャブ地方から放浪の旅に出て、北部アフリカ、ヨーロッパなどへたどり着いた彼らが、ヨーロッパに史料上の存在として確認できるようになるのは15世紀に入ってからで、ユダヤ人と並んで少数民族として迫害や偏見を受けることになったとのこと。そしてナチスドイツでは、ロマを「劣等民族」と見なす法律が施行され、ユダヤ人と同じ、いやそれ以上の迫害を受けたとのこと。
戦後は、ソ連ではロマに対し強制的に定住を求める同化政策がとられたが、旧ユーゴスラビア、ハンガリー、ドイツでは例外的にロマを少数民族と認定しているとのこと。しかし、戦後の経済変動の中でロマの生業は成立しなくなり、ロマの経済的な困窮は一段と進んでいるとのこと。
ロマといえば、何といってもカルメンが有名だが、クラシック音楽では、リストの『ハンガリー狂詩曲』、ブラームスの『ハンガリー舞曲』、サラサーテの『ツィゴイネルワイゼン』などがロマ音楽の影響を強く受けていることは明らか。
以上が、ざっとしたロマの勉強だが、そんなロマの血を母親から引いているトニー・ガトリフ監督が、ロマを永遠のテーマとして映画づくりをしているというのは、ある意味当然・・・?
<見どころ その1ーアーシア・アルジェントもロマの血を・・・>
この映画の成否は、良くも悪くも『トランシルヴァニア』というタイトルどおりの雰囲気を観客が感じとり、かつそれを理解し共感することができるかどうかにかかっている。そうだとすると、東方の島国で、東欧社会やトランシルヴァニアのことなど全く知らない日本人観客には、その点の理解が難しいというハンディキャップがある。しかし、ヒロインの美しさや演技力への共感は万国共通だから、この映画の見どころの第1は、ヒロインのジンガリナを演ずるアーシア・アルジェントのそれ。
私の目ではもちろんその2つとも合格点だが、彼女が迫真の演技をスクリーン上で見せることができたのは、多分彼女も曾祖母の1人がロマ族であり、彼らの文化に親近感をもっていたため・・・?
ちなみに映画の中では、身体の中に悪魔がいると思い込んでいるジンガリナが、白い衣装を身にまとい、頭の上から牛乳をかけてもらうことによって身も心も清めるという悪魔払いの儀式のシーンがあるが、プレスシートによると、彼女自身もそんなたくさんの迷信の中で育ったようなものとのこと。また、ジンガリナが左の手のひらに人間の目を描いているのは、よそ者に対して容赦なく浴びせられる視線から自分を守るためのお守りだが、何とアーシア・アルジェント自身も自分の背中に、そんな目が彫られているとのこと・・・。
この映画の見どころその1は、そんなロマの血を引いたヒロインの美しさと演技力だ。
<見どころ その2ー荒涼としたトランシルヴァニアの風景>
私がはじめて2000年8月に中国の大連を訪れた時、また2001年8月にはじめて中国の敦煌を訪れた時、飛行機の下に見える大地の色を見て、あまりにも日本と違うことにビックリしたことを今でも鮮明に覚えている。2007年7月30日に亡くなった小田実の『何でも見てやろう』ではないが、このように何でも自分の目で直接見るのが1番。
もっとも、現実はなかなかそうはいかないが、映画ではほぼそれと同じような「体験」をすることができる。例えば、『太陽がいっぱい』(60年)における太陽がさんさんとふりそそぐナポリの風景や、『ドクトル・ジバゴ』(65年)における荒涼としたロシアの風景などは、直接自分の目で見ることができなくても、映画で十分その風景を感じとることができるもの。
そういう意味において、この映画の見どころその2は、トランシルヴァニアの荒涼とした風景や雪に覆われた風景。8月12日(日)には、いつものフィットネスクラブで20km走をしながら観たBS放送の『関口知宏の中国鉄道大紀行 春の旅』に感激したが、将来ルーマニア旅行が実現することになれば、是非自分のカメラで撮影してみたいと思うような風景があちこちに。わずか2時間弱の間にこんなすばらしい風景を堪能することができるのだから、映画ってホントに最高。
<見どころ その3ーすばらしい音楽の数々>
この映画の見どころその3は、トニー・ガトリフ監督作品に共通する、そのすばらしい音楽。その最初は、ジンガリナと親友のマリーがミランの故郷トランシルヴァニアに到着し、ミランを探し回る中で展開されるジプシー音楽。バイオリンを中心とした弦楽器で構成される、一方で哀愁を帯び、他方でリズミカルで誰もがステップを踏み出すようなあのジプシー音楽の魅力は相当なもの。そんなすばらしいロマ音楽の数々があちらでも、こちらでも・・・。
もっとも、映画では当然ストーリー展開がメインとされ、音楽はサブ的な位置づけとされるのが普通だが、ラスト近くになって、落ち込んでいるチャンガロ(ビロル・ユーネル)が、自分のために楽士たちを雇って音楽と酒に身を浸す中、いたたまれなくなった楽士たちが、「音楽は生きるための力だ。苦しむためじゃない」と言って演奏を中止するシーンは、強く印象に残るもの。楽譜も持たず指揮者もいないまま、即興で楽士たちが奏でるすばらしい音楽の数々が、この映画の見どころその3であることはまちがいなし。
<失意のジンガリナは・・・?>
突然姿を消していった恋人を追いかけていっても、普通はロクなことがないもの。だって普通それは、もう愛していない、もうイヤになったためというメッセージである可能性が高いはずだから・・・?そう思って観ていると、案の定ジンガリナとミランの場合もそうだったよう・・・?ロマの楽士たちを通じてやっとミランを探し当てたジンガリナだったが、そこでミランが示した対応は・・・?
親友のマリーは、失意のドン底に沈み、泣き叫ぶジンガリナを何とか慰めようとしたが、祭りの喧騒の中でジンガリナとはぐれてしまったり、何かと大変。しかし、映画の中では当然何らかの救済が用意されている。その1人がロマの少女であり、もう1人が後半ずっとヒロインと共にこの映画のメインとなる男チャンガロ。
ジンガリナは、トランシルヴァニアまでやって来てやっとめぐり会えた元カレのミランに振られた中、国へ帰ろうと必死の説得をするマリーを振り切って、ロマの少女と共にトランシルヴァニアに残ることに・・・。さて、失意のジンガリナには、トランシルヴァニアに残って何か再生の道が開けるのだろうか・・・?
<チャンガロはなぜジンガリナの傍に・・・?>
彫りの深い顔だちのジンガリナはたしかに美人。しかし、トランシルヴァニアに到着した時は既にミランの子供を身ごもっていたから、お腹が少しふっくらしていたうえ、何かと気が強そう。したがって、そんな女性に興味を示し、モーションをかけてもなかなかオチないことは明らか・・・?チャンガロだってそれはわかっていたはずだが、なぜかチャンガロはジンガリナに対してあれこれと・・・?
映画の中では、チャンガロはどんな仕事で生計を立てているのかなどは全く明らかにされず、トニー・ガトリフ監督はストーリー展開の中で観客は自然に理解していきなさいという流儀を徹底させている。面白いのは、チャンガロはロマ族ではないが、定住する地をもたず、かつ壁に囲まれたホテルに泊まるのもイヤで、車が移動手段であり、家であり、商売道具であるというロマ的な生き方をしている男だということ。そんなチャンガロと、悪魔払いの儀式を終えた後はそれまでのカッコいい黒のワンピース姿から、完全にロマの女の服装に切り替えたジンガリナとの奇妙な旅が、この映画後半のメインとなる。
なぜチャンガロは、ずっとジンガリナの傍にいることに・・・?そして、なぜジンガリナはそんなチャンガロと共に旅を続けることに・・・?
<ケンカと仲直り、強盗、出産ー旅はいろいろと・・・>
美しいトランシルヴァニアの風景の中で展開されていく2人の旅は、決して生やさしいものではないはず。だって、互いに相手がどんな人物か何も知らないまま、24時間一緒に車での旅を続けているのだから・・・。
スクリーン上では、2人のケンカと仲直りの様子や強盗に出会う被害の様子、その他さまざまな旅の中での人生模様が展開されていくからお楽しみに。そして、大変なのは、いよいよ近づいてきたジンガリナの出産。こればかりは男のチャンガロは何もすることができず、ある日、ある村で助けを求めてチャンガロが雪の中を走り回ることに・・・。
さて、ジンガリナの出産は無事完了・・・?旅は実にいろいろなことがあるものだと痛感したが・・・。
<出産、別れ、そして再生・・・?>
さあ、映画は時間的にもいよいよラストを迎えようとしているが、2人の旅はどんな形でラストに・・・?それをここに書いたのでは、この映画のテイストが台なしになってしまうだろう。
トニー・ガトリフ監督がこの映画ではじめて女性を主人公にしたのはなぜ・・・?それは再生をテーマとしたこの映画には、ヒロインがふさわしいと考えたため。したがって、トニー・ガトリフ監督は当然それにふさわしいラストを用意しているはず。そして、ここまで熱演を続けてきたヒロインのジンガリナも、ラストにはなるほどこんな再生があったのかという姿を見せてくれるはず。そんなあなたの期待はきっと裏切られることはない、と私は確信しているが・・・。
2007(平成19)年8月15日記