明るい瞳(フランス映画・2005年) |
<東宝東和試写室>
2007年9月4日鑑賞
2007年9月6日記
28歳のフランスの映画作家ジェローム・ボネルの、瑞々しい感性がキラリと光る秀作が登場!不器用でちょっとおかしな女の子は、がんじがらめの社会の中で一体どう生きていけばいいの・・・?言葉の通じないドイツ人の木こりの青年との間で生まれる心の交流はまるでおとぎ話だが、そんな中で実現していく心の再生とは・・・?そして、今日から彼女はどんなスタートを・・・?
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監督・脚本:ジェローム・ボネル
ファニー/ナタリー・ブトゥフ
オスカー(ドイツ人の木こりの青年)/ラルス・ルドルフ
ガブリエル(ファニーの兄)/マルク・チッティ
セシル(ガブリエルの妻)/ジュディット・レミー
アステア配給・2005年・フランス映画・87分
<フランスにもこんな新鋭映画作家が・・・>
去る8月30日に観た『キムチを売る女』(07年)は、1962年生まれの朝鮮族出身の「映画作家」チャン・リュルの第2作目の傑作だった。彼は、東アジアを代表する映画作家である台湾の蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)、韓国のキム・ギドク、日本の北野武、中国の賈樟柯(ジャ・ジャンクー)らに続く、「未来の巨匠」と絶賛されている映画作家。
そして今日9月4日に観たのは、1977年生まれのフランス人の映画監督ジェローム・ボネルの『明るい瞳』。彼は1作目の作品でシカゴ映画祭国際批評家連盟賞を受賞した後、ベルリン国際映画祭フォーラム部門に出品された第2作目の長編となるこの作品で、フランスの最優秀新人監督に与えられるジャン・ヴィゴ賞を受賞した、製作時28歳の新鋭監督。プレスシートの中にある、映画評論家中条省平氏のエッセイ『驚嘆すべき新人監督の登場』を読めば、彼がそのタイトル通りのすばらしい新人映画作家であることがよくわかる。
すなわち、おとぎ話のようなきわめてシンプルなストーリーの中で、人とのコミュニケーションがうまくできず、兄夫婦からも疎外されているヒロインの再生のサマが実に見事に描かれていく。
東アジアのみならず、フランスにもこんな新鋭映画作家が登場したことにビックリ!
<主人公はどんな女の子・・・?>
この映画の主な登場人物は4人のみ。この映画の主人公(ヒロイン)は、ジェローム・ボネル監督のミューズともいうべきナタリー・ブトゥフが演ずる、ちょっと、いやかなり変わった女の子、ファニー。もっとも女の子といっても、年は既に20・・・歳・・・?
彼女は、フランスの小さな村で小学校の教師をしている兄のガブリエル(マルク・チッティ)とその妻セシル(ジュディット・レミー)と同居しているが、とにかくどこかヘン。何がヘンなのか、ひとことでいうのは難しいが、とにかく突拍子もない行動をとることが多い。
弁護士業務を34年間もやっているといろいろな人間と出会うが、私もこのファニーのような変わった女の子に出会ったことが1度ある。ファニーや私が出会った彼女の行動がヘンなのは、不器用で自分の気持を表現することに慣れていないことに大きな原因がある。私は1度、その女の子に対して顔をまっ赤にしながらお説教をしたことがあった。そして、数分経った後彼女の反応をうかがうと、何とそこでの彼女の発言は、「怒っている先生って、ステキ・・・」というもの。そりゃ、一体ナニ・・・?私がもうそれ以上怒れなくなったのは当然・・・。
まずは、兄夫婦と同居しているファニーが示す、それと似たような(?)奇妙な行動の数々を楽しむところから、この映画の鑑賞をスタートしよう。
<ファニーの心にひっかかっていることは・・・?>
セシルにはファニーの行動が迷惑でならないが、夫の妹だからあまり露骨に文句を言うわけにいかない。そんな女が2人、1つ屋根の下に住んでいれば、その間に立つガブリエルが何かと大変なことは当然・・・。
ファニーがやさしい兄に対してただ1つ不満をもっているのは、お父さんのお葬式に参列できなかったこと。その話になるとガブリエルは決まって「お前はまだ小さかったから」と説明する。しかしその時ファニーは既に13歳だったのだから、その説明にあまり説得力がないことは明らか。どうも父親はドイツのどこかに、母親ではない誰かと一緒に葬られているらしいから、何かとファニーが勘ぐるのは当然。そんな有り様だから、ファニーは1度も大好きだった父親のお墓参りをしたことがないらしい。そんな心の中のひっかかりが、ある日ファニーをある行動にひき立てることに・・・。
<私は見た!とんでもない秘密を!>
セシルとガブリエルの夫婦関係は別に悪くない様子。しかしある日ファニーが町に出かけた時、とんでもないシーンを目撃することに。それはセシルがある一軒家の中である男性と抱き合っているシーン。これは、町で偶然セシルを見かけたファニーが、こっそりその後をつけていった結果なのだが、ファニーはなぜそんな行動を・・・?そしてセシルのお相手は一体ダレ・・・?
その点を追及していけば、この映画は全く別のドラマとなってしまうが、ジェローム・ボネル監督が描きたいテーマはそうではなかった。セシルが振り返った瞬間、ファニーはかけ足で逃げ去ったが、どうもセシルはそんなファニーの姿に気付いていたよう。したがって家に帰ってからは、2人の葛藤が続くことに・・・。その結果、ファニーが選択した道は・・・?
<チャップリンへのオマージュも・・・>
プレスシートによれば、この映画はもともと短編だったものを、ナタリー・ブトゥフのアドバイスによってジェローム・ボネル監督が長編モノにつくり変えたらしい。その結果、おとぎ話のような物語とシーンがふんだんに登場することに・・・。
また、車に乗って家を飛び出したファニーが「あるところ」に向かう途中、チャップリンへのオマージュとなるシーンが2カ所登場するので、それをお見逃しなく。その第1は、ファニーが1ダースもの色とりどりのイスを背中に背負って歩くシーン。第2は、ドライブインでカウンターに座っているファニーが、目にもとまらぬ早ワザで隣の客のパンを盗って口の中に入れてしまうシーン。この前者は、チャップリン監督のサイレント短編映画『チャップリンの道具方』(1916年)に、そして後者は、『犬の生活』(1918年)へのオマージュということだから、その正確な知識は、プレスシートやネット情報等でしっかりお勉強を・・・。
<フランス人VSドイツ人>
兄夫婦の家を車に乗って飛び出したファニーが今向かっているのは、ドイツ方面。そして目的地はそこにある父のお墓だ。なぜ今そこに行こうと思いついたのかは、正確にはファニーに聞いてみなければわからないが、きっとそれは彼女なりに1つの決断をしたため・・・?
それはともかく、昔からフランス人とドイツ人は対置される存在だが、この映画でも女性と男性という違いはさておき、フランス人のファニーと旅の途中で出会ったドイツ人の木こりの青年オスカー(ラルス・ルドルフ)とのアンバランスさが面白い。さらに人間にとって言葉が違うというのは、一般的には人間同士の距離を近づけるについてのマイナス要因だが、ファニーとオスカーの人間関係については、全くそれが逆だったというところが面白い。つまりファニーにとっては、いくら言葉が通じてもホントに思っていることを言葉でうまく伝えることができない不器用さが最大の問題点だったわけだが、元々言葉が通じないオスカーとの関係においては、ゼロからの出発。したがって身ぶりや表情で必要最低限のコミュニケーションがとれれば、それだけで2人の人間関係はプラスに働いていくわけだ。
ジェローム・ボネル監督28歳の作品は、そんなフランス人VSドイツ人という言葉の通じない面白い人間関係がポイント・・・。
<なぜ二人は結ばれたの・・・?>
ファニーがオスカーと出会ったのは、父親のお墓を目指して走る車がパンクしたため。つまりファニーはタイヤ交換もロクにできない女ドライバーの一人だったわけだが、運良くそこで木こりのオスカーの姿を発見したのはラッキー。もっとも、これは映画の脚本作り上のテクニックにすぎないが、そこから展開される2人の奇妙な共同生活の様子が、この映画のメイン。前述した「言葉の壁」を含めてはじめて出会った男と女が、互いに何をどこまで理解できるかは、難しいところ。ましてや、不器用なファニーは感情表現が苦手で、ややもすれば突拍子もない行動に出てしまう女の子だから大変なはず。ところが、なぜかファニーとオスカーの間のコミュニケーションは円満に進み、ファニーはそれまで兄夫婦の家では得られなかった安心感を得ることに・・・。
その原因の第1は、ファニーが都会と違う森の中という自然とうまくマッチできたこと。そして第2は、木こりの青年であるオスカーが自然と調和しながら生きてきたように、あるがままのファニーと調和しようとする努力を示してくれたこと。そして第3に、この森の中で2人が暮らすについては、都会ではたくさんの人間が住むために不可欠な規則やルール、制約がこの森の中では極めて少なく、自然のままに振る舞えば良かったということだ。
そんな状況の中、男と女が肉体的に結ばれていったのは、ごく自然の成り行き・・・。したがって、「なぜ二人は結ばれたの」という疑問や問題点は、この映画については不要なはず・・・。
<エンディングに拍手!>
87分という比較的短いこの映画は、ある意味でファニーの心のロードムービー。またある意味で孤独なファニーが森の中で出会ったオスカーとの間で恋におちるロマンティックなおとぎ話。しかしそんな映画であっても、ジェローム監督としてはこの映画にこめたそれなりのメッセージや主張があるのでは・・・?すると監督が示すそれは、一体どんなもの・・・?
そんな風に身構えるのも1つの見方だが、この映画に限ってはそれは不要。例えば、「そのままファニーとオスカーが結ばれ、森の中で一生木こりとして楽しく暮らしましたとサ」というエンディングでも悪くないのだが、それでは監督が1つの結論を観客に押しつけることになってしまう危険がある。そこで、ジェローム監督は、この映画のエンディングを、ファニーが再び車に乗って、新たな人生に出発するシーンとすることに・・・。
森に到着した時のファニーと、これから森を離れようとするファニーの表情は明らかに異なっているが、それはファニーのこれからの人生が、以前の人生と大きく変わることを期待させるもの。もちろん、人生はそれ程甘いものではないし、ファニーの性格が180度変わったわけではないから、これからファニーが生きていくのはなお難しいはず。しかし、わずか87分の間にファニーの大きな変化を感じとり、その再出発に拍手しようと観客が思えるのは一体なぜ?やっぱり映画はこんなふうに作らなくては、と実感させてくれた28歳の新人監督に拍手!
2007(平成19)年9月6日記