再会の街で(アメリカ映画・2007年) |
<ソニー・ピクチャーズ試写室>
2007年11月13日鑑賞
2007年11月14日記
人は忘れたくても忘れられないことがあるもの。チャーリーの場合、それは9・11テロで亡くした妻子の記憶。5年後、ニューヨークで再会した親友のアランはそんな彼になぜ執着を・・・?心の傷の癒し、再生は言うは易く、実現は難しいもの。男同士の魂の交流というテーマは地味だが、きっと心の奥にジンと響くはず。なお、ラストのアメリカ流「大岡裁き」にも注目を!
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監督・脚本:マイク・バインダー
チャーリー・ファインマン(9・11で妻子を失った男)/アダム・サンドラー
アラン・ジョンソン(チャーリーの同級生、歯科医)/ドン・チードル
ジャニーン・ジョンソン(アランの妻)/ジェイダ・ピンケット=スミス
アンジェラ・オークハースト(精神科の女医)/リヴ・タイラー
ドナ・リマー(女性患者)/サフロン・バロウズ
レインズ判事/ドナルド・サザーランド
ブライアン・シュガーマン(チャーリーの会計士)/マイク・バインダー
ジンジャー・ティンプルマン(チャーリーの亡妻の母親)/メリンダ・ディロン
2007年・アメリカ映画・124分
配給/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント 宣伝/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
<これは、男同士の魂の交流の物語>
この映画はひとことで言えば男同士の友情というよりも魂の交流の物語だが、その前提として、あの2001年の9・11テロで愛する妻子を失った男という人物設定がポイントとなる。この映画の舞台は2006年のニューヨーク。つまり、9・11テロから5年後だ。
歯科医として充実した毎日を過ごしているアラン・ジョンソン(ドン・チードル)は、美しい妻ジャニーン(ジェイダ・ピンケット=スミス)と2人の娘に恵まれ、家庭的にも幸せそう。そんなアランは、ある日車を運転中、9・11テロで家族を失って以降消息がわからなくなっていたチャーリー・ファインマン(アダム・サンドラー)をニューヨークの街で見かけた。彼はぼさぼさの頭、だぶだぶの服にペンキ缶をさげていたが、大学時代のルームメイトで、本来ならアランと同じように歯科医になっているはず。アランは車を停めて必死にチャーリーに呼びかけたが、残念ながらその声は届かなかったよう・・・。
<アランにも悩みが・・・?>
人の幸せとは容易にわからないもので、何ひとつ不平不満のないようなアランにもやはり悩みがあったよう。アランはそれを、アランのクリニックが入っているビルで開業している若き精神科の女医アンジェラ・オークハースト(リヴ・タイラー)の帰り際をつかまえて、「例の友人の件」として相談。すなわち、その友人は「幸せな家庭を持っているが、一緒に息抜きができる男友達がいないのが悩み」というわけだ。
同じビル内の顔見知りだからといって、ビジネス社会のアメリカでは、こんな「無料相談」はアンジェラにとって迷惑・・・?歯の治療をタダにしてくれるのなら、とアンジェラが反論したのは半分は冗談だが、半分は本気・・・?
<2度目の再会は・・・?>
アランがチャーリーと2度目の再会をしたのは、アランが娘を友達の家まで送っていった帰り道。ちなみに、仕事で疲れていたアランがリビングで休んでいるにもかかわらず、なぜわざわざ娘を送っていったのかは、「子煩悩だから」というだけの理由でないことは、賢明な観客ならすぐ気づくはず・・・?
それはともかく、「大学時代のルームメイトだったアランだよ」と言っても、チャーリーからは「アランなんて知らない」という意外な返事が・・・。それでも、チャーリーがアランを自分のアパートの部屋に連れていったのは、やはりわかっていながらわからないふりをしていただけ・・・?
しかしてその部屋の中は、まずど真ん中に大きなTVとTVゲームがあり、周りは中古レコードやドラム、ギターなどがいっぱい。これを見る限り、どうも彼は、9・11テロ以降愛する妻子を失った悲しみから立ち直ることができず、一人この部屋の中で孤独な生活を送っている様子。こんなチャーリーに対して、アランが何か役に立てることはないだろうか。そう考えたところから、この映画のテーマである2人の男の魂の交流がスタートするわけだが・・・。
<もう1人ヘンな女が・・・?>
この映画はチャーリーとアランの男2人が主人公。しかしそれにプラスして、アランがチャーリーの精神科医として女医のアンジェラを紹介したところから、チャーリーの心の再生にアンジェラが大きな役割を担うことになる。ところが、そこにもう1人ヘンな女がヘンな役割で登場し、最後まで大きな役割を果たすから、この美女ドナ・リマー(サフロン・バロウズ)にも注目!
彼女は最初、歯のホワイトニングを求めるアランの患者として登場するが、「どの歯にするか、先生におまかせします」ときたから、アランは困惑気味・・・?そのうえ、看護師が診察室を出た途端に、「先生を口で満足させてあげる」と露骨な愛情表現を示したため、アランが「出ていってくれ!」と毅然とした対応をしたのは当然。ところがその挙げ句、ドナは診察室でアランから性的暴行を受けたと主張して告訴すると言ってきたから、アランは大変。弁護士稼業でもこの手のケッタイな依頼者に出くわすと大変だが、歯科医もそれは全く同じ・・・。
こんなキャラの女性の登場はハリウッド映画でも珍しいが、これはやはり9・11テロ以降の新しい現象・・・?
<なぜこんなに男同士の魂の交流が深まったの・・・?>
この映画は男同士の魂の交流の物語だから、どちらかというと地味・・・?大学時代のルームメイトとか親友という関係はどこにでもあるものだから、2001年の9・11テロから5年後、偶然チャーリーと再会したアランがなぜそんなにチャーリーに執着するのか私にはよくわからないし、多くの観客も同じはず・・・?
その最大の理由は、仕事にも家庭にも恵まれているが、家は妻と娘2人だけで「一緒に息抜きできる男友達がいない」ということだが、そんな理由だけでホントに妻と対立してまでチャーリーとの交流にこだわるの・・・?そこがどうも明確にならないところが、スンナリこの映画のテーマに入っていけないもどかしさ・・・?
しかも、スクリーン上で観る限り、心がボロボロになっているチャーリーの言動はかなりヘンで、一緒にいれば相当疲れるはず。現に1度ならず2度、3度とアランもプッツン状態になっていたことは明らかだ。また、妻のジャニーンから嫉妬の言葉(?)を受けながら、男同士の交流を深めていったのは一体なぜ・・・?それをじっくり考えてみることが、この映画鑑賞の大切な視点・・・?
<美女の告白と美女との和解は・・・?>
弁護士も医者(歯医者)も、訳のわからない依頼者や患者とのトラブルは何年かに1度は不可避。さてアランは、性的暴行を受けたと主張するドナからの告訴に対してどのように対処するのだろうか・・?1つ面白いのは、アランのクリニックの経営形態で、チャーリーからのアドバイス(?)を受けたアランが、ある日昔の自分に戻って(?)大胆な改革を宣言するからそれにも注目!
もっとも、目下はあのヘンな美女ドナにどう対応するかが焦眉の課題だから、ドナから診察の予約が入るとアランはそれを拒否することなく受け入れて、今日は再度2人だけで診察室の中で対峙(?)することに・・・。一瞬ヘンな雰囲気になりかけた。それは、机の上にお尻を乗せたアランの両足にドナが手をかけながらひざまずいたから・・・?もっとも、ここでのドナの行動は口での奉仕ではなく、夫に裏切られ続けた不幸な結婚生活の告白だった・・・。そして、それを打ち明けたドナはアランに対して素直に自分のとった行動を謝罪したから、これにて一件落着・・・?
<後半はいよいよチャーリーの痛みが焦点に>
ある時、ある状況の下でチャーリーが話し始めたのは、3人の娘たちのこと、飼っていた犬のことや最愛の妻のこと、そしてあの日のこと・・・。人間は忘れたいと思って努力してもどうにも忘れられないことがあるらしい・・・?その悲劇を忘れさえすれば立ち直ることができるのだが、いくら忘れようと努力しても忘れられず、常に自分の頭の中に思い浮かんでくる以上、その人が新たな人生に踏み出すことができないのは仕方ないところ・・・。
前半は、もやもやしながらチャーリーのそんな心の痛みが暗示されていたが、後半に入るとその内容が具体的に提示され、チャーリーがそれと闘っている姿が見えてくる。もっとも、アンジェラがいくら若くて優秀な精神科医だとしても、クリニックだけでその心の病を回復させることは不可能だったよう。その挙げ句、ついにチャーリーはある日拳銃をもってバカな行動をとったため、警察に逮捕され裁判を受けるハメに。さあ、こうなると弁護士坂和章平の映画評論の出番だが・・・。
<大岡裁きとは・・・>
時は江戸時代。一人の子どもを二人の女性AとBが「私こそこの子の母親である」と主張して奪い合う事件が発生した。それを裁くお奉行様(裁判官)は、ここで「子どもの手を引っ張り合い、勝った方を本当の母親と認める」と無茶な要求を。AとBが同時に子どもの両手を引っ張り合ったから、子どもがたまらず泣き出したのは当然。そこでBが手を離したためAが勝ち誇っていると、お奉行は「Bが本当の母親だ。なぜなら本当の母親なら嫌がる子どもの手を無理に引っ張るはずがない」と判決した。これぞ、人間の本質に着目した名奉行の「大岡裁き」というものだ。
<これぞ、アメリカ流「大岡裁き」!>
今、裁判官レインズ(ドナルド・サザーランド)を前にして争われているのは、チャーリーの処置をどうするかということ。つまり、社会復帰の可能性があればそれを援助する方策がとられるべきだが、逆に社会に放置するとヤバイとなれば、彼をそれなりの施設に隔離する必要があるということだ。日本では今、広島高裁で山口県光市の母子殺害事件における犯行当時18歳の被告人の刑罰をどうすべきかをめぐって国民の関心が集まっているが、事件の大小こそ大きく異なるものの、基本的には同じような問題点・・・?
結論は裁判官の判断に委ねられるわけだが、チャーリーをそれ相応の施設に収容すべきと主張するのは、一方の専門医師の証言を根拠とするもの。他方、アンジェラの証言を根拠としてチャーリーには心の再生が必要だと訴えるのが、アランたち。この裁判がいかなる法律にもとづき、いかなる手続で行われているのか、弁護士の私にもよくわからないが、その様子は私もはじめて観るもので面白い。しかも、この裁判長が見せる混乱した法廷の訴訟指揮のとり方やしかるべき結論を導くための和解のような処置にはビックリで、「これぞアメリカ流大岡裁き!」ともいうべきもの。しかして、その結末は・・・?
これは是非、日本の法科大学院でも興味深い教材として活用しなければ・・・?
2007(平成19)年11月14日記